酔いどれジラルド
三島千廣
第01話「花嫁」
もうこれで何度目の二日酔いだろうか。
頭のなかは冷え切っているのに、身体は熾火のようにカッカッと熱を保っている。
俺は腹の上にある厚ぼったい毛布を跳ね退けると、室内に漂っているひんやりとしたかび臭い空気で全身を冷却にかかった。
ああ、まただ。もう意味もないのに飲み過ぎたことを後悔している。
そもそもが毎朝二日酔いの状態なのだから、そのようなことに思い悩むこと自体が無意味なのに。
けれど、こうして静寂に満ちた場所にいると、たとえようもなくその存在自体に我慢できなくなってくる。
季節は春だ。表に咲いているジンチョウゲの花の香りが、開け放たれた窓からほのかに漂ってきて、わずかばかり気持ちが和んだ。
夢うつつのまま風の音を聴いていた。こうして、半分死んでいるような朝の時間が俺は一番好きだった。目を開ければ現実を見なければならないからだ。
昨晩も、仕事をしましたとは口が裂けてもいえないほど無気力な時間を空費したあと、村にひとつしかない酒場に行ってしこたまきこしめした。
そばにはチャーリーやスタックもいたが、やつらは俺を止めることはできなかったようだ。
なにせ、こう見えても俺は、ただの飲んべいではない。
誇り高きロムレス王軍の「東征安鎮将軍」さまと呼ばれる重鎮だ。書類の上では。
隣国との国境線を隔てる長城を守る大命を下されこの地に赴き幾星霜。
そういえばかれこれ七年にもなるのか。年は取りたくないものだ。
とはいえ、はるか昔に和睦の条約が締結してから、我が国と隣国ユーロティアは仲睦まじきこと夫婦のごとく、互いに潜ませた爪の先っぽすら見せていない。
かりそめでも平和だ。なのでこうして馬鹿みたいに安逸を貪っていることができる。
だいたい、この砦の兵隊は俺を含めて五人ぽっちしかいない。
こんなんでなにをどうやって守ればいいというのだろうか。野盗を狩り出すにも、百姓に毛の生えた小貴族や土豪たちの手を借りねば治安維持もままならないのが実情だった。
肩書だけは御大層なお飾り将軍を据えて置くだけってのは油断を通り越して、軍上層部の罪悪としか思えない。愚痴ばかりがこぼれても世界は変わったりしないのにな。
要するに、ロムレスの国民は戦争にうんざりなんだろう。
この長城のことも村のことも考えたくもないって寸法だ。
彼ら平和を愛する良識人たちは、万が一にも同盟国であるユーロティアが方針を変えて国境線を侵すなどと想像したくもないのだろうね。
つまりは言霊ってやつだ。口に出さず、脳裏に浮かべず、目を背けていれば現実を見なくてすむと考えているのか。
ここから離れた場所には、こじんまりとした幾つかの城郭都市があるが、万一はそれらの兵でなんとかするつもりとしか思えない。場当たり過ぎだろう。
ああ、また愚痴ばっかりだ。
せっかく、気持ちよくとろとろしていたってのに。
いつでも不安は頭のなかに山積していて鬱陶しいったらありゃしない。こちらが興味のないふりをしていても、どっかに隠れるといった気の利いたことはしてくれない。
俺は、ここに来た日から嘘をついている。誰にだろうか。
「あーくそ。酒の残った頭で余計なこと考えるんじゃなかった」
しばらく窓から入ってくる花の香りと、そよぐ静かな風の音を聞いていたが、次々と浮かんで消える雑念に、我慢ならなくなってベッドから身を起こした。
軍装のまま寝ていたので、あちこちがガタピシ痛む。それよりも緊急事態だ。
激しい尿意はそこまでやってきていた。膀胱は破裂寸前だ。よろめきながらトイレに行って用を足すと、桶の水をがぶがぶとやって再びベッドに倒れ込んだ。
鬱陶しいくらいの朝日が差さないとなると、この暗さは曇りだと推察できる。
俺は天気のなかで、曇りが一番好きだった。
どこか物悲しくて、晴れの太陽のように攻撃的でもなく、また雨のようにブーツのなかを濡らさないので、ほどよく静かな心持ちでいられるからだ。
俺が頭のなかに宿っている酒精の神を懸命に鎮める儀式に没頭していると、玄関口からドンドンとウザったいくらいに押しつけがましいノックの音が聞こえてきた。
そうか。昨日に限って無意識にカンヌキをかけたのか。
それに将軍たる俺の借家までやってくるなんて、先月面白半分に駐屯兵に取り立てた小娘のハンナに決まってる。
ハンナときたら、やれ将校なら将校らしく部下の手本になるような恰好をしろだのなんだのと古女房染みた態度で家まで押しかけてくる次第だ。
現に、今日で百日間連続遅刻の偉業を達成しようというのに邪魔するなんてありえない悪魔的所業だといえよう。
馬鹿馬鹿しくて仕事なんぞ真面目にやってられるか!
