第26話 2004年(2)

2004年8月14日(土)  天気:晴れ 最高気温:25.5℃


 昨晩は、葉月さんに牛のさばき方を教えてもらったり、牛タンの丸焼きを食べさせてもらったりして、とても楽しい時間を過ごさせてもらったはずである。

 断定できないのは、葉月さんに北海道の地酒をいくつもすすめられ、倒れるほど飲み続けてしまったので、記憶が定かではないのだ。

 葉月さんも私も、3人のおじいちゃんたちもひどい二日酔いで、感動の別れとはならずに、

「またおいでよ」

「はい。お世話になりました」

と短い挨拶だけして、なんとか吐くのを堪えて、アーリーアメリカンな葉月さんの家を後にした。


 レンタカーを借り直していたが、とても運転できる状態ではないので、私はバスで移動することにした。レンタカーは葉月さんが返してくれる。下の名前が花というのは意外だった。でも、自分らしく太陽に向かって輝いている葉月さんに、よく似合っている名前だと思う。誰が教えてくれたのかは覚えていないが、葉月花という名前はしっかり覚えていたし、もう忘れることもないだろう。


 バスに乗って札幌の市街地に到着すると、私は公衆トイレに駆け込んだ。嘔吐しても、なかなか吐き気がおさまらず、肉を食べ過ぎたこともあり、腹痛も激しかった。

 1時間くらいして、他の利用者の視線が痛かった、思い出の公衆トイレを後にすると、私はとてつもない空腹感に襲われた。何か食べよう。何か食べてしまえば体調は一気に回復する。20歳になった時にはどうしてこんなに頭が痛くなるものを好んで飲むのか理解できなかったが、今となっては二日酔いとも上手に付き合えるようになっている。


 キャリーケースを引きずりながら、トボトボと市街地を歩いていると、匂いに誘われて、ラーメン店の『味噌雷神』に辿り着いた。まだ10時半なので、開店まで1時間も待たなければならない。道路の反対側には、立ち食いそば屋さんが見えた。朝ご飯なのか、昼食なのかわからないが、スーツ姿のサラリーマンがおいしそうにそばをすすり、スープを飲んでいた。

 ここは一先ず、そばを食べて体調の回復を優先するべきか。それとも、ラーメン店めぐりのために北海道までやってきたのだから、『味噌雷神』の開店まで待つべきか。正解は後者だ。『味噌雷神』の店先で2分ほど思案していると、もう『味噌雷神』のラーメンを食べるしかないと思えてきた。まだ仕込中なのに、これほど食欲をそそる香りを漂わせているのだ。そんじょそこらのラーメンではないことは明白だった。

 10分ほど、私がキャリーケースにもたれるように屈んで開店を待っていると、勢いよく扉が開いて、ベリーショートの髪型が素敵な女性が、

「入りな」

と言ってくれた。

 中で休憩させてくれるのだと思った私は、

「ありがとうございます」

と礼を告げると、店内に入った。ヨダレが止まらなくなるほど、旨味に満ちた匂いが私に襲いかかってくる。

「これ使って」

と言うと同時に、店に入れてくれた女性が、私にエプロンを投げた。

「えっ?」

「暇なんでしょ。だったら、手伝ってよ。その分、早くラーメンを食べさせてあげるからさ」

「わ、わかりました」

 私はエプロンを着けると、厨房に入った。葉月さんと似た匂いがする女性は、

「私の名前は、凛。ここの店主さ。急にバイトさんが来られなくなってね、そこの棚にある器を全部洗っておくれよ」

「えっ? でも、ここの器、キレイですけど……」

「ウチは食べた後と、開店前に器を洗うことに決めているんだ。並んでくれるお客さんに気持ち良く食べてもらいたいからさ」

 やっぱり行列ができるようなラーメン屋さんだったのだ。二日酔いで研ぎ澄まされた私の嗅覚に狂いはなかった。

「ほら、さっさと手を動かして」

「は、はい」

 私は髪を結ぶと、棚から器を下ろして、一つひとつ丁寧に洗った。

「そんなんじゃ開店時間に間に合わないよ」

 なんだかよくわからない流れで食器を洗ってやっているのに、文句を言われたのでムカッとした。なぜ、私は今、出会って5分も経たない相手に、こき使われているのだ?

