第02話「酒精」

「なあ、あんた」

「ユリーシャだ。次にそういったら私は返事をしないぞ」

「いったい、どういうつもりだ」

「質問の意図が読めない」


「意図もなにも……ああ、くそっ。とにかく、ユリーシャは今回の結婚に関してどう考えている。だいたい、俺のことをどこまで知っているんだっ」


 俺が癇癪を起したようにいうと、彼女は平然と顔色ひとつ変えずに答える。


「なにをそんなに怒っているのかは知らないが、ジラルドも私のことを知らないだろう」

「それは――ッ。そうだが」

「ならおあいこだな」


「じゃ、なくて。いきなりこんなふうに猫の子みたいに送りつけられて、不満はないのかっ」

「不満もなにも。私は義父上に、正式な媒酌人は立ててあるから、そのうち両者が納得したら王都まで来いといわれてただけだ」


 ユリーシャがきょとんとした顔で俺を見た。

 ああ、そうなのだ。こいつはなりはデカいが中身はまだ小娘なのだ。

 結婚は家対家。彼女は両親にいわれるがまま、なんの疑いも持たずここに来たのだ。


 俺の生まれは名のある家でもないし、若いころ故郷をおん出た父には親戚らしい親戚もロクにいないが彼女は違うだろう。


 なにしろ俺の経歴と上っ面にかけられた勲章の重さは、同年代を見渡してもまずいない。


 “火神”の名も地に落ちたといえど、地方においてその功績は十二分に通用するはずだ。


 父は、このような小娘をかどわかすも同然に連れてきて、馬の種つけよろしく俺との既成事実ができてから教会に報告しようという腹積もりであるのだろうが、ユリーシャの無知につけ込むようでどうとも気分が悪いのだ。


「あのなユリーシャ。父にどのように吹き込まれたのかは知らないが、俺がもてはやされたのは、こんな僻地に飛ばされる前のことだ。必死で俺に尽くしても上手い見返りもなきゃ、出世の見込みもないぞ。残念だったな」


「知っているぞ、そんなことは」

「ちょっと待てよ。本当に理解しているのか?」


「祖国統一戦争で大武勲を上げ“火神”の二つ名で呼ばれるほどの大英雄であったが、今は尾は打ち枯らして――とと、阿呆な上官に睨まれ、都の人々の俎上にも上らなくなったジラルド・ルフェ。それが私の夫の履歴書だ」


「そこまで知っていてなんで。あれか? おまえは、かわいそうな元英雄を慰めようと自己犠牲に浸りたい勘違い女か?」


 それならば納得がいく。以前から、そういう頭のおかしな博愛心に富んだ頭のネジが二三本ぶっ飛んだ娘――多くは修道院のシスターが多かった――がこの村に逼塞する俺の噂を聞いて定期的にやってきたが、残らず丁重にお帰り頂いたことがあったのだ。


「だとしたら残念だとしかいいようがない。俺にどんだけ奉仕しても見返りはないぞ。つまりはうまい汁は吸えないってことだ――」


 やれやれまたこの話か。

 つまるところ、大抵の人間は俺を見誤っている。どう唆されたかは知らないが、まだ“火神”の看板に釣られてホイホイやってくる人間はあとを絶たない。


 なかには完全にいっちゃってて、堕ちた下層民に仕えて自虐の快感を得る変態嗜好の女もいるが、そういう方は腕づくでも帰ってもらっていた。


 なんというか、自分でもこの心変わりの早さは恐るべしだが、どっちにしろ俺も心が欠けてしまった人間なんだろう。


「うまい汁かどうかはわからないが、そういことなら昼食はちゃあんと汁物にしておいたぞ。さ、早く早く」

「おい、ちょっと待て。おまえは俺の話をだな、きちんと聞いて理解しているのか」


「ああ、とっても理解しているぞ。さ、急いで。スープが冷めてしまう」

 ユリーシャはにこと、いかにも楽しそうな笑みを浮かべ、とんと俺の背をつついた。


 いぶかるように彼女を直視すると、彼女は途端に怒ったように顔を赤らめぷいとそっぽを向いてしまう。


 なんだかな、と思いながらも台所の隣の部屋に行く。そこは、長らく空の酒瓶が林のように立っていたのだが、長きに渡った俺との共存関係を一方的に打ち切ったように彼らの姿はついぞ見受けられなかった。