飲んで昼頃までゴロゴロして、思い出したようにふらふら詰め所に顔を出すのが俺の責務である。
昨日、涙目になるほど怒鳴ってやったから、数日はおとなしくしているはずだと高を括っていたが、なかなか根性はあるみたいだ。評価はできないけどな。
「うるっせーな! 今、俺はいねーよっ!」
酒で焼けた喉を嗄らしてこれでもかとばかりに叫んでやった。
なあに、こう見えても幾多の戦場で鳴らした喉だ。
声量には自信があった。
しばらく待ってなんの反応もなかったので、安心して枕に顔を埋めた。
どうやら、にわか兵士もしっぽを巻いて逃げたようだ。
そうして、再び冷えてきた身体に毛布をかぶって横着を決め込もうとしていると、どおん、と大地が割れたんじゃないかという轟音が鳴り響き、思わずベッドから転げ落ちた。
玄関口がびりびりと余波の衝撃で震えるている。寝転がっていてもそれがわかった。
さすがの俺もここまでされて太平楽を決め込んでいられるほど図太くない。
幸か不幸か恨みは他方から嫌ってほど買った覚えがあった。
王都で暇を持て増しているタチのよくないやつらが刺客を送ってきた可能性は大いにある。
枕元の杖を取ると、自分なりに最速の動きで玄関まで駆けた。つもりだった。
「つぅ。よりにもよってこんな日に」
頭が頭痛だ。表現も上手くないし身体のキレも悪いが、さけられないことは人生に多々ある。
命の危機だ。この際己の体調を考慮しているゆとりはない。
搾りカスしか残っていないやる気を総動員して勇ましくも飛び出した。
――そこには粉々になった扉の木片を前に茫然と立つ、我が父オーラフの姿があった。
「オヤジ、なにやってんだ。ドアノブの形が気に入らなかったのか?」
「……これはちょっとした手違いだ。せがれよ。久しぶりだな」
人んちの玄関扉を粉微塵に破壊しておいて、平然といい放つ胆の太さ。
そう。間違いなく俺はこの人の血を受け継いでいる。
切り替えの早さは互い、異様に速いのだ。
オーラフは、ここ国境線の村〈ティスタリア〉からはるか離れた王都に居住している。
思い出したようにやってきて、俺の顔を見て帰ってゆくが、先月来てくれたばかりでいささか面食らう部分がなくもなかった。
「で、ホントにこんな朝っぱらからなんなんだ。来るなら、手紙の一本くらい出してくれりゃいいのによ――」
話していて、父のうしろに立つ人物に気づき、自然と身構えてしまう。
俺は男にしては小柄だ。チビと揶揄する者もいるがこれは父祖の代から伝わる伝統なので、若かりし頃は悩みもしたが、今は運命を受け入れている。
が、それを差し引いてもそこに立っていた女は尋常ならざる体躯の持ち主だった。
デカい。
女にしては、たぶん俺が人生で会ったなかでもっともすぐれた身長を有していた。
隣に並べば余裕で俺を見下ろすことができるだろう。
なのに、彼女は立ち姿はどこか優美さすら感じさせた。
輝くような銀色の髪を無造作にうしろでひとつにまとめている。下女が着るような黒一色のメイド服に、下ろしたてであろうピカピカな白いエプロンが目にまぶしかった。
肌の色は白く、ほのかな色合いの紅を口元に差し、頬だけがやけに赤らんで見えた。背丈からすればアンバランスなほど顔は幼い。
装いの下の顔は、なにやら怒ったように俺をジッと見つめている。試合を挑まれたような気がして思わず睨み返すと、彼女はすっと視線を逸らして表に顔を向けた。
「ジラルド。今日からいっしょに暮らす嫁のツラを睨むやつがおるか」
「嫁?」
父の言葉に思わずオウム返しをする。そういえば、父は母を失ってから長らく男やもめを貫いていた。初志貫徹するかと思ったが、いくらなんでも自分よりひと回りも若い娘を義母と呼ぶのはいささか気が引けるが――。
「おまえのことだ。たぶん、いつもどおり早とちりしているようだが……。いや、これは儂が言葉足らずなのが悪かったな。いっておくが、当然ながらこの娘さんは儂の後妻なはずもない。――嫁といえば、おまえの嫁に決まっているだろうが。父である儂が王都からおまえに嫁いでもいいという奇特な娘を探してわざわざ連れてきてやったんだ。阿呆みたいな顔をしていないであいさつのひとつもしたらどうなのだ」
頭のなかが真空になったみたいで、父の言葉が上手く繋がっていかない。
嫁? この娘が俺の嫁だと――?
