第34話 2007年(4)

2007年8月16日(木)  天気:晴れのち曇り


 一晩経って、私がなぜ結婚して下さいと言ったのか、その理由がわかった。私らしい。だから、達郎さんにちゃんと謝ることができる。ちょっと、心が落ち着いた。


 テーブルにならんだビールの空き缶とワインの空き瓶を片づける。この虚しい作業も慣れたものだ。二日酔いは思ったほどひどくはなかった。いっぱい泣けるように、水をたらふく飲んでから眠ったことが、効果的だったのかもしれない。


「今朝、達郎くんが訪ねてきたわよ。あなたにこれを渡してほしいって頼まれたわ」

 私が別荘に戻ると、久美子さんはそう言って、4つに折られた紙を渡してくれた。

 ちょっと考えてみればわかることだった。私は達郎さんの自宅を知らないが、達郎さんは私が久美子さんの別荘に泊まっていると見当をつけることできる。ここで待っていれば、昨日達郎さんに謝ることができていたのだ。


 久美子さんから受け取った紙には、地図が書かれていた。電話番号も、メールアドレスも、住所も書かれてなくて、地図だけが書かれていた。

「今日は夜勤明けだから、ずっと自宅にいるそうよ」

 久美子さんがそう教えてくれた。

「町子ちゃん、女はね、女らしくしようとするほどバカを見る生き物なのよ。だから、私はね、今の町子ちゃんはとても素敵だと思うわよ。羨ましいくらいだわ」

「……久美子さん、私、行ってきます!」

 私は、キャリーケースの中に入っていた服を適当に選んで、2分もかからずに着替えた。

「町子ちゃん、これを忘れないで」

「ありがとうございます!」

 久美子さんから、食材が入った袋を受け取ると、私は別荘を飛び出した。


地図に書かれてあるバス停に向かって走る。バス停までの距離は400mくらいと書かれていたが、もっと遠いように感じる。達郎さんは夜勤明けなのに、きっと起きて待ってくれているのだろう。1秒でも早く謝りに行かなければならない。


 バス停に辿り着き、時刻表を見てみると、2分後にやって来るバスがあった。その次のバスは90分後だった。着替えに迷っていたら、間に合わなかった。これなら、タクシーを呼ぶよりもずっと早く達郎さんの家へ行くことができる。


 バスがやって来た。両手を上げて止めた。そんな必要はないのだが、このバスを絶対に逃してはいけないと思った。乗車すると、乗客たちが私を見て笑っていたが、そんなことどうでもよかった。笑われない人生のほうがつまらないではないか。


 2階建てアパートの2階の角部屋だった。私は深呼吸もしないで、着いてすぐにチャイムをおした。

 玄関のドアが開いて、達郎さんが出迎えてくれた。

「町子さん、来てくれたんですね」

「ゼェゼェゼェ。すみ…ません。ゼェゼェゼェ。昨日は……ゼェゼェ、すみません」

「さあ、入ってください」

「お邪魔……ゼェゼェ……します」


 間取りは2DKのようで、キレイに片付けられていた。家具と家具の間に、ぽつんぽつんとすき間があった。そして、床や壁に、そこに家具が置かれていたことがわかる跡が残っていた。


「陸上部だったのですか?」

 麦茶をグラスに注ぎながら、達郎さんが尋ねてきた。そう誤解されても仕方がない。

「いえ、陸上はやっていません。島育ちなので走るのは早いほうでしたけど……」

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 達郎さんが麦茶を運んできてくれた。みっともないことは百も承知でゴクゴクと飲みほした。達郎さんは少し笑いながら、また麦茶を注いでくれた。

「昨日のことなんですが、本当にすみませんでした。私、結婚を前提にお付き合いしてくださいと、1回デートをした後に告白するつもりだったんです。それが、順番も飛ばして、言葉も短くしてしまって……。なんだか、一人でも気持ちが盛り上がってしまって、あんなことに……仕事中にすみませんでした」

「謝らないでください。確かに、あの後は、大変でしたけど……」

「そうですよね……」

「ええ、後輩たちに羨ましがられて大変でした」

「えっ?」

「女性からあんなに大胆にプロポーズされることなんてまずないですから」

 まずないことを、どうして私はできてしまうのだろう。

「それに、僕は嬉しかったですよ。町子さんのこと好きだと思います。でも、お付き合いの件は、お断りさせていただきます。僕、女性不信になってしまって……」

「女性、不信?」

「はい。娘が僕の子供ではなかったんです」

 言葉が出なかった。何か言うべきだと思ったが、何を言えばいいのか百年考えてもわかりそうもなかった。

「僕はまったく気付きませんでした。でも、おふくろが僕とまったく似ていないと娘が生まれた時から言っていて、ゴールデンウィークに急に遊びに来て変だなと思っていたら、こっそりDNA鑑定をしていたんです。そして、結果を知らされて……」

