第一章
Revenger:1/『クロノ・リュウザキ』
雨の音で目が覚めた。
薄いガラス窓を霧雨が叩いている。いつもは硬いシーツがしっとりと重たく肌に張り付いていた。
耳を澄ますとどこからか水の滴る音がする。古い木造の一室だ。どこかで雨漏りがしているのだろう。上体を起こすと腰の下でベッドが軋んだ。前の持ち主から数えれば数十年は使われてきたのだろう古びたベッド。路地に廃棄されていたので勝手に拾ってきたものだ。もはや立派なアンティーク。悪く言えばオンボロだ。ベッドの持ち主がクロノになってから、もう八年が経とうとしていた。
八年前。クロノの脳裏に浮かぶのは、炎に包まれる父と母の最期の姿だ。恐怖と絶望に見開かれた瞳が、今もなお自分を射竦めている。つきまとう悪夢を振り払うように
クロノ・リュウザキはしばらくベッドに腰を下ろしたまま、雨の音が躰に染み込んでいくのを感じていた。
やがてベッドから立ち上がると、クロノは何もない壁面に手をかけた。見えないヴェールをはがすように手を振るうと、何もなかったはずの壁面に、ピンで張り付けられた沢山の新聞記事が突如として出現した。
壁一面を覆う大小さまざまの新聞記事。ほとんどが古いものだ。中央に存在するのは、捨てられていた新聞の片隅から切り取ったような小さな汚れた記事。八年前――リュウザキ家を襲った不審火を報じる記事である。
その記事の周囲には同時期に起こった様々な事件の記事が貼られており、外に向かって時系列順に並んでいる。その多くは原因の特定できない不審な火災。しかし、そうではない事件もいくつかあった。警察が解明できなかった不可思議な事件の数々。特殊能力――アニムス絡みの事件である。
誰かが階段を上ってくる音がした。古い木造建築は生活音が筒抜けだ。ドアがノックされるのと、クロノが壁に手をかざすのはほぼ同時だった。
クロノがドアを開けると、巨漢が立っていた。天井すれすれから見下ろしてくる、黒いサングラスをした筋骨隆々の中年男性は、かわいらしいピンクのエプロンをつけていた。
頬に片手をあてる妙に女性らしい仕草で、
「あらぁン、クロノくん。起きてたのねン」
言いつつ、部屋の中をさっと見回した。
彼……もとい彼女は、アマンダ。
「相変わらず、何にもなくって殺風景な部屋だわン」
彼女は軽く唸って嘆息しつつ言った。
クロノの部屋にある家具はベッドとクローゼットと机と椅子だけ。インテリアと呼べるものは何もなく、机にランプ、椅子の横にくずかごが置かれている程度。生活に必要なもの以外何一つない、ある意味生活感のない部屋だった。当然、壁にも何も貼っていない。木製の板壁が、湿っぽい肌を晒している。
「壁紙でも貼ったらどうお? ちょうど余っているものがあるの」
「いや、いい……」
すると思い出したように男は胸の前でポンと手を合わせて、
「それはそうと、さっきお仕事の電話があったわよン。もうちょっとしたらお店に来てくれると思うわン」
「ふうん。どこの人間?」
「どこの人間でもない、
「わかった。すぐ行く」
アマンダが階下に降りるのを耳に入れながら、クロノは適当な服に着替え、階段を降りた。
階段を降りるとキッチンの内側に出る。その向こうにカウンター席があり、さらに向こうにはテーブル席もあった。
喫茶『シーモア』。その上階の一室に、クロノは下宿しているのだ。
アマンダはトーストしたパンにバターを塗っているところだった。
「サンドイッチでいいかしら?」
「ありがとう」
店に客の姿はない。閑古鳥が鳴いているのはいつものことだ。クロノはカウンターの席に座る。カウンター越しにコーヒーが差し出された。
「特製アマンダブレンドよン」
ただの浅煎りコーヒーである。
カップを受け取ろうと手を伸ばした時、隣の席にも、別のカップとソーサーが置かれていることに気付いた。見ると、カップにはコーヒーが注がれているし、湯気も立っている。片付け忘れというわけではないらしい。とすると――
「アウチ!」
「!」
よそ見をしていたので、カップを受け取り損ねてしまう。こちら側に倒れてくるカップと、熱々のコーヒー。それらは重力に従い落下しながら、机に墜落――しなかった。空中で忽然と消失したのだ。
だが、それも一瞬のことだった。次の瞬間、既にソーサーとカップはクロノの手の中にあった。さらに次の瞬間、消えたコーヒーは空中から現れ、そのままカップに注がれた。