「いや、ちょっと待ってくれ。とりあえず、一杯やってから考えさせてくれ」
俺がくるりと踵を返し、寝室に戻って机の上にある酒瓶に思いを馳せると、年の割には素早い動作で動いた父に、腰の革ベルトをがっしと掴まれ、瀕死のカバのような声が漏れた。
「だからそれだ。ジラルド。おまえの勤務態度はその死人のような顔を見れば、おおよそ見当がつく。こんな僻地に飛ばされてやる気が出んのはわかるが、酒浸りなどしていては王都に戻ることなど夢のまた夢だ。儂も離れているとはいえ、せがれのことを忘れていたわけでもない。いや、信じられないだろうが……だからここに証拠を連れてきたんだ。見ろ。この若くて丈夫そうな娘を。おまえが、ふてくされて自堕落な生活から抜けきれんのも、すべて所帯を持たないからだ」
にゃろう。俺に意見する気かよ。俺は腰を素早く振ってベルトを掴んでいた父の手をビッと切って自由になる。
「義父上(ちちうえ)。そのくらいで。あとは私からお話いたします」
「ん、そ、そうか」
父の言葉をぴしゃりと遮って娘が、一歩前に出た。
こうしてさらに近づくと、ますます彼女の存在が大きくなったように感じられ、俺は情けなくも、数歩自然と後退した。
――それにしても。間近で見ると、この娘の容貌がとんでもなく整っていることを嫌でも突きつけられる。気圧されたように尻の穴がキュッと縮んだ。
まつ毛は誂えた筆先のように長く、鳶色の瞳は一点の曇りもなくきらきら輝いている。
強い意志を込めた真っ直ぐなものだ。今の俺にはまぶしく見えて目が潰れそう。
「あなたがジラルドですね」
「そうだが」
震える声で応えると、彼女は一瞬だけ気弱気な表情を作るが、すぐに堂々とした気迫に満ちた、まるで戦に挑む前の騎士のごとき凛とした顔をグッと近づけてくる。
「私はユリーシャ。今日からあなたの妻になる者だ。いろいろとわからないことが多いと思うが、夫であるあなたの意に沿うよう、今日から全身全霊を持って仕えると誓おう。末永く、私をかわいがって欲しい」
それは、まるで騎士が王に仕える宣誓のように、とてもではないが男女の婚姻には相応しいとは思えない、決然たる意思表明だった。
機先を制された。
騎士として、軍人としてこれはあるまじき行為だったが、俺は父とユリーシャの術中に見事嵌ったかのように、茫然として寝室に戻ると、とりあえず夢よ覚めよとばかりに、机の上で口の切ってある琥珀色の酒精を一息に空けた。
そうこうしているうちに、部屋のなかへとこれはもう死ぬほど見慣れた軍隊行李が次々と運ばれていく。
「こら、ジラルド。花嫁の荷物を父に運ばせるやつがいるか」
脳が思考停止した俺はいわれるがままに、表の馬車に積んであった荷物をそれこそよく訓練された奴隷のように黙々と家のなかに運び込んだ。
ユリーシャは、その体格に見合うとおり、農耕馬も感心する馬力でテキパキと率先して荷物を運び込んでいる。
俺たちは曇り空から日が顔を出す前にはすべての作業を見事に終えてしまった。
「は?」
気づけば父は「正式な婚姻の支度がある」などといって、知らぬ間にいなくなっていた。
胸元の懐中時計を見ると、砦に出仕する既定の時刻はとうに過ぎ去っていた。
目の前には、長身を椅子の上にちんまりと乗せた、妙に姿勢のよい娘が静かに佇んでいるだけだ。
あの、クソオヤジめ。
犬猫の子を押しつけるのとはわけが違うんだぞ――。
カッカする頭の火照りを冷やすため机の上にあるカップに残った、昨晩の飲み残しのワインを飲み干すと、髪をガシガシ掻きながら酒臭いため息を吐く。
「君。うちの父になにをいわれたか知らんが、災難だったね。とにかく、今から追いかけてケジメはつけるから、少しこの部屋で待っていてくれ――」
「君ではない。ユリーシャ」