「ジラルド。ゴミをためるのはよくない」


 そうじゃないユリーシャ。彼らはトロフィーなんだ。俺は幾千幾万の長い夜を彼らと越えてきて、その結果勤めを終えた亡骸を安置するようにテーブルの上に並べておいたのだ。


 自らの胃の腑の強靭さと翌朝やってくる二日酔いに怯えながら彼らの透き通った胴体を眺めるとき、費やされた金銭と時間とにさよならを告げる悲しき感慨――もっともこのような男の美学をユリーシャが理解を示すとは思われないので、ひたすら沈黙を守った。


「ゴミは捨てよう。私との約束だ」

「わかった。ゴミは捨てる」


 できるだけ、と心のなかでつけ加えながらテーブルに着いた。


「待っていろ。今、熱々なやつを用意するからな」


 俺は決して他人の意見に流される性質ではないが、ユリーシャの言葉とジッと正面からこちらを見つめてくる瞳には妙な魔力が籠っていて、どうにも逆らえない。


 しばらくすると、食卓には湯気がほくほくするポトフとコテージパイ、野菜のサラダにうで玉子、大豆のトマト煮が並んだ。

 ユリーシャは堂々たる長身で俺を見下ろしながら目を細めている。


「材料の買い置きなんてどこになかったはずだが」

「ジラルドのメダルが役に立った。近くのお店で買い物をしたら、みなよろこんで譲ってくれたぞ。あなたは村の人たちに慕われているのだな」


 ユリーシャが銀の騎士証をかざしてうっとりとした目つきをした。ああ、そういえばそんなもんを渡した気がしたが。


「ちなみに店ではなんと聞かれたんだよ」

「ん。今日からジラルドさまのお世話をするよう王都から参ったといっておいたが」


 なんだか、ほっ。

 たぶん村人はユリーシャをただの下働きかなにかだと思ったのだろう。

 彼女がメイド服姿で行動しているのもラッキーだった。


 もっとも、こいつが俺の嫁を自称しようがメイドだろうか、暇なやつの多い場所だ。

 今日の夜には、全員が知るところになっているだろう。


「見てないで早く食べたらどうだ。冷めてしまう」


 これでマズかったら文句をいってやろうとかぶりついたが、悔しいことにどれこれも恐ろしいほど美味かったのだ。

 味が深いというか、バランスが非常にいいのだ。


 酒の飲み過ぎて半分死んでいるといえる馬鹿舌がとろけるように、個々の素材がしっかりとした輪郭で脳髄を痺れさせる。


「気に入ってもらえたようだな」


 気づけば俺は余すことなく出されたものをぺろりと平らげていた。

 悔しくて子供みたいにスプーンを空皿に投げつけ鼻を鳴らす。精一杯の抵抗だった。


「は。俺は痩せても枯れても軍人だ。どんなもんでも食っちまう癖がついてんだ」

「そのわりには飢えた獣のように豪快だった」


「軽蔑したか? そうだ、俺は飢えたケダモノみたいな男だ。ひとついっておくが、俺の嫁になるってことは、夜になれば嫌ってほどおまえのことをかわいがってやるってことだ。いいか、覚悟しとけよ。それこそ、娼婦ですら恥ずかしがるようなやり方でおまえをイジメてやるからなっ。それが嫌なら――」


 そこまでいって息を呑んだ。

 ユリーシャはリンゴみたいにほっぺを赤らめ視線をせわしなくあちこちにうろつかせている。


「か、覚悟はしてきた。ふ、夫婦の営みはだ、大事なことだからな。ただ、まったくそういうのは不得手というか、わからないので、なにもかもおまえに従うぞ」


「あ――いや」


 脅して怖気づかせ、自分から距離を置かせようと画策したのだが、これほどまで覚悟を決められているとなると、こちらもどうしていいかわからなくなる。


 い、いや。もちろん俺は童貞ではないが、最後に女を抱いてから何年経ったか自分でも覚えていないくらいだ。


 そもそも俺はユリーシャをどうしたいんだ。

 追い出したいのか? それともそばに置いておきたいのか?

