第27話 2004年(3)
2004年8月15日(日) 天気:晴れのち曇り 最高気温:22.7℃
6時から、もう2時間近くも国道沿いでヒッチハイクを試みているが、止まってくれる車が一向に現れない。
犬の散歩をしていたマダムが、
「日曜日は市場がお休みですからね、ヒッチハイクは難しいんじゃないかしら」
と言っていたが、本当にそうなってしまった。
お腹が空いていたので、一旦ヒッチハイクを中断して、100mほど先に見える牛丼屋さんに向かおうとした。
すると、通りかかったレクサスが止まり、助手席の窓を開けて、犬の散歩をしていたマダムが、
「まさかとは思ったけれど、まだ頑張っていたのね。そんな恰好で寒かったでしょう。さあ、早くお乗りなさい」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
と礼を言いながら、私は助手席に乗り込んだ。そして、シートベルトを締めようした時に、『グー』っとお腹が鳴ってしまった。
「オホホホホッ。もうしばらく辛抱してね。この先にある、おいしいラーメン屋さんに連れて行ってあげるから」
マダムは私を見て上品に微笑みかけると、思いの外勢いよく車を発進させた。
「それで、行ってみてどうだったの?」
「えっ、何がですか?」
「何って、宗谷岬に決まっているでしょう」
「ああ、宗谷岬には行っていないので、わかりません」
「行ってないってあなた……。それじゃ、ここまで何しにやって来たのよ……」
マダムが若干、引いたような表情を見せた。
確かに日本最北端の場所である宗谷岬を見るために、ここまでやって来た。しかし、いざ宗谷岬まであと500mとなったあたりで、私の中に一つの疑問が生まれた。
沖縄出身の私が、日本最西端の場所である与那国島の西崎に行く前に、宗谷岬に行ってしまっていいのだろうか?
12分ほど協議した結果、答えはNOだった。やはり、先に与那国島の西崎へ行くことが筋だと思ったので、宗谷岬はその後に訪れることにした。
「どう、おいしいでしょう?」
「はい、すごくおいしいです」
マダムに連れて来てもらった高級中華料理店で、鶏白湯ラーメンをごちそうになった。笑顔がひきつっていなか不安でたまらなかった。なんであの時、お腹が鳴ってしまったのだろうか。もっと早く朝食をとっておくべきだった。そうすれば、親切にしてくれているマダムに対しておいしそうに食べる演技をしなくてもすんだのに。
もちろん、1杯2,700円もする鶏白湯ラーメンはおいしかったのだが、これより何倍もおいしいラーメンを昨日食べたばかりだったので、リアクションが極めて難しかった。
「あなた、大したものね」
「えっ?」
「ここのラーメンを食べて、満足しない人に会うのは、あなたで3人目だわ」
「す、すみません」
「謝ることはないわよ。それより、ここよりおいしいラーメン屋さんを知っているのなら、教えてちょうだい」
私は正直に、『味噌雷神』での出来事をマダムに話した。マジックペンで額に“I LOVE MACHIKO”と書かれていた話は割愛した。
「町子ちゃんに会えて、私はラッキーだわ」
とマダムは嬉しそうに言ってくれた。よっぽどラーメンが好きなのかと思ったら、
「町子ちゃんは、素敵な人たちと出会うのが上手なのね。だったら、私も素敵な人ってことになるでしょう。素敵な1日になりそうよう。ありがとう」
と感謝されてしまった。
それなのに私は、「はあ……」としか答えることができなかった。車に乗せてもらい、高価なラーメンをごちそうしてもらい、逆にありがとうと感謝までされたのに、なぜ私は「はあ……」としか言えなかったのだ。去年も同じようなことがあった気がする。
旭川までマダムの車に乗せてもらい、ろくな返事ができなかった謝罪の意味も込めて、何度もお礼を告げて、マダムと別れ、釧路行きの高速バスに乗ってからもずっと考えているが、あの時、どのうように返せばよかったのか、正解がまるで見つからない。
すやすやと眠っている他の乗客たちが羨ましい。私はもやもやを抱えたまま、6時間後に釧路に到着した。
21時を過ぎて、すっかり暗くなっていたが、お目当ての店はまだ営業しているはずである。