「えあ?」
「ユリーシャだ、ジラルド。私は父母から贈られた大切な名がある」
彼女は胸元に手を当てるとすねたように小鼻をくすんと鳴らす。それが、どこか幼く見えて胸のうちになんともいえない気持ちがジワジワ広がってゆく。
「あ、うん。悪い。悪かった、ユリーシャ」
「それと」
ユリーシャは長い人差し指をぴんと立てて、片目をつむった。
「それと?」
「朝からがぶがぶと酒を飲むのは身体にいいとはいえない。私もあなたの妻になったからには、こういうことはどんどん指摘させていただく。口幅ったいことをいうようだが、すべてあなたを思いやってのこと。耳を貸してもらえると大変うれしい」
ユリーシャは長いまつ毛を伏せながら、うんうんとひとりうなずいている。
ダメだこの子。完全に父の口車で洗脳されている。
荷物を運び込んでいてあれなのだが、荷馬車は基本的にチャーターだし、天候がいつ変わるかわからない屋外に野ざらしすることもできない。 第一見栄えも悪いしな。
俺が当面行わなくてはならないことは、父を探し出して、この素っ頓狂な事態を収拾することだ。
「あー。とりあえずわかったから、しばらく出かけてくる。それまでここで待っていてもらえるか? 家のものはなんでも好きに使っていいから。あ、あと。このためにわざわざ王都から連れて来られたんだろう。これ、少ないけど、好きに使って」
なにをどうだまくらかされたのか知らないが、この辺境の土地では王都と違ってよそ者には物を売ったりしないし、防犯上そう簡単に知らない人間を店へと上げないのが常識だ。
特にユリーシャは長身で目を引くし、余計なごたごたを起こされてものちのちの面倒が増えるだけでいいことはなにもない。
俺は幾らか銀貨の詰まった銭袋と、ロムレス王国の騎士証である銀のメダルを机に置くことによって謝罪の意を示した。
「これは、貴重なものではないのか?」
「まあ、貴重といえば貴重かも知れないが……」
メダルは俺がこの僻地に飛ばされたとき、任命状と御大層な位とともに貰い受けた数少ないものだが、今となっては便箋の重し程度にしかならない。
「そんな大事なものを私に預けてくれるだなんて。任せてくれ。私が命を賭けて守り抜いて見せる」
「いや、誰もそんな大層なことは望んじゃないんだが」
話が通じているのだろうか。
それにしてもこの娘。見かけの優美さに反して、なんとも武骨な言葉遣いだ。俺は、まるで軍の朋輩と話しているような気分になっていささか戸惑った。
軍人の家庭に育ったのだろうか。だとしたら、こいつの両親は娘にもう少しお淑やかな口調を身に着けるよう努力すべきだった。
――それはそれでいいとして。
この東征騎士団のメダルさえあれば、村人も彼女を邪険には扱わないだろう。ともかくも、血迷った父を早々に捕らえてこの娘を連れ帰ってもらわねばならなるまい。
二日酔いだというのに、まったく頭の痛いことが二重三重にも襲いかかってくる。
「昼頃には戻れると思えるけど……話の転がり次第だな」
「なにかはわからないが、外出するのか? ならば、家のことは妻である私がすべて引き受けよう。安心して留守を任せてほしい」
「火の取り扱いだけは注意するんだぞ」
「心得た」
俺は一切合切を今さっき会ったばかりの娘に託して家を出た。
「なんか調子狂っちゃう娘だな」
もっとも取られて困るようなものなどなにもないし、所詮は借家で仮の宿だ。火さえ出さずにいてくれれば、多少あちこちに穴が開こうがまったくもって構わない。ああ、この際壊された扉のことは忘れよう。
「これはこれはジラルドさま。今日は大変お早いお目覚めで」
「ああ、精が出るな」
畑のあぜ道を走っていると、村の農民たちが人懐こそうな顔であいさつをしてくる。