 思考が蜘蛛の巣に絡めとられたように判然としなくなる。

 とりあえずは、だ。こういうときには例のやつ。


「一杯やってから考えよう」


 俺は立ち上がると中身の詰まった酒瓶が並べてある、ろくに料理もせず物置と化してある台所に移動したが、そこで逆さになった朋友たちを目にし、仰天した。


 ない――まさか、どれもこれも空なのだ!


 酒がない。馬鹿な。いつの間にか、自分で知らぬうちに飲み干してしまったのか。いいや、そんなわけない。見れば酒瓶は綺麗に口が切ってあり、鼻を近づけるとぷうんと香しき酒精の名残が漂ってくる。渇きが余計に強まり、俺は野良犬のようにあえいで舌を伸ばした。


「酒ならない。全部捨てた」


 ――は!

 なにを勝手なことをしてやがるッ。


 小娘相手に、俺はまだ怒鳴り散らさない余裕を保持していた。自分でも驚きの耐久力だ。


「ちなみに、ユリーシャくん。それはどういった理由でかい?」

「あなたは酒を飲み過ぎる。一旦、すべて抜いたほうがいいと判断した」


 捨てた。捨てたのか。俺の命を。あまりのことに頭がクラクラする。


「おまえは人のものを勝手に捨てる権利をどこから得たんだ」

「人のものじゃない。私たちは夫婦で家族だ。あなたが身体を壊すのは忍びない」


「余計な、お世話」


 気づけば歯を剥いていたのか。俺はサッと手のひらで口を覆った。これじゃ本当に野良犬だ。


「先にいっておいたはずだ。どんどん口に出すし、行動にも移す」

「酒を捨ててくれなんて頼んでない」

「そうしたほうがいいと判断したのだ」


 俺はかなり殺気立っていたのだろう。気づいて、わずかに反省したのだが、ユリーシャは動じることなく立ったまま俺の目を直視していた。


 妙だな、と思う。自分でいうのもなんだが、キレた俺の目は相当にやばいらしいと、戦場をともに回った同輩に聞いたことがある。


 ユリーシャ少々背が高いだけの小娘なのに妙に落ち着き払っている。吠えてしまってからいうのはなんだが、戦場で血濡れた俺の胴間声は並みの男でも一括する力はあるだろう。


 無神経なのか、それともこっちが手を出さないと決めてかかっているのか。


「もういい」

「なにがもういいのだ? こういうことはきちんと話し合いたい」

「話すことはねーよ」

「そういわれると寂しいのだが」


 俺はわざと足音を大きくして玄関口に向かった。


「ジラルド、酒はないが食後の茶を用意したぞ」

「いらん」

「どこに行くんだ?」

「仕事だよ」


「そうか、遅くなるのか? 夕食を用意しておくがなんどきくらいになるのだ」

「そのときどきでわかんねーよっ!」


 怒りが全身を支配している。アル中だ。そうだ、俺は酒精の毒で頭のなかが完全にやられているのかもしれない。


 煮えたぎった頭のなかで思い返せばこれじゃ犬も食わない夫婦喧嘩だ。

 冷静な思考など保てぬまま、詰め所に向かう。


 国境線を守る長城は、長く南北に伸びていて、いざというときの敵国――この場合、隣接しているユーロティアにほかならないのだが――に対して、容易に兵馬や物資を動かせぬよう城壁が遮っている。


