第32話 2007年(2)

2007年8月12日(日)  天気:晴れ


 朝、目を覚ますと、久美子さんが私を見ながら肖像画の続きを書いていた。

「おはようございます」

「おはよう。よく眠れたようだね」

 壁掛け時計に目をやると、もう朝ではないことがわかった。私はトイレへ行くと、またベッドに戻って、二度寝をすることにした。こんな贅沢滅多にできることではない。久美子さんは私を叱ることもなく、肖像画を書き続けていた。


 空腹感に負けて、二度寝は30分ばかりで降参した。てっきり、久美子さんが昼食を準備してくれているものと思っていたら、私はダイニングではなく、キッチンに連行された。久美子さんからクリームシチューの作り方を教わるのだ。

「町子ちゃんが自分で作らないと、今日のご飯はありませんからね」

「わ、わかりました」

 普段は大らかな久美子さんだったが、料理のことになるとスパルタ感があった。

「もっと大きめに切りなさい」

「まだアクが残っているわよ」

「もう少し弱火にしなさい」

 まるで花嫁修業をしているようだった。そのためか、達郎さんと結婚するようになるのではないかと本気で思い始めていた。


 なんとか日が暮れるまでには、久美子さん直伝のクリームシチューが出来上がり、今日初めての食事にありつけた。

「おいしいー!」

 多分、今は何を食べてもそう言っただろう。一度作っただけでは、久美子さんと同じようには作れない。でも、レストランで食べるクリームシチューよりは、よっぽどおいしく作れたと思えた。

「35点ね」

 やっぱり、料理のことになると、久美子さんは厳しい。二口だけ食べると、お皿を私の前に動かした。お腹が空いていたのでちょうどよかった。そう、自分を慰める。やっぱり、作った料理を残されると悲しいものだ。


 食後は、また肖像画の続きを描くことになった。私は何度も嫌だと言ったのだが、久美子さんに何度もお願いされると断り切れず、私がお風呂に入っているのを見ながら、久美子さんは至って普通のことのように肖像画を描いていた。こんなことになるのなら、美容院に行くだけではなく、エステにも行っておけばよかったなあ。久美子さんに会う時は、運命の人にプロポーズされてもかまわないくらい、自分を磨いた状態でいないといけないと痛感した。


 結局この日は、一歩も外に出ることなく、久美子さんの別荘で贅沢な時間を過ごさせてもらった。

 明日の朝も肖像画を書かれていることだろうから、ヨダレをたらしたりしないように気を引き締めなければ。

「ヨシッ!」

と気合いを入れてから、私はベッドに潜り込んだ。




2007年8月13日(月)  天気:晴れ


 気合いを入れて眠ったおかげか、夜が明け始める5時過ぎに私は目を覚ました。

 ベッドから下りると、静かに歩いて、久美子さんの寝室に侵入する。女として筋を通して生きてきたことが窺い知れる気品のある寝顔を見て、私は久美子さんも眠るんだと当たり前のことを思った。

 私の中で、久美子さんは物語からひょっこり出て来てしまった架空の人物に見えていた。でも、こうして寝顔を見ていると、現実に存在する女性なのだと実感した。

 私は気付かれないように静かに久美子さんの寝室から出て行った。久美子さんが私に気付いていることは知っていたが、それがマナーだと思ったからだ。


「町子ちゃんが来てから、いいお天気が続いているわね」

 お庭で私の肖像画を描きながら、久美子さんがそう言った。

「UVクリームが足りなくなりそうです」

「フフフッ。私のを貸してあげるわよ」

「ありがとうございます」

 少しだけ会話をして、久美子さんはまた肖像画の世界に戻って行く。

 花の写真を撮ったり、アリの行列を観察したり、自分の影から離れられるか再挑戦してみたりして過ごしていたが、私が待っている言葉が、一向に久美子さんから出てこない。

「久美子さん、いつになったら達郎さんに会いに行くのですか?」

 仕方ないから自分から聞いてみた。

「あら、それを待っていたのは私のほうよ。いったいいつになったら達郎くんに会いに行くの?」

「えっ?」

「前にも言ったけど、これは町子ちゃんと達郎くんの問題なのよ。私が町子ちゃんの手を引っ張って連れて行くわけにはいかないの」

 恥ずかしながら私はそれを待っていた。

「私にできるのは、料理を教えたり、こうして肖像画を描いて、女として見られることを強く意識させたりして、町子ちゃんの魅力を引き出してあげることだけよ」

 いつものように久美子さんが笑うことはなかった。

 この時、ようやくわかった。久美子さんは本気で、私と達郎さんが結ばれてほしいと思っているのだと。東京で、友人から男性を紹介される感覚でいた私は、緊急独り会議を開いて猛省した。


