第14話 アニキ
2016年12月24日ー
私は退院すると、帰宅する前にかつ日和に寄った。かつ丼をごちそうしてもらったことの御礼だけして帰るつもりだったが、この匂いを嗅ぐと我慢できない。運動不足で少し太ったことが気になっていたが、今はそのことは忘れてしまおう。
「スプーンのほうがいいか?」
店主がかつ丼を持ってくると、そう気遣ってくれる。
「大丈夫です。私、左手でも食べられますから」
「そうか」
短い言葉の中に、ぬくもりがたっぷり入っていた。私は、このかつ丼も好きだけど、この店主に会いたくて通っていることに気付いた。素直ではないところが、田舎の父に似ているのだ。父は村役場で働き、仕事が終わると少年野球のコーチをしていた。
私が小学校5年生の時に、メンバーが8人になってしまったため、少年野球のチームに入ることになり、練習をろくにしないまま試合に出ることになった。
誰のいたずらだろうか。私は、その日、タイムリーヒットを打った。バットにボールが反発するあの快感は今でもはっきりと覚えている。とはいえ、ライトの守備でエラーを6回もしてしまい、父にこっぴどくしかられた。
メンバーが8人になってしまったのも、父の指導が厳しいからだった。私は、父にピッチャーをやりたいと言った。
「やってみろ」
と父は理由も聞かず、賛成してくれた。たった1試合で、このチームの弱点がわかった。ピッチャーの河野くんのボールが遅すぎたのだ。
エースピッチャーだった中島くんは、三振をとっても褒めてくれない父が嫌になり、ライバルチームに移ってしまった。
私はチームに入る前に、中島くんのピッチングを見たことがあったが、球威で三振をとるパワータイプのピッチャーで、キャッチャーが構えたところとは全然違うところにボールを投げていた。
「そんな投球じゃプロでは通用しない。コントロールを磨け」
と父は、中島くんに何度も指導していた。
「別にプロ野球選手になるわけじゃないからいいじゃん」
と中島くんが反論すると、父は中島くんをレフトにコンバートして、真面目に取り組む河野くんをピッチャーに指名したのだ。
河野くんは、ストライクゾーンに投げることができたが、いかんせん球威がなく、簡単にヒットを打たれていた。
それでも父は、
「どんまい、どんまい。いいコースだった」
と励まし続けていた。
私は習字もならっていたので、効き腕の右手をケガしないように、野球では左手で投げることにした。
「左ピッチャーはプロでも重宝される」
と父は、反対するどころか賛成してくれた。女の子がプロ野球選手になれるわけもないのに、父の考えは一貫していた。
こうして、毎朝6時に起き、父を相手に投げ込みをする日々が続いた。河野くんより、身長が15cmも高かったこともあり、私は2ヶ月もすると河野くんより速いボールを投げられるようになり、コントロールもまずまずだった。
私が初めてピッチャーとして試合に出る日、河野くんは、
「すごいな優子ちゃんは。あっという間に追い抜かれちゃったや。でも、俺はあきらめないよ」
と言ってくれた。私はそんな河野くんが好きになった。いわゆる初恋である。
試合の相手は、中島くんがいるライバルチームだった。
私は打席に立つと一度もバットを振らず、フルカウントの末、フォアボールを選んだ。
ストライクが入らないから、バットを振らないほうが出塁できる確率が高いと思ったのだが、
「それじゃプロでは通用しない。振る気がないなら、打席に立つな」
と父に激怒された。
この試合は確か、2対5で敗れた。
「女にピッチャーができるわけないだろ」
と中島くんが言ってきたが、
「この手を見ろよ。いっぱい、練習しているんだ。優子ちゃんはお前よりいいピッチャーになるんだからな」
と河野くんが私の腕を掴み、マメのできた手を見せた。
確かに女の子のきれいな手ではなかったが、心臓がドキドキしてたいへんだった。
6年生になると私は、中島くんに負けないほど速いボールが投げられるようになっていた。
そして、最も成長したのはコントロールだった。キャッチャーが構えたところにボールを投げられるようになっていた。
試合でも、ライバルチームに連勝するようになり、中学生になる前に中島くんは野球をやめてしまった。
河野くんは、その後も野球を続け、中学3年生になると私よりも身長が22cmも高くなっていた。
そして高校3年生の夏、甲子園のマウンドに立ったのだ。
父は大喜びするかと思ったが、
「この変化球じゃ、まだプロでは通用しない」
と指摘していた。
そのことを聞いた河野くんは、
「まだ、がついた分、一歩前進だ」
と、とても喜んでいた。
大学3年生になるとドラフト候補として注目されるようになったが、早朝のジョギング中に飲酒運転の車にひかれ、夢半ばにして命を奪われてしまった。飲酒運転をしていたのは、警察官だった。
宝くじで200万円が当たって、つい浮かれてしまったと、その警察官は供述した。
河野くんの両親は、
「200万円くらい払うから、お願いだから、今すぐ息子を返して」
と裁判の際に泣き崩れていた。
一緒に傍聴していた父の目に、殺意が滲んでいた。加害者の警察官を睨むその目には、確かに殺意があったと思う。
どこからどう見ても真面目な父が、人をそこまで恨むなんて…。私は父の拳をゆっくりとほどいた。そして、刑事になることを決めた。命を守ることを、名も知らない誰かたちに任せることができなかったからだ。
かつ日和を出ると、私はバッティングセンターに寄ることにした。右腕にギブスをつけ、左手一本で鋭いあたりを飛ばす。無心でバットを振っていると、いつの間にかギャラリーが集まっていて、
「いよっ、アニキ!」
と声をかけられた。
そうだ、いつまでも休んでいる場合ではない。私がこの腕を折ったのは、命を守るためではない。誰が私を押したのか、見るために右腕をついて振り返ったのだ。私が階段から転げ落ちて、皆が驚いている中、一人だけ笑みを浮かべながら去って行く奴がいた。逃げられたらたまらないので、あのおバカコンビには話すわけにはいかない。
私は帰宅すると、千里と一緒に夕食をとった。恐ろしく甘いビーフシチューを作ってくれていた。千里は相変わらずサラダしか食べない。もしかしたら、一緒にご飯を食べられるのも、今日が最後になるかもしれない。でも、私の頭の中を占拠したのは、千里の料理を頑張って食べる高杉くんの顔だった。
思い出すとおかしくなり、
「ふふふっ」
と笑ってしまう。
「お姉ちゃん、大丈夫?打ちどころがわるかったのかな…」
と千里に心配されたが、笑いが止まらない。
食材に謝りたくなるほどマズイ料理を、いつも完食しているなんて、根はやさしい人間なのだろう。
そして、今になって思うと、いつもよく喋る千里の口数が少なかった気がする。クリスマスケーキにも手を付けていなかった。
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