 俺たち国境警備騎士団が詰め所と呼んでいる場所は、その壁に付随して作られた内側の便宜的指揮所だ。


 あそこには、いざというときのため、二級酒であるが備蓄品が置いてある。


 途中、厩舎に寄って、王都から唯一連れてきた愛馬である散星号の様子を見た。


「どうだ、相棒。調子のほうは」


 柵に近づくと俺の姿を認めてか、寄ってきて小さくいななく。

 散星号は栗毛の馬だ。


 額の部分にばら撒いたような白点があり、名前はそこから取った。

 王都を出たときは元気いっぱいだったこいつも、今年で十一歳。

 手入れは欠かさず行っているが、これに乗るときは朝夕の見回りくらいである。

 鼻面を寄せてくる相棒とひとしきり語り合ったのち、詰め所に向かった。


「うわっと――! へ、へへ。これは隊長どの。今日もご機嫌うるわしく」


 詰め所のなかでは案の定、チャーリーたちがひたすら駄弁りながら一杯やっていたのか、赤い顔で背中に酒瓶を素早く隠すのが見えた。

 軍の規律、崩壊極まれりだ。


「ちょ、なに怒ってるんですか。こ、これはその、おいらはやめようっていったんですがね」

「げ、ずるいぞ。チャーリーっ。てめぇばっかいい子ぶりやがって!」

 俺と同じくらい背丈に恵まれなかったトマスが泡を食って責任転嫁をはじめる。


「出せっ」

「な、なんのことやら」

「いいからつべこべいわずに背中に隠したもんを出すんだよッ」

「ひっ。す、すみませーんっ」


 目を怒らせて怒鳴ると、青い顔をしたチャーリーが飲みかけていた二級酒の瓶をそろそろと渡してきた。咎められると思っているのか、三人のなかでもっともヘタレなスタックは泣きそうな顔をしている。


 俺は瓶を受け取るとラッパ飲みであっという間に残り半分を撃破してやった。

 途端に、チャーリーたちは追従笑いをはじめ、主の機嫌を窺う犬のように尾を振るように、飲みのよさを褒めたたえ出した。


「スタック。アテを買って来い。今日は開店休業だ」

「へ、へへ。へいっ」


 俺が銀貨の詰まった革袋を投げつけると、怠業していることを咎められないと知った馬鹿どもが群がって機嫌を取り出した。


「な、なんですか隊長。今日は無礼講の日っすかね」

「るせーな。俺は将軍さまだぞ。おめーら兵卒どもは飲めって命令が出れば黙ってつき合うの仕事ってもんだ」


「へ、へへへ。こ、これはまた手厳しい」

「トマス。軍人たるもの、酒樽のひとつやふたつ飲み干してなお、敵兵をぶち殺す気概がなきゃな。いい兵隊とはいえんのだ。わかったらチビチビ飲まずに、ガツンと行けや」


 途端に酒宴がはじまった。

 だが、こいつら基本的に人のいい農夫であり、昼間から飲むなどとは気が咎めるのだろう。


 いまいちノリきれてない感が強い。

 馬鹿な。サボるときサボらんでどーすんだよ!

 もっともそんな屑みたいな無法が通用するほど世のなか甘くはなかった。


「たーいちょう。あたしと見回りするって約束しましたよねーえ?」


 三馬鹿トリオががたがたと椅子を揺らして窓目指して一直線に逃げていく。

 しまった、完全に逃げ遅れました。

 詰め所の入り口には、悪鬼のような形相のハンナがことさら甘い猫撫で声を出していた。


「なーんで、それなのにぃ。堂々と昼間っから酒喰らってんすかねぇ」


 そんなこと知らない。まあ、ストレス社会が悪いというか、うん。

 あ、ちょっと待て。話を聞いて欲しい――。


 このあと、俺はハンナによって鼻面を引き回され、せっかく身体に入れた酒精を残らず汗とともに放出してしまった。






 ピンチのときほど逆転の目がよく見えるとかつて博徒の親分に聞いたことがある。


 それを聞いたのは、俺がまだ戎衣が肌に馴染むか馴染まないかのころ、野営したテントのなかだったのか。


 祖国統一戦争も終盤だったころだから、王太子を戴いた軍は勝ち馬に乗ってはいたものの、叛軍の勢いは前線ではまるで衰えたように見えず、確かぶ厚い包囲を抜け切れず死を覚悟した夜だったのかもしれない。