「い、いただきます」

「どうぞ。外は暑かったでしょ」

 麦茶を飲むことしかできなかった。

「今まで愛してきた娘なのに、妻の不倫相手の子供だとわかると……『パパのお目々、こわーい』って娘に言われて……。その時、こうすることを決めたんです。相手の男性も結婚していましたが、今は別れて、妻と娘と3人で暮らしているみたいです。あれ、ややこしくなってしまいましたね。妻と娘って言ってしまいましたが、別れた妻と……」

「だ、大丈夫です。は、話はわかりましたから……」

「よかった。なかなか説明が難しくて……」

 達郎さんみたいな素敵な男性と結婚して浮気するなんて信じられません、と言いたかったが、女は他の女の男が気になってしょうがないのだ。寝とったり、寝とられたりすることが、あちこちで勃発している。

「町子さんも、浮気をしたことがありますか? 僕はないんです。そういうところが息苦しかったと、別れた妻には言われました。正直、理解できません」

「私も浮気をしたことはありません。別れた奥様が言われたことも私には理解ができません。だから、まだ独身なんだと思います」

「そうですか……」

「信じていませんよね?」

「まあ……」

「お腹空いたので、クリームシチューを作ってもいいですか? 久美子さんに教えてもらったんです」

「ああ、それは嬉しいです。久美子さんのクリームシチューたまらなくおいしいですよね。僕にも作り方を教えてください」

「はい。昨日のお詫びに、ぜひ教えさせてください」

「ハハハッ。そうだ、後輩が、町子さんがすごいタイプの人だったと言っていましたから、紹介しましょうか?」

「結構です。先ほど、失恋したばかりですから」

「同じですね」

「同じです。しばらく、恋愛は休憩します」

 そう言って私はまた麦茶を飲んだ。走って来たせいか、軽井沢のおいしい湧き水で作った麦茶なのかよくわからないが、ゴクゴク喉を鳴らして飲んでしまうほどおいしい麦茶だった。


「それで?」

「それでって?」

「だから、麦茶の話はいいから、その後は?」

「一緒にクリームシチューを作って、一緒に食べました。すごくおいしいと喜んでくれましたよ」

「それで?」

「それでって?」

「だから、その後は?」

「久美子さんが期待しているようなことは、何も起こっていません。私たちはしばらく恋愛を休憩するのですから」

 別荘に帰って来ると、久美子さんの質問攻めが待っていた。先ほどから肖像画を描くのを放棄して、達郎さんの家に行って何があったのかしつこく聞いてくる。

「さっきから手が止まっていますよ」

「これかい? これはね、手が止まっているのではなくて、もう手が出せないのよ」

 久美子さんはそう言うと、キャンバスの向きを変えて、私に見せてくれた。

「素敵……」

 手で涙を拭いながら笑っている私が描かれていた。

「ありがとうございます。一生、大切にします」

「何を言っているんだい。町子ちゃんにはもう、お誕生日プレゼントをあげているわよ。これは、私のために描いた作品なの。おかげで素敵な作品になったわ。町子ちゃん、ありがとう。大切に飾らせてもらうわね」

「本当は途中から気に入ってきて、私にあげるのが嫌になったんじゃないですか? それが後ろめたくて私に高価なワンピースをプレゼントしてくれたんでしょう」

「何のことかしら。私は一度もこの絵を町子ちゃんにあげるとは言っていませんよ」

 確かに、そう言われた覚えはない。私の考え過ぎだろうか。だとしたら、ちょっと悪いことを言ってしまったな。せっかくあんなにかわいいワンピースをプレゼントしてもらったのに。

「町子ちゃん、もっと自分を信じてあげなさい」

「えっ?」

「さあ、今日は飲むわよ」

「私が酔っ払って口を滑らすと思っているかもしれませんが、本当に何もなかったので、期待しているような話は聞けませんよ」

「私は町子ちゃんを信じているわよ。多分、町子ちゃん自身よりもね」

「それはありがとうございます」

 久美子さんが、『ジョニーウォーカー ブルーラベル』の瓶に入った『ブラックニッカクリア』を運んでくる。

 どうやら、予備のシーツの出番が来たようだ。



2007年8月17日(金)  天気:晴れのち曇り


 久美子さんと一緒に目覚めのコーヒーを楽しんでいると、携帯にしつこく電話がかかってきた。

仕方なく着信歴を見てみると、職場からの電話だった。親しくしている後輩からメールも届いていた。私がライティングを担当した印刷物に誤字があったらしい。5回も校正をしたのに、誤字があったとは……。何度見直しても、気付けないことには気付けないんだなあ。


 ちょうどいいや。仕事で気を紛らわそう。

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