第31話 2007年(1)

2007年8月11日(土)  天気:晴れ


『アイキャッチ』の夏季休業が13日~16日までだったので、今年の夏休みは、17日の金曜日に有休をとって、11日から19日まで9連休をつくった。


 去年の夏休みに『アイキャッチ』を辞めようと決めたこともあったが、ネットカフェ難民という言葉が生まれてしまうこのご時世で、8年近く勤めてきた会社をそう簡単に辞めることはできなかった。


 今日から始まる9連休が嬉しくてたまらなくて、昨晩仕事が終わってタイムカードを押した時の爽快感は格別だった。こういうご褒美もあるから、フラフラになりながらも、なんとか仕事を続けられている。


 2年振りの軽井沢は東京都同じくらい暑かった。まずは、おみやげを買うために、アウトレットパークに向かう。新幹線で缶ビールを2本飲んでいたので、ほろ酔い気分で吸う軽井沢の空気は最高だった。


 6月の中旬に、久美子さんから絵葉書が届いた。ジャスミンの花がとてもキレイに描かれていたので、今でも玄関に飾ってある。

『夏休みになったら、遊びにいらっしゃい』

と素敵な字で書かれていた。


 小型のキャリーケースには3日分の荷物をつめてきた。ホテルは予約していない。約束はしていないが、久美子さんの別荘に泊めてもらうことにしている。なるべく久美子さんの近くにいて、女子力をアップさせてから東京に戻るのだ。


 2年振りに再会した久美子さんは、髪型をショートカットに変えていて、さらに美しくなっていた。私も先週、美容院に行ってからここへやって来たのだが、完敗だった。

「『沢屋のジャム』を買ってきました。ここに置いておきますね」

 私はお使いを頼まれた娘のように、ストロベリーや巨峰、桑の実、それにトマトや山すももなど、たくさんの『沢屋のジャム』が入った袋を、ダイニングテーブルに置いた。


「よく来てくれたね、町子ちゃん。忙しいだろうに」

 久美子さんが、カモミールティーを運んできてくれた。東京のどんなにオシャレなカフェで飲むお茶より、私は久美子さんが淹れてくれるカモミールティーのほうがおいしく思えた。

 去年の11月に、東京駅で久美子さんと会う機会があった。仕事が終わるのが遅れてしまい、久美子さんを1時間半も待たせてしまった。

「忙しいことは幸運なことよ」

と久美子さんは笑って許してくれた。いや、許してくれたというよりも、まったく怒っていなかったのだろう。


「達郎君がね、離婚したのよ」

 なんの前触れもなく、特に言葉を選ぶわけでもなく、日常的な出来事のように久美子さんはそう言った。私は思わず、カモミールティーを噴き出してしまった。

「ゴホッ。ゴホッ。すみません」

 ハンカチで慌てて拭くが、テーブルクロスのシミになってしまった。前回訪れた時にグラスを割ってしまったので、今回は気をつけようと思っていたのに、30分ももたずにやらかしてしまった。今日、軽井沢駅で達郎さんを見かけたが、そんな風には見えなかった。一昨年と同じように爽やかに接客をしていた。まあ、仕事風景をチラッと見ていただけだから、離婚しているのかどうかなんて察しようがないが。