 海千山千の元ヤクザ者の領袖がいいだすくらいだ。確か、十五か十六くらいだったか。


 あのころは幾番寝なくても疲れというものを知らず、どれほど追いつめられても死という概念は自分とは無関係だと信じ込んでいた。


 だが、実際追い込まれたときに、周りがよく見渡せるような人間は皆無に近い。


 人は死が間近に迫れれば迫るほど意識が死を忌避して遠ざけようとし、差し迫ったことを深く考察できぬようなにかが働くからだ。


 崩壊は、そこにあり敗北を冷徹に見つめ続けることのできる者は、どこかしら壊れている。


 その壊れたなかで、どれだけ敵のミスを探れるか――。それが逆転の目だと俺は思う。


 要するに、そこまで追い込まれれば、あとは敵が万が一にも犯すミスを待つしか手は残されていないのだ。

 抜群の奇跡を祈るしかないとなれば、それは人の手に余るだろう。


「あの、あたし隊長がなにをいっているかこれっぽっちも理解できないんすけど」

「要するに、あの時点で俺はハンナから逃げ切るには、自分で起こす以外の運の要素が必要だったといいたいわけだ」

「はあ、酔っぱらいの話なんかまともに聞くんじゃなかったす」


 俺たち酔いどれならず者団――もといロムレス国境警備騎士団は、いつもどおり適当に軍務を切り上げると、村に一件しかない飲み屋で管を巻いていた。


 パブは一種の村の社交場だ。ここは日付が変わるくらいまでやっているが、不思議なほど年寄りから若者が満遍なくあちこちの席を占領し、ガラガラになるということがない。


 俺たちは、はじめ固まって座っていたが、時間が経つに連れてバラバラになっていった。


 で、今は俺とハンナがカウンターに並んで座ってサシで飲んでいる。村人たちも、妙に気を使っているのかあまり話しかけてこないのはちと寂しい。


 俺自身は、べらべら喋りながら杯を重ねるのは好きじゃないが、話の聞き役に徹するのは好きなのだ。


 一応ハンナがぐだぐだ文句をいうので、詰め所にトマスを残してある。

 しかし基本的に俺をはじめとする四名すべてがそろった戦力の七十五パーはここに集結している。はは、そう考えるとこのパブは村一番安全な場所ということになるな。


「はぁ、そもそも隊長も王都の方々も気を抜きすぎじゃないすかね。ここって、ユーロティアと停戦がなるあたしが生まれる前は、兵隊さんが山ほど詰めていたんでしょう?」


「ああ、ほんの三万ほどな」

「で、今は五人! なんすか、王宮の方々は頭カラッポなんすかね。ほんの二万九千九百九十五人ほど少なくなってますよ。たった五人て、誤差の範囲じゃないですか。いや、認識できないかも」


 それをいっても仕方ない。意味のないことはしないと俺はここに放り込まれてから悟っていた。


「とりあえず一番近い街には、五〇〇〇ほど歩兵が詰めているし。それで充分だとお偉方は判断しているんだろうな。死にていの王宮は緊縮財政が求められている。今は兵隊が余っている時代なのさ」


「でも、西方では賊徒の反乱が絶えないと」


 ハンナがいっているのは、数年前領地の遥か彼方で起きた西蛮といわれるステップエルフたちが起こした反乱だろう。


「数が十万と多くても、鋼鉄製の武器がそろった王軍にはかなわないだろうな。いや、むしろ散発的に起きる反乱は、ぐらついた王権を誇示するには格好のお相手といえるんじゃないのか」