この七年間でずいぶんと慣れたものだ。
俺が通り過ぎるのを見計らって彼らが「今日は雨が降るべ」「んんだ」と軽口を叩いているのが耳に入ってきた。いたし方ない。彼らは軍の将が起きるのは日が頭のてっぺんに上ってからと習慣からそう思い込んでいるからだ。そしてそれは間違いではない。
「ああ、あっつ……」
途中で走るのをやめて、路傍の石に腰を下ろした。汗がだくだくと額を流れ首筋に落ちてゆく。
起き抜けに走り出しせいですぐに息が上がってしまった。考えれば、防衛上の理由によりここ〈ティスタリア〉から西方へ向かうにはニルベング河を渡らなくてはならない。
「よく考えたら散星号に乗ってくりゃよかったな」
慌てて忘れていたが、俺には散星号という王都から連れて来た愛馬があった。急いでいたから完全に記憶から飛んでいたな。
渡し船が出る時間は決まっているし、ここまで来れば走らなくても父には渡し場で追いつくだろう。談判は、そこいらの店で昼飯に一杯やりながらゆっくりやればいい。
――そう思っていたのに、現実は甘くなかった。俺が渡しに着いたときには、ちょうど、ここからはるか上流の堤防が夜半のにわか雨で決壊したらしくニルベング河は河止めになっていた。
そういうときに限ってなぜか既定の時刻より早まった船に乗った父はとうに向こう岸に渡り切ったあとであり、どうにもこうにも移動する手段を失った俺は、気づけばとぼとぼと村に戻っていた。
考えてみれば女手があるのはそう悪くないかもしれない。
軍の上層部から追い出された俺は、たぶん王都に戻ることはできないだろうし、若く馬力のありそうなユリーシャなら家のことをさせるには持って来いだ。
そうなれば、散らかった部屋のことを考えずにすむし、やいのやいのといわれていた村の連中に嫁取り話で土臭い田舎娘を押しつけられる面倒もなくてよい。
「なんだ。いいこと尽くめじゃないか」
俺はなにを苦に思っていたのだろうか。
蒙が啓かれた気がしてならない。
狭い農道をスキップしながら歩いていると、背後から響く馬蹄の音に気づき咄嗟に振り返ると身構えてしまう。
「隊長っ。詰め所にも来ないでなにをしてるんすかっ!」
「げ、ハンナ……!」
見れば脚の短い土着の馬を器用に乗りこなし、素早く俺の進行方向を遮った赤毛を短くした娘が目を三角にして睨みつけていた。
「隊長が急いで村はずれ走っていったってご注進があったから、なにごとかといっそいでやってきたんすよっ」
ハンナは先月俺が駐屯兵として栄誉あるロムレス国境警備騎士団に任命した村の有力者の娘である。
当年とって十五歳。普通ならどこぞの百姓家に嫁に行っている年齢なのだが、本人は村に戻るまでまで、なまじ街の学校で教育を受けたせいで、開明的な理論を己のなかに構築していた。
ハンナはいわゆる自立して生きる職業婦人を目指しており、いうなれば村から浮き上がった存在だった。
十人の乙名で構成される長老組もハンナの扱いには手を焼いていて、いうなれば彼女は俺に公然と差し出された愛人という存在だった。
このような王都から離れた村では外界の血を取り入れるため、平然と自分の娘や妻を貴人に送ることも厭わない。
俺がこの村にやってきたときも、そういう生臭い話は多々あった。
しかし傷心していた俺にはそういう気はなかった。
そして度重なる押しつけがましいしきたりにたいして猛烈に反抗する気持ちが芽生えまくっていたので、片っ端から撥ねつけているうちに、もはやそういうことはなくなったと勘違いしていた。
しかしどっこい、長老たちの「ちょうどいいからハンナと堅物将軍をくっつけようぜ!」というやる気が再燃したのか、折衷案として彼女を騎士団で受け入れることにしてから、村内的にハンナは公然と俺の妾として見られるようになったのだ。