全ては一瞬の出来事。もし他に見た者がいたとしても、見間違いか、あるいは目の錯覚だったと思うに違いない。それほどの早業であった。
「ビューリフォー。さすがのお手並みね。だけど、よそ見はノン・ノンよ」
「ああ、ごめん」
カップを机に置いてから、隣のカップを顎で指した。
「客が?」
「あら、言ってなかったかしらン。アナタによン」
「俺に?」
すると、店のトイレから水の流れる音がする。そちらに顔を向けると、しばらくして扉が開いた。
――ゴツ。僅かに開いた扉から、側面にベルトを三連あしらえた小さな黒いブーツがすっと現れ、その小さな足で木製の床板を打ち付けた。
――ゴツ。さらにもう一歩、その全身が姿を現す。アーガイルのタイツに、フリルのついたブラックワンピース、流水のような金髪を黒いリボンで左右に結った、全身ゴシック調の小柄な少女。
シーナ・ミルズだ。
トイレの扉を閉じたシーナはクロノに見られていたことに初めて気づき、肩を跳ねさせた。眉根を寄せて強く睨む。
「嫌い」
シーナは突き刺すような気迫を放った。カウンターに並べてあるカップが僅かに振動する。
ふん、と目を逸らしたシーナは、クロノの背後を通り過ぎて――その際、クロノの座る椅子の脚をブーツの厚底でガツ! と蹴りつけた――自分のコーヒーカップの前にぴょんと跳ねて座った。
シーナはコーヒーを一口啜ると、ポーチから封筒を取り出して、机にドンと置いた。
クロノは無言でそれを受け取り、中の札束を確認する。
(また、言い値より多いな)
その金は、便宜上、代議士ジョン・ホーブソンからの成功報酬であった。しかし、実際にはホーブソンからの資金援助という側面が大きい。なぜなら、ホーブソンが、クロノの母、エマ・リュウザキの兄であるからだ。クロノは援助を断っているが、彼からしてみればクロノは妹夫婦の遺した唯一の形見。何もしないわけにはいかないらしく、今回のホプキンス博士の件のように、仕事の斡旋という形をとって何とか援助をしようとしているらしかった。
クロノは封筒を懐におさめると、テーブル席に移ろうと腰を浮かせたが、シーナが制止した。確かに、今回の件のことをアマンダになら聞かれても問題はないが、シーナもそう思っているとは、少し意外だった。シーナがそれだけ他人を信頼できるようになったということだろうか。クロノは再び腰を下ろす。
「ホプキンスが死んだことで、ホプキンスの企みは完全に阻止された。わざと足首は始末しなかったから、警察が今頃、遺体の身元くらいは割り出して死亡報告書を作っているでしょうけど、そこから真相にたどり着くことはありえないし、ホプキンスが残したデータは既に全て消去してあるから、彼の目的が達成されることはもうないわ」
話はやはり昨夜の件だ。
「ホプキンスの目的……超能力、アニムスを公表し、世間に知らしめること……。それを許せば、世界規模で大変な混乱を招くことになっただろうな。だが阻止できたとはいえ、結局、何のためにそんなことをしようとしていたのか……」
「ただの自己顕示欲だったんじゃないの。元々、アニムスって言葉も、そいつが論文の中で使った言葉だったんでしょう。自分の言葉が超能力者たちの間で独り歩きしていると気付いて、それを公表することで自己承認欲求を満たそうとした、とか、大方そんなところでしょうね」
「うん……確かに、そういうことだったのかもしれないが、しかし、奴自身も強力なアニムスを持っていた……。奴がアニムスの存在を公表すれば、奴自身、今のままではいられなかったはず……」
シーナは大きくため息をついて、
「あんたの話じゃ、そいつは結局、その強力な能力とやらで自ら命を絶ったんでしょ。そんな奴のことをいちいち気にかけているようじゃ、こんな仕事やってられないわ」
「うん……それはそうなんだが……」
しかし、やはりクロノには何か引っかかるものがあった。アニムスを公表したところで、結局誰にも――奴自身にさえ――何のメリットもなかったはず。もしシーナの言うように、自己顕示欲が目的で、世間を混乱させようとしていたのだとしたら、元から破滅願望でもあったのだろうか。
「実際にアニムスが公表されたところで、いたずらに世間をパニックに陥れるだけだったわけだし、元々死ぬつもりだったのかもね。けど、殺しをやらないあんたが来たことで、その目論見も破算になりそうになった。だから、後がなかったってことでしょ」
「…………」
アニムスを公表し、世界を破滅に導くこと。そして、自身も亡き者になること。それがホプキンスの目的だったのだとしたら、確かに、クロノの来訪でそれは崩れる。