「でも、それで苦しめられるのは、やはり弱い民なのでは」


 ハンナはこんな村に置いておくのは惜しいほど学がある。

 もし、俺が以前のように軍のなかで権威を保っていられれば、それなりの地位に推薦してやれたのにと思うと、やはり酒が進んでならない。


「おい、ハンナ。手が止まってるぞ。もういかんのか」


 グラスを押しつけると彼女は形のよい鼻をつんと上向きにしてせせら笑う。


「あのですね。あたし、村育ちですよ。ぼんぼんの隊長と違って、こんなもんは飲んだうちに入らないっす」

「じゃあ、まだイケるか。あはっ。そーかそーか。おまえも俺の好みの女になってきたな」


「またそうーいう嫌らしいことをいうっすねぇ。目がエロいっす」

「大丈夫だ。おまえ相手じゃそういう気にならん」

「それはそれで傷つくんすけど」


 よし、どうでもいっから朝まで飲むか。

 俺は店が閉まるまで通飲し、そのあとは懲りずに詰め所に戻ってハンナを酔い潰し勝ったとこまでは覚えている。当然ながら艶っぽいことは起きなかった。順当。






 日の出とともに帰宅し、妙に綺麗な扉を見てなにかを思い出しそうになった。


「あーなんだったんだろか」


 ぎい、と扉を開くと混濁していた記憶が徐々に回復し、次の瞬間部屋で椅子に座って料理を寂しそうに眺めていた娘の顔に、泣いた涙の筋を見つけたとき、一瞬で酔いが醒めた。


「あ、すまないジラルド。出迎えもせずに、私としたことが」


 ユリーシャのことを完全に忘れていた。

 口中に苦いものがどっとあふれて、額から凄まじい汗が流れ出す。

 彼女は俺の酒臭さに気づいているが、怒りの影すら見せずにこやかに笑って見せた。


「飲んでいたのだな、よかった」

「よかったって、なにが」

「あんなふうに出て行ったから、もう私のことには愛想が尽きたのかと思って、よかった」


 俺は馬鹿だ!


 同時にユリーシャも馬鹿だと思う。こんなくだらない男をなにが楽しくて一晩中待っていたのだろうか。


 違う。そもそもこの村に来た時点で、彼女の退路は断たれているのだ。

 ユリーシャの目には、犠牲的奉仕を好む教信者の熱っぽさはなく、どこまでもフラットな至極普通な、嫁いできたばかりのぎこちない新妻の不安感しかなかった。


 第一婚姻などは、家同士が決めるのが当然なのに、俺は開明的な軍のなかで男女の兵士が自由恋愛ののち婚姻に至るのを見過ぎて、そういった通常の観念からいつしか自分がかけ離れた存在になったと、特別視していたのだろう。


 彼女がどんな気持ちで俺を待っていたのか想像ができないわけじゃない。

 俺の父も若いころは軍人だった。


 母がたまの休日に父が飲んだくれるため街に出て、それでも気が変わって帰ってきてくれるのではないかと、せっせと手料理を作って虚しく夜を超していたことを、どうして記憶のなから意図的に追いやっていたのだろうか。


