第62話 八岐大蛇
てかさ。
『うわばみ』ってのがこの世にいるとしたら、それは今あたしの前に座ってるよ。この人、どんだけ飲んでもケロッとして、全く変わんないよ。
この大量の肴はあたしが一人で食べてんだよ。神崎さんの手元には、おろし金と岩塩ひと欠け。これで飲んでんだよ、日本酒を! バケモンだろっ!
「山田さん、行けるクチですね」
ってニコニコと――あの神崎さんがニコニコだよ? ――しながらあたしに注いでくれるんだよ。しかもさ、あたしのワインは寸胴鍋に氷水張って、その中で冷やしといてくれてんだよ。自分の日本酒は常温なんだよ。そこらに置いてるんだよ。
「ねー、神崎さんのお酒は冷やさなくていいの?」
「僕は久保田を常温で飲るのが好きなんですよ」
変にマニアックだよ。
「久保田? 人の名前みたい。酒屋さんの名前?」
「いえ、朝日酒造です。新潟県長岡市にあります。あの辺は酒蔵とおせんべい屋さんだらけですね。流石米どころとでも申しますか」
「ねー、塩だけでいいの? あたし一人で食べちゃってるよ?」
って言ったらさ、神崎さん、びっくりするくらい嬉しそうに笑うんだよ。
「僕は山田さんに食べて欲しくて作ったんですから。あなたが食べている時の顔を見るのが、僕には幸せなんですよ」
「変な趣味だね」
「はい、変な趣味なんです。でも……自分の料理を『美味しい』と言って食べて貰えるというのは、こんなにも幸せな事なのかと。自分でも驚いているんですが、それに気づかせてくださったのは山田さん、あなたなんですよ」
あたし、こーゆー場合、何と返事したらいいのかわからん。そーゆー引き出しを持ってない。
「僕は岩塩で久保田を飲るのが好きなんです。山田さんが僕の料理を食べているのを眺めながら、岩塩で久保田を飲むなんて最高ですよ。これ以上の肴はありません。近年稀に見る幸せな日です。今だけで一生の運を使い果たしました」
そんなに大袈裟に喜ぶとこかよ、ヲイ。てか、あんたの運って少ねーな。
「ねー、あたしも久保田、飲んでいい?」
「は? 山田さんがですか?」
「うん。もうこっち無くなるし。そっち一升瓶でしょ? 一人では飲みきれないでしょ?」
「いえ、普通に一晩で一升空きますが。でも山田さんがご一緒して下さるんでしたら、その方がもっと美味しく感じるでしょうから」
てかお前、一晩で一升飲む気だったんかいっ! それ、人間として間違ってんだろ! てか人間を装った八岐大蛇だろあんた!
「グラス、洗って来ますね」
神崎さん、めっちゃ嬉しそうにあたしのグラスを洗いに行っちゃったよ。って言っても彼の「めっちゃ」は他の人の「やや」くらいなんだけど。
なんかフツーに主婦だよ。新婚の奥さんみたいだよ。でもグラスを磨いてる姿はやっぱ「マスター、いつもの」って感じだよ。
戻ってきたマスターは、そりゃー嬉しそうに久保田を注いでんだよ、ワイングラスにさ。そんで自分のにも入れてこう言ったんだよ。
「では、日本酒で乾杯しましょう」
「さっきしたじゃん」
「山田さんの日本酒デビューに乾杯です」
「まあ、いいけど」
ミョーなテンションだよ。うきゃー! って言う盛り上がりじゃなくてさ、しーずかに盛り上がってるよ神崎さん。薄気味悪いんだよ。だけどさ、その反面なんだか凄く可愛いんだよ。滅多に見せない笑顔を出血大サービスってくらい放出してさ。いえね、笑顔つっても、口角ちょっと上がってる程度なんだけどさ。
「神崎さん、円周率どこまで言える?」
「3.14159265358979323846264までです。小数点以下23桁が限界ですが 、何か?」
「2進数で1101って10進数では何?」
「13です」
「桜って何科の植物?」
「バラ科スモモ属です」
「スリランカの首都は?」
「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテです」
「酔ってないよなぁ……」
「僕がですか?」
「うん。酔ってるのかと思った」
「何故です?」
「……笑ってるから」
「は?」
「神崎さん、笑顔の方が素敵だよ?」
「えっ……」
神崎さん、急に黙り込んで岩塩を削り始めた。
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