 タクシーを呼んで、さっそく軽井沢駅に向かい、達郎さんの姿を捜したが見つけることができなかった。

「どうかしましたか?」

「な、なんでもありません」

 改札前をキョロキョロしていたので、年配の駅員さんに声をかけられてしまった。

 私はそそくさと軽井沢駅を後にして、アウトレットパークにあるカフェに避難した。早歩きで逃げてきたせいか、心臓がドキドキする。

 腕を組んで歩くカップルや、少し間をあけて歩く夫婦たちの姿が見えた。特に羨ましいと思ったのが、手をつないで歩いている老夫婦の姿だった。


 アウトレットパークでツバ広ハットとディアドロップのサングラスを購入し、声をかけられた年輩の駅員さんがいないように祈りながら、再度軽井沢駅へと踏み込んだ。時刻は21時を過ぎていた。一昨年、初めて達郎さんと会った時間帯だ。

 改札付近にも、みどりの窓口にも、達郎さんの姿はなかった。その代わりに、昼間に声を掛けられた年輩の駅員さんがみどりの窓口にいた。彼は私に気がつくと、小走りで近づいてきて、

「もしかして、達郎を捜していますか?」

「えっ、そんな……」

「結構いるんですよ。達郎を見かけて、ファンになる女性の方が」

「そうではなくて、以前にお世話になったことがあったのですが、そのお礼をまだ言えてなくて……」

 これは本心だった。達郎さんは、ホテルが見つからずに困り果てていた私を助けてくれた。しかも、久美子さんを紹介してくれたのだ。ずっとお礼を言いたいと思っていた。

 一昨日見かけた時がチャンスだったのだが、既婚者という高い壁があったので、話しかけることができなかった。あらかじめ久美子さんが絵葉書に、達郎さんがフリーになったことを書いていてくれたら、そのチャンスを逃すことはなかったのに。


 とにかく、一昨年の出来事を年輩の駅員さんに話すと、

「ハハハッ。達郎らしいなあ。そういうことなら大丈夫かな。達郎は今日と明日は休みでいませんが、明後日は朝の8時半頃までには出勤していると思いますよ」

と教えてくれた。


「町子ちゃん、でかしたねえ」

 別荘に戻って、さっそく久美子さんに報告すると、頭を撫でて褒めてくれた。

 クリームシチューを作る時は、やっぱり厳しかったが、昨日よりも久美子さんの味に近づいていた。


 明日会いに行くわけでもないのに、ドキドキして眠れない。

久美子さんはじっと黙って私の肖像画を描いている。どんな風に描かれているのか気になるが、絶対に見せてくれなかった。

「久美子さん」

「眠れないのかい。いい兆候だよ」

「結婚できる女と、結婚できない女の違いは何でしょうか?」

「そうだねえ、ウソを上手につけるかどうかじゃないかしら」

「私、ウソつくの得意なほうです。会社を何度もズル休みしていますが、ばれたことは一度もありません」

「フフフッ。そういう何かを隠すウソとは違うの。フフフッ」

「えっ、それじゃ、どういうウソのことですか?」

 久美子さんは私の質問をスルーして、また肖像画の世界に戻って行った。久美子さんは、いつも肝心な部分を教えてくれない。だから、私は肝心なことを自分で気づくことができる。明後日までに、どんなウソを上手につけたほうがいいのか、わかっていることを願って眠ることにした。

「フフフッ。フフフッ」

「久美子さん、思い出し笑いはやめてください。眠れません」

「ごめんなさいね。フフフッ」

「アハハッ」

「フフフッ」

 久美子さんの笑い声を聞いていると、意味もなく私まで笑ってしまう。もうしばらく眠れそうもないや。

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