第33話 2007年(3)

2007年8月14日(火)  天気:晴れ


 3泊分の荷物しか持ってきていなかったこともあり、明日達郎さんに会いに行く時の服も見ながら、久美子さん行きつけのブティック『SUMIRE』に出かけた。


 店長の白井さんは、40代後半くらいの歳で、清楚すぎる雰囲気がかえって愛人感を出していた。決して前に出ようとしない、こういう女性となら男性も安心して不倫することができるのだろう。


 久美子さんは着せ替え人形を手に入れた女の子のように、私に次々と試着させて楽しんでいた。映画『プリティ・ウーマン』のワンシーンのようで、私もまんざらではなかった。後半はさりげなくポーズも決めていた。


 しかし、いざ自分で服を選ぼうとすると、現実は厳しかった。いつも買っている価格帯より一桁多い服ばかりだった。

 久美子さんはピンドット柄のワンピースを早々に購入していた。

 このステージは私にはまだ早かった。久美子さんは久美子さん。私は私だ。

 『SUMIRE』では、レース柄が気に入った、日傘だけを購入した。


 久美子さんと別れて、私はアウトレットパークに向かった。なんだか軽井沢に来てから、毎日ここへ来ている気がする……。

 達郎さんの服の好みなんてまったくわからない。無難に膝丈のフレアスカートにしようかと思ったが、パンツスタイルのほうが下心を隠せるような気がしてきた。


 ヘトヘトになって別荘まで戻ると、今度は久美子さんの料理修業が待ち受けていた。おいしいことに間違いないが、やっぱり久美子さんとは同じ味にならない。具材も調味料の量もまったく同じなのに。それに、4日連続のクリームシチューも辛くなってきた。久美子さんはおいしそうに、出前のお寿司を食べている。

「やっぱり、私の言った通りだったでしょう」

「何がですか?」

「町子ちゃんは、恋愛をしている時はそういう顔になるのよ」

 そういう顔とはどういう顔なのだろうか? ご指摘通り、明日達郎さんに会うと思うと、どんどん心と体が疲れてくる。今晩は眠れなくなる心配はなさそうだ。

 久美子さんはあっという間にお寿司を食べ終えると、画材を運んできた。

「久美子さん、今日は勘弁してください」

「あら、とてもいい表情をしているわよ。描かなきゃ罰があたるわ」

 一秒でも早く肖像画を描きたいために、お寿司を早く食べたようにも思える。いや、そもそもお寿司を頼んだのも、パッと食べられて、後片付けの必要もないからだ。久美子さんの中で、今日、私の疲弊した表情を描くことは、あらかじめ決まっていたことだったのだ。

 ダメだ……。もう眠い……。まだクリームシチューが残っているのに、私は睡魔に逆らうことができなかった。


「寝たふりをしてもダメよ。町子ちゃん、騙すの下手なのね」

 久美子さんの予測通りになっていることが悔しかったので、眠ったふりをして、久美子さんが席を立った時に、肖像画を覗こうとしたのだが、あっけなくばれてしまった。自分の名誉のために言っておくが、私が騙すのが下手なのではなく、久美子さんがウソを見抜くのが上手過ぎるのだ。

 結局、どんなウソを上手につける女が結婚できるのかわからないまま、明日達郎さんと会うことになりそうだ。




2007年8月15日(水)  天気:晴れ


 迷いに迷った結果、ピンドット柄のワンピースに麦わら帽子を合わせたシンプルコーデで、私は勝負に挑むことにした。昨日、久美子さんは、ブティック『SUMIRE』で私のためにこのピンドット柄のワンピースは買っていたのである。この格好なら下心を適度に隠せているはずである。

「ちょっと早い誕生日プレゼントだよ」

と言って、久美子さんは高級な服を私がもらいやすいように、プレゼントの理由までつけてくれた。


 あまり早くから駅前をうろついているところを達郎さんに見られると、重たい女だと思われかねないので、8時20分頃に着くように計算して、タクシーを呼んだ。

 ところが、こんな時にかぎって渋滞にはまってしまい、8時半を過ぎても駅につけないでいた。

「ここで降ろしてください」

 今日のチャンスを逃すと、いつ達郎さんと会えるのかわからないので、私はタクシーから降りて走ることにした。パンプスを履いているので足が痛い。ちょっと走っただけで汗も止まらなくなる。せっかく、久美子さんからワンピースをプレゼントしてもらったのに、まともな状態で達郎さんに会えそうもない。それでも、会えないよりはずっといいと思った。8時くらいには駅前について、30分ほどトイレにでも隠れていればよかったのかもしれない。それか、駅前のホテルに泊まっておくという手もあった。