「だから、町子ちゃん、いいわよ」

 久美子さんが悪戯っぽく笑う。

「えっ、何がですか?」

 私は落ち着きを取り戻すために、再びカモミールティーに手を伸ばす。

「達郎くんに手を出してもいいわよ」

 またカモミールティーを噴き出しそうになったが2回目なので、今回はほっぺたを思いきり膨らませて、なんとか耐えることができた。

 達郎さんが離婚したから手を出しても良いという道理は理解できるが、その前に私がフリーかどうか久美子さんは知らないではないか。

「町子ちゃんも、お付き合いしている人がいるわけじゃないのだから。堂々と手を出せるわよ。フフフッ」

 なぜ、私に彼氏がいないと言い切れるのだ? 知らず知らずに独り身のオーラをマスターしてしまっているのだろうか。

「お付き合いしている人がいたら、町子ちゃんはこんなに楽そうな表情はできないものね。もっと疲れた表情をしているはずよ」

 相変わらず洞察力が鋭い。確かに彼氏がいる時は、こんなにあっけらかんとしていないだろうと自分でも思う。


「でも、どうして達郎さんが離婚を?」

「それは私から話すことはできないわね。町子ちゃんと達郎くんの問題だから」

「わかりました。一旦その話は置いといて、せっかくの天気ですから、外でビールでも飲みに行きませんか?」

「フフフッ。フフフッ」

「アハハハッ。やっぱりばれちゃいますよね」

「お酒を飲ませて、喋らせようとしてもムダよ。私は、そんな女ではないですから。フフフッ」

「わかりました。機会があったら、達郎さんに聞いてみます」

 とはいえ、離婚したのですか? と尋ねるわけにもいかないし、理由を知るのはなかなか難しそうだ。それに、イケメンで優しくて、理想の夫の象徴のような達郎さんが離婚する理由が見当たらない。

浮気でもしてしまったのだろうか。でも、もし私が達郎さんの妻だったら、3度くらい浮気されても許してしまう。それくらい達郎さんはモテるだろうし、他の女の男を欲しがる女はウジャウジャいる。魔がさしても、私だったら達郎さんを責める気にはならないのだ。それに、娘さんもいるのにどうして離婚を? 娘さんとは一緒に暮らせているのだろうか?

 考えをめぐらせていたら、いい匂いがしてきた。このために、駅弁を食べるのを我慢して正解だった。


雑貨屋さんをめぐっても未だに見つけることができていない、魔女が使っていそうな木のおたまで、久美子さんがクリームシチューをお皿によそう。

そうか、久美子さんだから、魔女が使っていそうなおたまに見えるのだ。私みたいなひよっこがどこを探しても見つかるはずがなかった。


「腹が減っては戦ができないからね。たくさんお食べ」

久美子さんはそう言いながら、大盛りのクリームシチューとパンを運んできてくれた。

「いただきます!」

 私は火傷しないように、フーフーして、見かけはおしとやかだが味はおとなしくないクリームシチューを口に入れる。

「んーー! おいしい!」

「町子ちゃんには特別に、このクリームシチューのレシピを教えてあげるわ」

「本当ですか! やったー!」

「男の胃袋を掴むのは、基本中の基本ですからね。しっかり覚えて、達郎くんに食べさせるのよ。でも、勝負に日には食べさせてはいけないよ。男性は空腹時のほうが性欲が高まるからね」

 久美子さんはそう言って、私にウインクをした。女は歳をとるのが怖いものだが、久美子さんとだったら、体が入れ替わっても嬉しいと思う。

 それにしても、久美子さんはどうして、私が達郎さんと結ばれることにこんなにも積極的なのだろう?


「こっちは気にしなくていいからね。本を読んでもいいし、眠ってもいいし、町子ちゃんの好きなようにくつろいでちょうだい」

 食後は、久美子さんが私の肖像画を描きたいと言い出して、生まれて初めて絵画のモデルに挑戦することになった。

「じっとしていなくてもいいのですか?」

「それでは、町子ちゃんらしくないでしょう」

 ごもっともだ。そんなわけで、久美子さんから借りたヘミングウェイの『老人と海』を読みふけっている。タイトルの通り、老人が海に出るだけの名作だ。

「どうしたの? ため息なんかついちゃって」

「私にはこんな作品、到底書けません」

「フフフッ。ヘミングウェイはヘミングウェイ。町子ちゃんは町子ちゃんよ。フフフッ。フフフッ」

「そんなにおかしいですか?」

「フフフッ。ごめんなさい。だって、町子ちゃんがあまりにもかわいいものだから」

 もうすぐ28歳にもなるのに、久美子さんから見たら、私はまだまだお子ちゃまなのだろう。ああ、30歳まであと2年の猶予しかない。それまでに、結婚することができるかな。私が今思っている以上に、達郎さんがフリーになったことは、ビッグチャンスなのかもしれない。だんだんそんな気がしてきた。


 夕食は久美子さんのボーイフレンドの一人が経営しているレストランで、おいしいイタリアンをいただいた。久美子さんは赤ワインを3杯飲んでいたが、どうして達郎さんが離婚をしたのか、口を滑らすことはなかった。


 私が借りるベッドの脇には予備のシーツが置かれていた。久美子さんらしい悪戯と優しさだった。一昨年、飲みすぎて吐いてしまったので今日は酒量を控えめにしていたが、これなら明日は心置きなく飲むことができる。

 達郎さんは今頃、一人で眠っているのだろうか。眠れないでいるのだろうか。少しだけ、そんなことを考えてから、私は心地良い眠りに落ちた。

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