まず私は、駅前のビジネスホテルで、シングルルームを確保した。どこからどう見ても、お一人様用のシングルルームだった。バスで眠ることもなかったし、今晩はぐっすり眠れそうである。
荷物置いてホテルから出ると、私は早歩きでお寿司屋さんの『大野』へと向かった。大将が作った卵焼きとお弟子さんが作った卵焼きを最初に出されて、大将が作った卵焼きを当てた客だけが、大将の握るお寿司を食べることができる店があると、職場の先輩から聞いていて、一度訪ねてみたいと思っていたのだ。
途中から小走りしたこともあって、なんとか閉店までに間に合った。『大野』の店内はカウンター席だけで、50代くらいのほっそりとした大将と、昔はヤンチャだったことが想像できる20代のお弟子さんの二人で切り盛りしているようだった。
私の他にお客さんはご年配の紳士だけで、大将の握ったお寿司を食べていた。どうやら、大将が作った卵焼きを当てることができたようだ。
そして、私にも二つの卵焼きが出された。見た目に違いはない。
「いただきます」
私は二つの卵焼きを立て続けに食べた。なるべく意識して、一つ目の卵焼きを食べてからすぐに二つ目の卵焼きを食べた。味の違いがまるでわからない。これで、疑問に思っていたことの謎が解けた。
「どちらも大将が作った卵焼きですね」
私がそう答えると、
「これはこれは、大したもんだ、お嬢さん」
とご年配の紳士が褒めてくれた。
この卵焼きのテストの話を聞いた時に、私はどうしてお客さんを選ぶほどお寿司にこだわりを持っている大将が、お弟子さんの作った卵焼きをお客さんに出しているのだろうと疑問に思った。いくらテストとはいえ、大将のお寿司を食べたくて訪れたお客さんに、お弟子さんが作った卵焼きを出すことは失礼なことであり、そんなことを『大野』の大将がするとは思えなかったのだ。
「お客さんがどちらを選んでも正解するようになっているんですね」
と私が笑いかけるが、大将は無反応のまま、お寿司を握り始めた。
「そうそう。たまに外れと言う時は、態度の悪いお客を返すための口実なんじゃよ」
とご年配の紳士が教えてくれた。
「はいよ」
大将が真鯛のお寿司を出してくれる。
「いただきます」
私は箸を使わずに、真鯛のお寿司をつまんだ。今日、初めてカウンターデビューする私にとって、衝撃的な美味しさだった。日本人に生まれてよかったと心の底から思い、思わず目頭が熱くなった。おいしさはもちろんだが、引き継がれてきた日本の食文化に深く感銘したからだった。何人もの職人さんが腕を磨き、やがて弟子へと技法を継承してきたおかげで、私は今、こんなにも贅沢なお寿司を食べることができているのだと思うと、グッと胸に込み上げてくるものがあった。
「おいしいです」
真鯛のお寿司を食べて大分経ってから、私はようやく言葉にすることができた。
「ほっほっほ。いい食べっぷりじゃ。大将、このお嬢さんにたくさん食べさせておくれ」
「へい」
「今日はいい夢を見れそうじゃよ」
と言い残して、ご年配の紳士は店から去って行った。
ハマチ、エンガワ、ハモ、サバ、ホタテ、マグロの赤身、中トロ、大トロ、イクラ、ウニ、カニミソ、アナゴと覚えきれないくらい、次々と大将が握ってくれるお寿司を私は食べ続けた。
そして、お腹一杯になった時に、その言葉が目に飛び込んできた。大将におまかせで握ってもらっていたので、メニューを気にしていなかったが、ほとんどのネタが“時価”と書かれていた。
私はこっそりと財布を確認したが、一万円札は入っていなかった。近くのコンビニでお金を下ろしてきますと言って、信じてもらえるだろうか。人質として置いて行けるような、高価な物も持ってはいない。私が挙動不審な行動をとっていると、
「お代は、史郎さんが払ってくれますから大丈夫ですよ」
とお弟子さんが言ってくれた。
「史郎さん?」
「はい。先ほどのご老人です。お客様にたくさん食べさせておくれと受けたまわっていますから」
確かにお店を出る前に、史郎さんはそんなことを言っていたが、そういう意味だったとは……。
「ごちそうさまでした」
私は日本の食文化と、それを支えている方々に感謝して、あらためてお辞儀をした。顔を上げると、一瞬だけ大将の笑みが見えた。私も今日はいい夢を見られそうだ。
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