 でも、今となっては走るしかない。達郎さんに会いに走って行くしかない。私は余計なことは何も考えずに、軽井沢駅を目指して必死に走った。


「ゼェゼェゼェ」

 軽井沢駅の改札で、二年振りに達郎さんと再会した。

「ゼェゼェゼェ」

 腕時計を見ると9時10分を指していた。40分も走って来たことになる。

「ゼェゼェゼェ」

 幸い、改札を通る人は少ない。

「ゼェゼェゼェ」

「町子さん、ですよね。久美子さんから、お名前を教えてもらいました」

「ゴホッゴホッ。ゼェゼェゼェ」

 あいかわらず爽やかな人だ。軽井沢の風を感じながらもそう思えるのだから、東京で会うともっと爽やかさが前面に出ることだろう。

「私と結婚してください。ゼェゼェゼェ」

「えっ?」

「私と結婚してください!」

 しまった。聞き返されたので、思わず大声で叫んでしまった。

 通りかかったお客さんや、他の駅員さんの目が点になっている。

 達郎さんの顔は、怖くて見ることができない。まず、自分がどうして「結婚してください」と言ってしまったのか、10秒以内に整理しなければ気まずすぎる。今日は、2年前のお礼がしたいという口実で食事にお誘いする計画だったのに。駅まで走って来る間に、私の中でいったい何が起こったのだ? ダメだ全然、頭の中を整理できない。私は達郎さんの顔を見ることなく、その場から逃げ出した。


 久美子さんに会わせる顔がないので、別荘に帰ることはできない。アウトレットパークもまだ開店していないので、人混みの中に隠れることもできない。追いかけられる心配はなかったが、達郎さんに見つかる場所から1秒でも早く離れたかった。

 私はパンプスを脱いで、裸足で走った。変な汗もかいたせいか、久美子さんからもらったワンピースは、もうびしょびしょに濡れている。

 数分後、私はパトカーに発見され、警察官に呼び止められた。裸足で走っている私を見たタクシードライバーが、何か事件があったのではないかと心配して、警察署に通報したそうだった。


 迷惑な女だ。


 その一言に尽きる。私という女は、人様に迷惑をかけないと、生きることができない性分なのかもしれない。


「2日分の料金を払うから、今すぐチェックインさせてください」

と通りかかったホテルでも、迷惑なお願いをして、私は今、シャワーを浴びながらホテルの浴室で泣いている。


 爽やかで優しい人であること意外、私は達郎さんについて何も知らない。好きな色も、好きな食べ物も、趣味も、部活は何をしていたのかも、兄弟は何人いるのかも、何も知らない。

 それなのに、なぜ私はプロポーズをしてしまったのだ? しかも、達郎さんの勤務中に……。今頃、同僚にからかわれて嫌な思いをしていることだろう。

 誰か、今すぐ、タイムマシンを作ってよ。今から東京大学へ行けば、天才学生が「ちょうど完成したところです。私に不可能はないのです」と言って、テストも兼ねて私に一番最初にタイムマシンを使わせてくれるということはないだろうか。いっそのこと、失敗して原始時代に飛ばされたいくらいだ。ああ、また現実逃避している。こんなくだらないことばかり考えてしまうから、私はダメなのだ……。


 久美子さんには、『今日は一人でホテルに泊まります』とメールした。これで、大よそのことは察しがつくはずだ。

 さすがにお酒を飲む元気もないと言いたいところだが、もう6本目のビールを飲んでいる。そろそろ、コンビニにワインを買いに行こうとしている。

 とにかく、明日にでも達郎さんにきちんと謝って、東京へ逃げることにしよう。お礼を告げるはずが、謝罪をすることになるなんて……。

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