第25話 2004年(1)
2004年8月13日(金) 天気:曇りのち雨 最高気温:21.4℃
この日から私は、13日の金曜日に大切な用事を入れないようになった。
成田空港で搭乗ゲートに入る直前に、彼の携帯に仕事の電話がかかってきた。私が生理であることを知った彼が、知人にかけさせた電話である。
「ごめん、急に仕事が入っちゃった」
ドラマでよく聞く台詞を残して、彼はそそくさと“仕事”に向かった。
「せっかくだから、町子ちゃん一人で楽しんでおいでよ」
と言われたが、初めての海外に一人で行く勇気はなかった。
フランス、イタリア、ドイツを周る過密スケジュールだったのに、生理になったがために16日までの予定が見事に白紙になってしまった。
幸い、『アイキャッチ』の同僚には、この旅行のことを内緒にしていたので、ヨーロッパ旅行のお土産がないと言われる心配はない。
さらに幸運なことに、テレビ局のプロデューサーをしている40過ぎの独身男の彼に遊ばれているだけだと今回のことでよくわかったので、きっぱり別れることができる。
私から別れ話を切り出しても、彼はまったくへこたれないだろう。彼と付き合うことにしたのは、その点だけは信用できたからだ。
さてと、4日分の荷物が入ったキャリーケースを持って、成田からどこへ行くべきだろうか。せっかく荷づくりしたのだから、どこかに旅行に行きたいものだ。
沖縄の実家に帰ろうかとも思ったが、この時季飛行機の空席があるわけがない。今から羽田に向かってキャンセル待ちしても、無駄骨になることだろう。
考えていてもらちが明かないので、一先ず成田エクスプレスのホームへと向かうことにする。当然だが、外国人が多く、なるべく目を合わせないように歩いていたら、大きなバックパックを背負った青年に声をかけられた。
恐らく道を尋ねられているようだったが、どこに行きたいのかまるでわからない。近くに、他の日本人がいないか探して見るが、時計を見ながら早歩きで進んでいる人ばかりで、声をかける隙がない。
青年はバックパックからスケッチブックを取り出すと、一枚の絵を私に見せた。
「おいしそう……」
スケッチブックには、日本各地のラーメンのイラストが描かれていた。
「オイシイ、ソウ、ラーメンオイシイ」
私が英語を喋られないことを理解した青年は、日本語でのアプローチに変更したようだった。
「ユー、オイシイラーメン。アー、ナンバーワン、ラーメン」
ラーメンを食べるジェスチャーをしながら、青年は片言の日本語で懸命に伝えようとしている。
その熱意からか、私は青年がオススメのラーメン屋さんを聞きたいのだと理解した。
「沖縄そば。沖縄そば、ベリーデリシャス」
特別好きなラーメン屋さんがなかったので、私は麺類で一番好きな沖縄そばをすすめることにした。
「オキナワソバ?」
「イエス。麺類、ナンバーワン、沖縄そば」
「オー、テンキュー!」
青年は笑顔を浮かべて私にハグをすると、爽やかに手を振って去って行った。私も、青年に向かって大きく手を振った。彼のおかげで旅行先が決まったからだ。
私は成田エクスプレスに乗って品川まで戻ると、京急線に乗り換えて羽田空港へと向かった。そして、福岡、山形、北海道のどこかに行ける飛行機を探すと、運良く新千歳行きの便で空席が見つかった。
“お仕事に向かった彼”に、別れのメールを送ると、ラーメン店めぐりをするべく、私は北海道へ飛び立った。
「夏なのに涼しい!」
それが、北海道の大地に降り立った私の第一声だった。ラーメン店めぐりには、ちょうどいい気候だ。いい旅になりそうだ。すべてはスケッチブックを見せてくれたあの青年のおかげだ。今頃、おいしい沖縄そばを食べてくれているといいが、都内にある沖縄料理店には当たり外れがあるので、急に心配になってきた。とはいえ、私にできることは何もないから、レンタカーを借りて心置きなくラーメン店めぐりをすることにしよう。
「ウソでしょ!」
車から降りて、倒れている牛を見ても、今起こったことが信じられない。延々と続く真っ直ぐな道を気持ちよく運転していたら、突然道路に出て来た牛と衝突したのだ。
エアバッグが作動し、車のフロントは大きく凹んでいた。
牛は生きていたが、脚の骨を折ってしまったようで立ち上がることができないでいた。
JAFかレンタカー会社か警察か、いったいどこに連絡をしたらいいのかわからない。とりあえず、勇太に電話をかけてみるが、案の定留守電になっていた。日中に勇太が電話に出ることはまずなかった。両親に電話をすると心配をかけてしまうだろうし、頼りになる俊に電話をしても、牛をひいた時の対処法を知っているわけがない。
そんなこんなで困っていると、“お仕事に向かった元彼”から電話がかかってきた。私は迷わず電話に出た。状況が状況だ。恥を忍んで、力を借りることにしよう。
30分ほど待っていると、ピックアップトラックが走って来て、私と牛の死体を追い越して停車した。
そして、ピックアップトラックから、やけに体格のいいおじいちゃん3人と、髪をブロンドに染めた運転手の若い女性が降りて来た。