「すまない、冷たくなってしまったな。朝からこんな重いもの無理だろうし。今、軽いものをなにか作るから待っていてくれ」

「いや、いいよ」


「そうだな。はは、でもなにかなにか私にさせて欲しい」

「そうじゃなくて、俺はこれでいいよ」


 正直飲み過ぎて胃はむかむかしていたが、目の前に並んでいた料理が酷くいとおしく思えてならなかった。


 俺は手づかみで、鳥の丸焼きだの牛だの魚だのを次から次へとやけになって腹のなかに放り込んだ。


「ジラルド、無理はしないでくれ! 私はおまえの身体が心配なのだ」

「馬鹿いうな。俺は若いころから戦場で鍛えてきたんだ。ふん、この程度の量、たとえ腹が裂かれていても平気でぺろりだ、ぜ」


 無理が通れば道理も引っ込む。

 ともあれ、味づけは悪くないのなら、食べられるに決まっている。

 残らず平らげるとさすがに苦しく、俺は椅子からすべり落ちるようにして床に転がった。


「ジラルドっ」


 慌てた顔でユリーシャが駆け寄って、そっと俺の身体を抱き起した。うん、立場が逆だな。


「なんで、こんな馬鹿なことを」

「腹が減っていたんだ」

「え」


「朝になったら飯を食う。誰だってやってることだ」

「ん。馬鹿みたいだ」

「だろうな」

「でも、ありがとう」


 泣き笑いのようなユリーシャの顔を見て、いつしか俺も苦し気に笑みを浮かべていた。

 この女、それほど悪くないかもしんない。






「意地悪をいうのではないが、やはり酒を控えたほうがいいと思う」

「禁酒か」


 俺はユリーシャの淹れる茶を啜りながら、頭のなかをゴリゴリいわせている二日酔いを思って宗旨替えしそうになった。


「できるかなぁ……」

「できるかな、ではなくやり遂げるという強い意思が必要なんだ」

「そうはいってもよ、実際むつかしいよな」


 まさに今の俺は酒に飲まれているといっても過言ではない。

 元々は、尾羽打ち枯らした零落の英雄を気取って飲めぬ酒に手を出していたのだが、二十になるころにはそれが立派な習慣となって根づき、今はこれなしの生活は考えられない。


「酒のなしの生活なんて考えられないんだよ」

「なにか、ほかに打ち込むことがあればいい。そうだ、酒の代わりといってはなんだが……その……」


 元気よくはきはき喋っていたユリーシャが途端に口籠った。


「いいたいことがあるならはっきりいえよ」

「そのう、わ、私を酒の代わりにかわいがってくれればいいんじゃないかな……」

「おまっ、な、なにをいきなりいってるんだよ」


 なんというか、彼女のような長身のクールビューティーさんがもじもじしながらいうと、もの凄い迫力があった。


 待て、落ち着け。

 こいつは、一応俺の嫁候補……みたいなものだ。

 だとしたら、ここで手を出してもなにも問題はないのじゃないか。


「落ち着け、流されるな、俺。雰囲気に流されるな」

「ジラルド、ああいった手前、前言を翻すのもなんだが、いきなりそう近づかれると怖いのだが」

「あ? あーっ!」


 気づけば俺は席を立ってユリーシャを壁際に追い詰めていた。

 背の高さは俺より頭ひとつ分以上高いのだが、やはり身体の厚みは女のそれだった。


 格好つけておいてなんだが、この身長差ではキスをするのにも彼女が同意して身をかがめてもらわねばなにもできない。虚しくなって頭を掻いた。


「わ、悪い。俺としたことが気の迷いだった」

「待ってくれ、ジラルド。私は――」


 きびすを返した俺の髪をユリーシャがぐいと引いた。

 悪気はなかったのだろうが、俺はバランスを崩しかけ慌てて床に踏ん張るが、今度は反対にユリーシャがぐらりと前のめりに倒れ込んできた。


「きゃっ」

「どわっ!」


 慌てて受け止めようと反転したが、身体の大きさも重さも彼女のほうが上だった。


 俺は仰向けにぶっ倒れると、むにゅっとした重みで顔面をふさがれ呼吸困難に陥った。


「あっ……そんなっ。いきなり、そんなところ、ダメだ……」


 水に落ちた犬のように必死でジタバタと暴れた。

 なんとか身体に伸しかかった彼女を押し上げようと、両手に掴んだものを懸命に絞ると、ユリーシャは「ひうっ」と切なげな声をほとばしらせたので、不可抗力でちょっとおおっぴらに口にできない部分がカチンコチンに元気になった。


「ジラルド……腿にっ……硬いのが、当たってる……」

「ば、馬鹿っ。変な声出すな、こっちまでおかしな気分になるじゃん、か」


「胸、痛いよ……強くしないで……」

「あ、え! ごめんっ、すまんっ!」

「たーいちょっ! また起きれないんじゃないかと思ってかわいい部下が様子見に来てあげたっすよ――お?」


 揉み合っていたからまったく気づかなかったが、扉をがちゃこと勢いよく開けてハンナが勝手に部屋に入ってきたことは、俺の運の尽きといったところか。


「隊長、なにをしてらっしゃるんですか」

「あ、朝の運動だ」


 ハンナの目は道端に吐き散らかされた汚物を見るよりもはるかに冷たく硬質だった。

 





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