第132話 タコ

「山田さん、熱帯魚がお好きなんですか?」

「うん、なんかカラフルで綺麗だから。神崎さんは?」

「僕ですか。僕は実は淡水魚が好きなんです。アマゾンのような川に居る大型淡水魚が」

「ピラニアみたいなの?」

「ピラニアは手のひらサイズですよ。全然大きくない。僕が言っているのは2メートルから3メートルくらいあるような大型の魚です」

「へー、そんなのが居るんだ」

「そのうちに出て来るでしょう。ん? あそこに見えるのはタカアシガニじゃないですか?」

「見に行こ!」

「ええ」


 ここでさ、今までならあたしの手を取るんだよ。だけど、そうしなかったんだよ。まあ、タカアシガニがすぐそこに居たからさ、移動距離もそんなに無かったからなのかも知れないけどさ。

 神崎さんはあたしの肩にかけた手をそのままに、並んで歩き始めたんだよ。なんかこう、さ、抱き寄せられるような格好になってさ。神崎さんはそんなに意識してなかったのかも知れないけどさ、こっちはぶっ飛ぶほどドキドキしたわけでさ。

 しかも何ここ、何だか他のブースと違って妙に薄暗いよ。なんかますますドキドキするじゃん。

 だけど神崎さんは全然なんにも変わんない、いつも通りの飄々とした感じでさ、なんかあたしだけ勝手にパニクってる感じなんだよ。もう、何なのよ、この人は。まるで空気読めてないっつーか、やっぱあんた彼女居ない歴31年だろっ。


「ここは流石にタカアシガニの生息域だけあって薄暗いですね」

「なんでこの人、薄暗いとこが好きなの?」

「好きなわけでは無くて、水深200~800メートルほどの深海域に生息してるんですよ。この辺は深海魚ブースなんですね。アオメエソやヤマトシビレエイもいますよ」

「なんかこっち進むとどんどん薄暗くなってくよ?」

「深海魚ですから。あ、アカグツですよ、これが可愛いんだ」


 神崎さん、あたしの肩を抱いたまま小さな水槽を覗き込んだんだよ。


「や、何これ、可愛い~。歩いてる。うは~」

「この子は泳ぎが苦手でして、胸びれで海底を歩き回るんですよ。靴を履いている赤い魚のようだからアカグツなんです」

「メッチャ可愛い~!」

「でしょう?」


 ふと神崎さんの方を見たんだよ。見なきゃ良かったよ。

 こんな小さい水槽を、二人でピッタリくっついて覗き込んでたんだよ、それを忘れてたんだよ。あたしが神崎さんを見た瞬間、神崎さんもあたしの方を見て。ウソみたいに至近距離で目が合っちゃったんだよ。

 ビクッとして一瞬身体を引こうとしたんだよ。だってこんなイケメン、至近距離で見てごらんよ、鼻血出るよ? 沙紀や萌乃なら100%心肺停止だよ?

 だけどその瞬間、神崎さんがぐっと手に力を入れたんだよ。あたし動けなかったんだよ。艶然と微笑んだ彼が、低く掠れた声で囁くんだよ。


「どうされました? どこへ逃げるんですか?」

「に、逃げないよ、てか逃げる訳ないじゃん」

「でも今、身体を引きましたね」

「だって、神崎さん……」

「キスもした事無いんですか?」

「ほえっ?! キ……キス?」


 不覚にも声がひっくり返ってしまった……。


「冗談ですよ、そんなに怯えないでください」


 つって笑いながら手を離すし! 怒るで、しかし!


「キ、キスくらいあるもん! 失礼な!」

「岩田君とですか」


 そこ、そんな醒めた顔で言うか?


「そ……」

「あ、タコが居ますよ」


 つって神崎さん、さっさと歩きだしたんだよ。あたしを置いて。

 ……あーもう、このタコ!

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