「なに、こっち見てるんすか。キモイっすよ、隊長」
「あのな。仮にも俺は上司だぞ、敬えよ」
「いやっす。しょっちゅう遅刻ばっかしてる飲んだくれには敬う部分がないっす」
ハンナはぷいっと顔を背けると、俺の言を切って捨てた。
まったくもって街で開明的な教育を受けたとは思えない蓮っ葉な言葉遣いだ。はじめ、冗談でやっているかと思ったが、これは彼女の素だったのだ。
ま、なんというかハンナは村のなかでは一、二を誇る器量よしだし、身に着けるものも仕草もどこか垢抜けている。
男たちからは抜群の人気があったのだが、相手が仮にも国境警備騎士団の頭で王都の位を持つ軍人であると長老たちの策略で流布された今は、公然と横恋慕する者もいない。
もっとも俺としてはこんな小娘相手にする気もない。気の毒なのはハンナで、彼女は意図的に情報を遮断され、今の自分の立ち位置というものを知らない。
かわいそうといえばかわいそうなのだが、このひと月俺が手を出さなかったのでエサの役目も疑問視されつつあった。よって、ユリーシャの存在は渡りに船だったかも知れない。
「で、なんかあったんすか?」
「オヤジが家に来てたんだよ」
「え、お父さまっすか! なにか、ご実家であったんすか?」
ハンナは急に顔を緊張させると息を詰めてこちらの様子を窺っている。
「いや、別に特になにも……。ちょっといい忘れたことがあったからおっかけてっただけでもう用はすんだよ」
「ふ、ふーん。そっすか。ま! こっちも隊長の家庭事情なんて興味ないっすからね」
じゃあ、なんで聞いたんだよ。甚だ納得のいかない気分だぞ。
「ねえ、隊長。いつまでこんなとこでブラブラしてるんですか? 用件が終わったんだったら、とっとと軍務について欲しいっす。朝の見回りもサボったんなら、昼の見回りくらいきちんとこなさないないと、みんなに示しがつかないっすよ」
「あんなもんチャーリーたちにやらせとけよ」
「あいつらカスっす。だいたい、あの三バカたちは、詰め所を駄弁る場所とか思ってないし、夜勤時には平気で酒を持ち込むし……。そうなったのもみんな隊長が酒を教えたからって聞いてますよっ」
「人聞きの悪いことをいうな。俺は人生の潤いを若人に伝授しただけだ」
「まーた、そういう減らず口をっ。チャーリーたちだって、隊長が来る前は真面目に畑仕事に打ち込むやつらだったんですよ!」
ハンナのいうことは一理ある。彼らは、俺が着任したとき、長老たちにつけられた素朴な好青年だったがこの七年間で堕落させてやった。
むろん、酒飲み仲間を作りたいがためである。
そして今は、毎晩のように酒場に誘っても嫌な顔ひとつしない極めて優秀な精鋭に育った。
俺と、チャーリー、スタック、トマス、そしてハンナの合計五人で、本来なら三万の兵が込められていた長城を守っているのだ。
周囲の村々の若者を集めての動員訓練は月イチで行っているが、いざ実戦となれば、数百程度の雑兵など役には立たないだろう。
ふん。元々無理なら、真面目にやろうが酔っていようが同じだ。
ハッキリいって、俺はこの国に絶望しかけていたのだ。
「ハンナ、みんながおまえのこといってるぞ」
「なにがすか」
「あいつはつき合い悪いって」
「飲んだくれのカッスどもにいわれたくないっす! それに、自分入団してから、かれこれ十回以上飲みにつき合いましたよっ。つき合い悪いとかいわれたくないっす!」
「少ないじゃん」
「少なくないっす。一ヶ月で十回っすよ!」
「毎日行こうよ」
「毎日誘う隊長の頭がどうかーしてんすよっ。アルコールで脳が溶けちゃったんすか?」
「溶けていないよ。溶けるのは日が落ちてから」
「とーにーかーくっ! 飲みすぎも仕事しないのも、そういうのは屑のやることっすよ! そんなんでこの国の平和が守れると思ってるんすかっ」