一見、筋は通っているように思う。だが、果たして本当にそうだったのだろうか。
……確か、ホプキンスはこう口にしていた。
――僕には見えているんだ。君と僕との、いわば”運命”がね
あの言葉。あれが、ホプキンスのアニムスを表すものだったとしたら……奴は、奴には、こうなることがわかっていたのではないか……? だとしたら……
「サンドイッチ、シーナちゃんも食べるでしょオ?」
「ありがとう。アマンダ」
アマンダが何事もなかったかようにシーナに声をかける。
シーナはカウンター越しに差し出されたサンドイッチを受け取った。その手は、レースの黒い手袋によって覆われている。彼女はいつも、顔以外に肌色の露出がほとんどないのだ。それには彼女の《体質》が関係している。
彼女のアニムス――彼女は〈クルシフィクター〉と名付けている――は、彼女が深層意識に根強く持っている”拒絶”の感情の顕現だ。その能力は彼女の意思とは無関係に、彼女に直接触れた者を誰であろうと見境なく弾き飛ばす。故に彼女の服装は――彼女自身の趣味もあるだろうが――この《体質》を対策するためのものなのだ。
もちろん、布越しに触れても〈クルシフィクター〉は反応するが、威力は抑えられるようで、こうして肌を隠すことは、彼女なりのエチケットであった。
「ま、あたしは他人のことなんか興味ないから、いちいち死んだ人間のことなんて考えたりしないけど、あんたはアニムスのことが《大好き》だから仕方ないわね」
シーナはにやりと嘲笑してから、サンドイッチを齧って頬をほころばせた。
その皮肉な態度にクロノは嗜虐心を刺激された。そんなこととはつゆ知らず、シーナは新たな一口を頬張ろうと、サンドイッチを口に近づける。しかし、サンドイッチは口に入る直前、シーナの手の中で忽然と消失した。対象を失った小さな口がさみしく虚空を噛みしめる。
シーナは一瞬、今にも泣きだしそうな、ひどく哀しげな表情をしたが、すぐに眉を寄せてクロノを睨み、
「戻しなさい。ぶっ飛ばすわよ」
「できるものならな」
竜虎
シーナの怒りが窓ガラスを震わせ、クロノは不敵に笑っていた。
カウンターの向こうで、アマンダはがっくりと肩を落とした。
「喧嘩なら外でやって頂戴ネ。……はぁ、アニムスって人種は、どうしてこう、困った子ばかりなのかしらン」
…………
クロノとシーナ、二人がサンドイッチを食べ終わり、アマンダが皿を洗う音だけが聞こえる。
「……音楽でも流したら?」
「お前はいつまでいる気なんだ」
「…………」
シーナはホーブソンの息のかかった傭兵部隊の一員だ。彼らは自分たちの事を”エージェンツ”と呼称している。その中でもシーナはホーブソンの懐刀ともいえるほどの立場にあるらしく、表沙汰にはできない裏稼業を一任されているのだ。
そのため、アニムス絡みの仕事ではクロノと共に働くことが多く、頻繁に顔を合わせている。当然、アマンダとも顔なじみというわけだ。
では、そんなシーナはなぜこんなところで油を売っているのだろうか。顔を窺うと、目を逸らされた。クロノは眉を寄せる。
何かばつの悪い事情があるのか。詮索するなと顔に書いてある。一体、どんな事情が……。
いや……事情がないのか? ひょっとして、手持無沙汰なことを恥じているのか?
「お前……暇なんだな」
日頃のお返しとばかりに、皮肉をたっぷり込めて言ったつもりだった。
しかし、シーナの反応は思っていたものとはまるで違った。ばつの悪そうな表情から一転、どこか安堵するような表情を浮かべたかと思うと、すぐむすっとした顔になって、
「そう……暇なの。暇で暇で仕方なくって、こうして時間をつぶしているわけ」
「あ、ああ、そうなんだな」
何だ、急に、気持ち悪いやつだな。
シーナは大きくため息をつきながら、「暇なのよね」とまだ言っている。なぜか、アマンダもカウンターの向こうでため息をついていた。
クロノは一人、正体不明の疎外感に襲われていた。
店内が妙な空気に包まれていると、『シーモア』の入り口がそっと開かれて、鈴の音が鳴り響いた。
現れたのは、濃茶色のウェリントンメガネと三つ編みのおさげが印象的な、二十代ほどの若い女性。。怯えるように上目遣いで店内の様子を窺いながら、
「あの……こちらに来るよう伺ったのですが……”
依頼人の登場だ。
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