第29話 髭剃ってる

 有り得ない朝食なんですよ、あたしにはさ。朝から鮭の塩焼きだよ。わかめときゅうりの酢の物だよ。ひじきの煮物だよ。


「この歳まで生きててホント良かった~」

「何かいい事でもありましたか?」

「いい事ってあーた、朝からこのご飯よ? そりゃー想定外だったとは言えね、出張のパートナーが神崎さんで良かったよ、ほんと……。他の人だったらこうはいかないよ、朝から鮭の塩焼きなんて」


 あーもう、あたし完全にタメ語だよ。こんな素敵なご飯を目の前に、いちいち言葉遣いまで考えてらんないよ。


「幸せだよ~、酢の物だよ~わかめだよ~、豆腐の味噌汁だよ~、おいひ~よ~」

「山田さん」

「ふにゃ?」

「いい顔で食べますね」

「だって、おいひーんだもん。こんなにおいひーもん食べてんのに不味そうな顔なんて、しろって言われても無理だもん」

「僕は山田さんの為にご飯を作るのが楽しみになって来ました」

「え? ほんと? ホントに? マジで?」

「僕の作る物をこんなに美味しそうに食べてくれる人なんて、今まで居ませんでしたので」

「えー! こんなに美味しいのに?」

「というか、食べさせる相手が居なかったので、ずっと一人で食べてまして」

「勿体無い! あたしが毎日食べる! 出張終わっても毎日食べに行く!」

「それより山田さん自身が作れるようになった方がいいと思いますが」


 油断した。いきなりのボディブロウだ。今のは結構効いたよ……。地味に凹むあたしに気づかないのか、気づかないフリなのか、神崎さんはさっさとご飯が終わってしまってキッチンに入る。


「すみません、僕はお弁当を詰めなければならないので先に片付けます。山田さんはごゆっくりどうぞ」

「あ、はい、お気遣いなく」


 そっか、そこのお皿に並んでたヤツは朝ご飯じゃないのか。食べようと思ってたのに。まあいいや、お昼の楽しみができたから」

 神崎さんは慣れた手つきでどんどんお弁当を詰めると、ランチバッグに入れてあたしの前にトンと置いてくれた。


「これで足りなかったら、明日はもうちょっと増やしますね」

「ありがとうございますぅ~!」


 それから神崎さんは、外に干していた洗濯物を中に入れ、お風呂を洗う(そうかお風呂の水を洗濯に使ってたんだ!)と、洗面所で髭を剃り始めた。

 てか、をいっ! あたしの家でオトコが髭を剃ってるよ! 凄いよこれは、面白いよ。お父さんの髭剃ってる姿は見たけどさ、兄はいるけど髭剃る頃にはみんな家出てたしさ、彼氏とか居たためしが無いしさ、自分の家でお父さん以外の男が髭剃ってるなんて新鮮だよ! なんか……髭剃ってるオトコって……変にセクシーだよっ!


「どうかされましたか? あ、メイクできないんですね、すみません。すぐに済ませますから」

「いえいえ、そうじゃないんです。ごゆっくりどうぞ」

「はあ……」


 いかんいかん、あたし、どーも変態だわ。あれが神崎さんだと言う事を忘れちゃダメだ。今日から本物の『恐怖の個別指導』がスタートするんだった。気を引き締めて行かないと……。

 あたしは部屋に戻ると、数少ないワードローブから一番カチッとしたスーツを選んだ。

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