第12話 2006年(3)

2006年8月15日(火) 天気:雨のち曇 最高気温:29.2℃


敬愛するユーミンやドリカムの曲を流しても、何も書けないまま時間だけが過ぎる。

散歩に出かけても、オシャレなカフェでランチを食べても、何もアイデアが浮かばない。

ドロップアウトを強制終了し、A4コピー用紙が散らばった部屋に戻る。私は脚本を書く時は、A4コピー用紙に登場人物の設定や、プロットを書いて、それを軸にパソコンで書き進めていくようにしている。

パソコンとだけ向き合うこともできないし、紙とだけ向き合うこともできない。パソコンで書いて調子が悪い時は、紙に逃げる。紙で書いて調子が悪い時は、パソコンに逃げる。

そうしないと、起承転結の“起”で延々と彷徨うことになってしまう。このスタイルは私には合っていた。亀のようにノロノロでも、着実に物語を書き進めることができていた。


でも、今回は、何を書けばいいのか、まったく自信が持てない。昨夜は青春ものを考えていたが、今朝読み直してボツにした。進路指導の先生が目立ち過ぎている。それに、今時の女子高生を書くことは困難を極めた。

やっぱり、SFを書こう。今の日本のCG技術で映像化できるのかどうかなんて、気にしなければいいのだ。でも、これまでもそんな作品ばかり応募するから、一次審査さえ通過したことがないんだぞ、町子。

ああ、どうしよう。もう退職願を書いちゃったよ。高円寺のよさげな物件だって見つけているのに。どうして、何も書けないの。気分転換に、テレビで夏の甲子園を観ようかとも思ったが、観始めたら試合の途中でテレビを消す自信がない。


私は冷蔵庫から、『レッドブル』を取り出すと、一気に飲み干し気合を入れる。

集中するんだ。感覚を研ぎ澄ますのだ。うーん、セミがうるさい。上の階の人の足音も気になる。久しぶりに一人でしてみるか。ああ、私はなんてことを考えだしているのだ。股間に伸ばした手を頑張って机に戻す。

ノンフィクションで、木下マチコの憂鬱を出すか。はあ、ため息しか出てこない。きっと、原因は夏休みだ。私としたことが、夏休みに真っ当な人間になろうとしている。


夏休みだぞ。遊ばないと死んでしまうぞ。動悸がしてきたので、私は財布とタバコと携帯電話をショルダーバッグに投げ込むと部屋から飛び出して、ボタンを何度も押してエレベーターを呼ぶ。

2階で止まったままで、5階まで上がって来ない。しびれを切らして階段を駆け下りていく。2階まで下りた時に、誰がエレベーターを止めていたのだろうとチラッと見た時に左足をくじいてしまう。

私は左足を引きずりながら、1階まで下りて、マンションを出る。駐車場には引っ越し業者のトラックが停められていた。ふん、私が引っ越しをするときは、この業者にだけは絶対に頼むもんか。


私は経堂駅に向かって歩きながら、コピーライター仲間の“アンジー”に電話をかける。やっぱり、電話に出ない。特に女性のコピーライターには変人が多い。いわゆる女子とはまったく別の生き物だ。

アンジーも私と同等か、それ以上に気分屋だから、気が向いた時に電話をかけてくるだろう。着信履歴に気付いたらの話だが。


次に2ヶ月で辞めたヨガ教室で知り合った、京子ちゃんにも電話をしてみる。彼女は世田谷に実家がある本物の東京人だから、近場にいるかもしれない。

「どうした?」

「カラオケ行かない?」

「いつ?」

「今から」

「オッケー。場所は?」

「京子が決めていいよ」

「じゃ、新宿で。東口に17時ね」

「わかった」

電話を切ると、信号が青になり、私は横断歩道を渡って、経堂駅へ入って行く。


京子に電話をしていたから、信号がちょうど青に変わったように思える。さばさばした性格の彼女には、周囲の人間の背中をシャキッとさせる能力がある。17時まで、まだ時間があるが、早めに行って大黒屋でも覗いてみよう。


京子が『粉雪』を4回歌えば、私は『純恋歌』を5回歌った。21時過ぎにアンジーも合流し、アンジーの『クイーンメドレー』を聞くと、24時間営業の居酒屋へ移動する。

最初は3人で飲んでいたが、大学生の男の子たちに声をかけられたので、一緒に飲むことになった。最近、年下もありだなと思うようになっていたので、ちょっとはしゃぎすぎてしまった。

もっと大人の女性を演じれば、アンジーみたいに一緒に飲んだ男の子と付き合うことになったかもしれないのに。


一人ぽつんと始発電車で帰路に就く。雨が降っていた。終電とは今でも仲良しだけれど、始発電車に乗るのは久しぶりだった。歳だな。先ほどまで一緒に飲んでいた男の子からメールが届く。『よろしかったら二人でドライブに行きませんか?』。

物静かで華奢な透くんからのメールだった。メールの文面にも人柄が出ている。私もまだいけるな。だけど、こんなことを繰り返して、どこに進んで行くのだろう。

木下町子はまるで山手線だ。ぐるぐる、ぐるぐる回っているだけ。


おかしいな。大学生の男の子にドライブに誘われたのに、どうして涙がこぼれくるのだ。待ち合わせの時間までブラブラしている時に買った、青いハンカチを取り出して涙を拭う。

私も彼のように、涙じゃなくて汗をハンカチで拭うような生き方をしなくては…。あと4時間後には3回戦か。3時間くらいは寝られるかな。

それにしても、女が泣いていると、どうして男共はチラチラ見て来るのだろうか。また目が合ったから、舌打ちをしてやった。

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