「守れてるじゃん。だいたい」
「治に居て乱を忘れず。隊長がこの村に来てはじめていった言葉っすよ! あたしは街の学生寮に入る前でまだ子供だったすけど。あの言葉を聞いたからこそ、戻ってきてすぐに騎士団へ入りたいって、それなのに……」
「おい、ちょっと待て。泣くなよっ」
またこれだ。
彼女は顔を手で覆うと涙をこぼし出した。
どうも彼女は人並み外れて情が激しく強く、一旦気が高ぶると怒ったり泣いたりと自分の感情を抑えられないようなのだ。
「見るべ見るべ。ジラルドさまが娘っ子また泣かしてるべ」
「あのハンナもジラルドさまの前じゃかたなしだべなぁ」
「とっとと種仕込んで貰えばちったぁマシになるべよ」
なんて下品な方々だ。
「泣くなってば、くそ。わかった。わかったから、真面目に仕事するから泣くんじゃないっ」
「ホントっすか!」
ハンナはにぱっと笑顔を作ると、素早くウインクをした。
くそっ。嘘泣きかよ。だから女ってのは信用ならないんだ……。
「隊長、男に二言はないっすよね。ちゃんと午後からは、城壁の見回りつき合ってくれるっすよね!」
「ああ、わかった。わかったから。とりあえず、一旦家に帰らせてくれ。支度もしてぇし」
「軍服はちゃんと着てるじゃないすか」
「昨日、このまま寝たんだよ……」
ハンナはうわあという顔をすると、馬上で身体を遠ざけようと動かしている。
いかなる俺でも若い娘にこうまで嫌がられるとそれなりに傷つく。
「ちゃんと下着も着かえるってハンナに約束してくださいよっ。それと、時間かかってもいいから身体を水で拭うくらいはしてくださいっす!」
「あーはいはい。うるっせーなぁ」
馬鹿みたいに騒ぎまくっているせいか、身体中から酒精は抜けてしまったようだ。俺は、村名のなかで唯一の湯屋に行くと、たっぷりとしたお湯に漬かって垢をごっそり落とし、途中ユリーシャのことを思い出して小刀で髭を当たった。
鏡にはどこかうらぶれた小男が恨めしそうにこちらを見ているが、無精髭が綺麗さっぱりなくなったおかげでそれなりに見られるようにはなっていた。
ふん、俺だってちゃんとすればそれなりに男前なんだからなっ。
「な、なんだこれは……」
帰宅して驚いたのは、そこいらじゅうに漂っている放棄されかかった家屋特有の苦し気な兆候が微塵も感じられなかったからだ。
古色蒼然としていた平屋の壁は丁寧に雑巾がかけられ、青緑の苔や埃が取り払われていた。
室内もかび臭い空気が一変して、雑多な道具で足の踏み場もなかった部屋が綺麗に整理され、見違えるように清掃されていた。
「おかえりなさい。用事は無事すんだのか。と。今、私のほうは端緒についたところだがもう少し時間がかかりそうだ。片づかなくて申し訳ないのだが、ゆるりと待っていてくれると助かる」
ユリーシャは俺が見たこともない清掃道具一式を巧みに使いつつ、メイド姿でてきぱきと手際よく、この廃れた家屋を掃除していた。
「な、なにをしているんだ……」
「なにって。今日からここは私とおまえの家になるのだから。なあに、任せておいてくれ。こう見えても、掃除は得意なんだ。それに、不潔な場所で過ごすと身体にもよくないし、運気も下がるからな。安心しろ。私は自分の主が家のことに煩わされず仕事に励めるよう、全力でサポートしてやるからな」
なんというか、彼女が善意でこの家の掃除を行っているのはわかっているが、心のなかではそれを素直に受けとめられず、むしろいいようのない感情に悶えているもうひとりの自分に驚きながら、知らず、激しい舌打ちが漏れていた。
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