「水は大目に出していいから、こんな感じで丁寧且つ素早く洗っていくんだ。ほら、やってみて」

 私が渋々、凛さんに負けない早さで食器を洗うと、

「ほら、やればできるじゃん。人間って、思っているよりもずっとよくできているものさ。どんどん洗っておくれよ」

 男っぽいところは葉月さんに似ているが、凛さんの場合は上からくる感じが鼻に付き、生理中の私をさらにイライラさせた。バイトさんは休んだのではなく、辞めてしまったのではないだろうか。

「だから、早く手を動かしなって。ウチのラーメンが食べたくないのかい?」

「わ、わかりましたよ」

 凛さんの作るラーメンをどうしても食べたいという弱みを握られている私は、難しく考えないで食器を洗うことにした。ラーメンを入れるドンブリ、トッピング用の小皿、コップなど店内にある全ての食器類を私は29分56秒で洗ってやった。多分、それくらいだったと思う。


 ようやくカウンター席に座らせてもらうと、私が洗ったピカピカのコップに、凛さんが水を入れて渡してくれた。

「おいしい」

水を一口飲んで、自然と言葉がこぼれた。

「ハハハッ。おいしいはまだ早いって」

 凛さんは愉快そうに笑いながら、特製の味噌ラーメンを作ってくれた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 カウンターテーブルに置かれたラーメンは、具が何も入っていない素ラーメンだった。

「ウチは初めて食べる人には、これをおすすめしているんだよ」

「い、いただきます!」

 私が洗ったレンゲを使って、スープを口に入れる。その瞬間に、頬っぺたが痛くなるくらい、旨味が体中を突き抜けた。雷に打たれるとこのような感覚になるのかもしれない。濃厚だけど後味がさっぱりしていて、特製味噌の豊かな甘みとコクを思う存分堪能することができる。中太の縮れ麺をすすると、スープとよく絡んでいて、目を閉じて噛み締めずにはいられない。

 何という満足感だ。一杯のラーメンを食べただけなのに、歴史的な偉業を達成したかのような満足感がそこにはあった。

「ごちそうさまでした」

 私は合掌をして、空になったどんぶりに向かってお辞儀をした。そして、厨房にどんぶりとコップを持っていくと、またキレイに洗った。説明することは不可能だが、まさに心が洗われるような体験だった。

「今日は助かったよ。お礼にこれあげる」

 凛さんはゴミ箱に捨ててあった箱を拾い上げると、中に入っていたバタフライエフェクトのサングラスを私に渡した。

「でも、これ、お高い……」

「いいからもらってよ。捨てるよりはマシだからさ」

 私が受け取らないでいると、凛さんは私にサングラスをかけた。

「うん。やっぱり、町子ちゃんに良く似合っている」

「そうですか?ちょっとハデじゃ……」

「大丈夫、大丈夫。あっ、ちょうど来た」

 凛さんはそう言うと、私のキャリケースを持って、店から出て行く。慌てて私も店から出ると、いつの間にか大勢の行列ができていた。

 そして、店の前には黒塗りのハイヤーが停車していた。

「兄貴にメールして迎えに来てもらったんだよ。好きなところに連れて行ってもらいな。お代は後で私が出すからさ」

「えっ、でも……」

 私が戸惑っていると、並んでいるお客さん達がざわつき始めた。

「芸能人じゃない?」

「えっ、誰?」

「あのおでこ、芸人さんかな?」

「あんなサングラスして、ラーメン屋にハイヤーを呼ぶなんて、有名な女優さんに決まっている」

 そんな声が聞こえて来て、私はたまらなくはずかしくなった。意外と小柄な凛さんのお兄さんが運転席から降りてくると、後部座席のドアを開いて、私をエスコートしてくれた。私は逃げるようにハイヤーに乗り込んだ。

 3秒だけ本当に女優さんになったような気分に浸ると、窓を開けて、

「もう一度、よく考えてみてください」

と言って、凛さんにサングラスを返した。

「はいはい、わかりましたよ」

 凛さんが参りましたという表情で笑顔を見せた。

「また来ますからね」

「わかったって。しつこい女は嫌われるよ」

「お幸せに!」

と言って、私は窓を閉めた。それが合図だとわかってくれた、凛さんのお兄さんが車を発進させた。

 バイトさんは、凛さんの彼氏だったのだ。きっと、些細なことでケンカになってしまったのだろう。だから、凛さんの機嫌が悪かったのだ。

「それでは町子さん、どちらへ行かれますか?」

 凛さんのお兄さんに尋ねられ、次の目的地を決めていなかった私は答えに困ったが、それ以上に、どうして私の名前を知っているのかが気になった。凛さんがメールで教えたのだろうか。そもそも、凛さんに私は名前を教えていなかった気もする。