「ここの牧場のオーナーに電話をしたら、誕生日祝いにこの牛くれるって言うから、もらっていくよ」
ブロンドの女性がそう言うと、マッチョな老人たちが牛を持ち上げて、ピックアップトラックに積み込んだ。
「車のほうも保険に入っているから心配ないさ。また空港まで戻るのもつまらないだろうから、札幌の店舗で新しい車に変えてもらえるように手配したよ」
ブロンドの女性はそう言っている間に、手際良く私が借りたレンタカーとピックアップトラックを連結した。
「それじゃ行こうか」
ブロンドの女性は私の返事も聞かずに、運転席に乗り込んだ。そして、3人のおじいちゃんが後部座席に乗り込んだので、私は助手席のドアを開き、
「すみません。よろしくお願いします」
と言って、助手席に座った。
ブロンドの女性は私がドアを閉めると同時に、ピックアップトラックを発進させた。
何を話せばいいのかまったくわからない。ブロンドの女性は、“お仕事に向かった元彼”の浮気相手だ。正確には、元彼だから、浮気相手だった人になるのか。いや、本命は彼女のほうで、私が浮気相手だった女なのかもしれない。そんな相手といったい何を話せばいいのだ。彼の女癖の悪さを慰め合うか。もう会うつもりはないと伝えるべきか。彼女と2人だけならまだしも、後部座席で沈黙している3人のおじいちゃんも気になって、この状況の会話にふさわしい言葉がまったく出てこない。
すると、彼女が突然、車を止めた。荷台の牛が跳ねた衝撃が伝わってくる。
「私がブロンドだからって、見下してんじゃないわよ!」
彼女は怒った口調で私にそう言うと、
「さっきから黙ってジロジロ見て、そんなに私のことをバカにしたいわけ?」
と続けた。
「そんな、バカにするなんて……。助けていただいて感謝しています。ジロジロ見ていたのは、何を話していいのかわからなくて……。あの、ブロンドだから、見下すって、どういうことですか? すごく似合っているのに」
「はあ……。あなた、何も知らないで彼と付き合っていたのね。いい、彼は髪の色で自分の女をランク分けしているのよ。単なる遊び相手がブロンドで、本命候補が黒髪、そして本命に選ばれると赤髪に染めさせるの。つまり、私よりあなたのほうがランクが上だったってことよ」
「今から、彼をひきに行きませんか?」
私が真顔で言うと、
「ワッハッハハハ。さすが、黒髪だけあるね。本当、できるものならひいてやりたいね」
彼女は初めて笑顔を見せると、再び車を発進させた。今回は随分と丁寧にアクセルを踏んでいた。
「私の名前は、葉月。下の名前は気に入らないから、教えないよ。あなたは?」
「木下町子です」
「いい名前だね。なんだか似合っているよ」
「ありがとうございます」
名前のことを褒められるのは滅多にないことなので、素直に嬉しかった。
「あの、後ろのおじいさまたちは?」
「ワッハッハハハ。おじいさまだって? そんなにご立派なじーちゃんたちじゃないよ。口数が少ないのは、喋られないことが多いからなんだ」
詳しいことはよくわからないが、おじいちゃんたちについて詳しく知らないほうが身のためだということがよくわかった。
「察しがいい子だね。気に入った。今日、家でバーベキューをするから、泊まっていきなよ」
「えっ?」
「ホテルとってあるのかい?」
「いえ、まだですけど……」
「それなら決定だ。まあ、ホテルを予約していても、キャンセルさせていたけどね」
葉月さんが、悪戯っぽく笑う。ドキッとするくらい、かわいい人だと思った。こんなに素敵な女性を弄んでいるなんて、海外旅行をドタキャンして“仕事に向かった元彼”がますます許せなくなった。
「そんな怖い顔しないの。町子ちゃんにはその顔は似合わないよ」
「でも……」
「あんなバカ男だけどさ、コンビニで買い物した後は必ず募金していること知っているだろ?」
「まあ……」
「それも女を落とすためのテクニックの一つかもしれないけどさ、私は思うんだ。一人で買い物する時は恥ずかしくて募金ができないけど、私たちと一緒にいる時は、遠慮なく募金できているんじゃないかって。だってさ、あいつがお釣りが出ないように買い物をするところを見たことがないもん」
言われてみるとその通りだった。いつも、買い物してお釣りをもらって、募金箱に入れていた。
「でも、もう惚れたりしちゃダメだよ。バカ男には違いないんだから」
「フフフッ。はい、もう会うこともありません」
「よろしい。やっぱり町子ちゃんはあのバカ男にはもったいない女だよ」
「フフフッ。フフフッ。」
「何がおもしろいんだい?」
「だって、葉月さん、バカ男の話をするとき、嬉しそうなんですもん」
「そ、そんなことないさ。誰があのバカ男を……」
スケッチブックを見せてくれた青年のおかげで、こんなに素敵な出会いに恵まれるなんて思ってもいなかった。根拠はないが、あの青年は絶対に当たりの店で沖縄そばを食べている気がした。きっと人生は、そんな感じで進んで行くのだろう。
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