 凛さんのお兄さんの表情を探るべくバックミラーを見ると、謎はすぐに解けた。私の額に“I LOVE MACHIKO”と書かれていた。おまけにハートマークまでついている。

 目的地はすぐに決まった。


 凛さんのお兄さんに、葉月さんの家まで送ってもらうと、さっさと用事を済まして、バス停へと向かった。

 ちょうどバスが来たので、どこに行くか決めていなかったけど、そのバスに飛び乗ることにした。

 葉月さんの家の前を通過する時、ご自慢のピックアップトラックの前で膝をついて崩れている葉月さんの姿が見えた。

 フフフフフッ。愛の告白にはちゃんと返事をしなければ失礼だ。私も葉月さんを愛していますよ。ヒッチハイクをすることになるかもしれないと思い、空港でマジックペンとノートを買っていて大正解だった。


 それから、私はバスを乗り継ぎ、ヒッチハイクデビューを果たし、なんとか稚内に辿り着いた。時刻は23時を過ぎていた。ラーメンめぐりについては、バスの中で数人の自分と協議した結果、『味噌雷神』を超えるラーメンを食べたいとは思わないので、もうやめることにした。

夏とはいえ、夜の北海道は随分と寒かった。とりあえず、コンビニで暖かい飲み物を購入してから、ヒッチハイクさせてもらった漁師の熊田さんに教えてもらったビジネスホテル『宗谷第一ホテル』に向かった。新しくできた隣のホテルにお客さんをとられて、ほとんどの部屋が連日空室になっているそうだった。


 『宗谷第一ホテル』に着くと、遅い時間にも関わらず、フロントの後藤さんが笑顔で応対してくれた。来週にもお孫さんが産まれるそうで、まだ40代だけどおじいさんになっちまうと、嬉しそうに話してくれた。私はいつになったら、両親に孫の顔を見せることができるだろうか。それに、孫の顔を見せたとしても、母は別として父は後藤さんのように喜んでくれるだろうか。父が赤ちゃんを抱っこして、デレデレしている姿が想像できなかった。


 部屋に入ると、広めのツインの部屋だった。空室があったので、好意でグレードアップしてくれたのだろうが、海外旅行をドタキャンされたことを思い出してしまい、結局、お風呂に入りながら涙を流すことになってしまった。

 あと1日、生理が遅れていたらと思ったが、フランスまで行っても、私が生理になったと知ったら、彼はやはり“お仕事”のために、私一人を残して日本に帰国していたことだろう。フランスで置いて行かれるくらいなら、やっぱり昨日から生理になってよかったのだと思える。


 明りを着けたままベッドに潜り込むが、寝付けなくなってしまったので、漁師の熊田さんの金歯に対して、本当に何もつっこまなくてよかったのか、考えてみることにした。個人の好みの問題だから、家族ならまだしも他人がとやかく言う必要はない。しかし、熊田さんの場合は、田村正和似のイケメンだった。あの金歯が邪魔しなければ、日本一ダンディーな漁師さんになるはずだ。やはり、普通の刺し歯にしたほうが素敵ですよと言うべきだったのかもしれない。

 でも、今日会ったばかりの私がそう思うのだから、家族や友人の方たちだってそう思っているはずである。その中の誰かが、金歯はやめたほうがいいと言っているに違いない。それでも、金歯のままでいるということは、熊田さんにとって譲れないものなのだろう。だがしかし、知人から言われうと意地になってしまうが、まったく知らない人に言われると、意外とすんなり直せることだってある。私の出番だったのだろうか。見ず知らずの私を車に乗せてくれた熊田さんに、正直に話して恩返しすべきだったのではないだろうか。答えが見つからないまま、私は日本最北端の市にある老舗のビジネスホテルのツインルームで、おやすみなさいも言えずに独りぽつんと眠りについた。

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