第13話 2006年(4)

2006年8月16日(水) 天気:雨 最高気温:29.6℃


一度眠ってしまうと起きられそうもないので、冷蔵庫に常備してある『眠眠打破』を飲む。何度飲んでも味はアレだが、『眠眠打破』と『レッドブル』のおかげで、私は広告業界で働くことができていた。

ネットで改めて調べてみると、早稲田実業が登場する第1試合は8時30分プレイボールだった。忘れていたが、今日は第3試合に沖縄代表の八重山商工の試合も組まれていた。


やっぱり、2時間ほど眠らないと八重山商工の試合までもたないと思い、ベッドに倒れ込むが、『眠眠打破』がそれを許してくれない。やらかしてしまった。

早稲田実業の試合日程は頭に入っているのに、故郷の出場校の試合日程はぼんやりと記憶していた。ちなみに私は、東東京代表の帝京高校のファンである。昨日、延長戦の上、3回戦を突破していた。

小学生頃に見た甲子園で、帝京高校の縦じまのユニフォームがかっこよく見えたことを覚えている。縦じまのユニフォームのチームは他にもあるが、なぜだか帝京高校を応援するようになっていた。


「…ダメよ。こんなところで…いや、やめて…」

いつの間にか寝ていた私が夢から覚めた時、青いハンカチが似合う彼がダイヤモンドを一周していた。6回の裏、ワンアウトランナーなしから、ソロホームランを打っていたのだ。ホームランのVTRを観て、私の眠気は一発で覚めた。彼はまだ童貞だろうか。可能性は低いがもし童貞だったなら、甲子園が終わった直後に激しい童貞争奪戦が始まることだろう。もちろん、知人が彼と知り合いだったとしたら、私だって参戦する。相手にされないことはわかっているが、参戦するのは私の自由だ。


その後、試合は早稲田実業のペースで進み、灼熱の太陽の下で王子様は9回自責点0で見事に完投勝利をおさめた。

あとは準々決勝を勝ってくれれば、準決勝と決勝戦はちょうど土日でがっぷり観ることができる。

第3試合の八重山商工は、強豪校の智弁和歌山に惜敗した。そして、エースピッチャーの大嶺くんが空を見上げた時の「空を見上げました。沖縄の空にももちろん繋がっています」という実況が心に刺さった。

浅倉南が、かっちゃんとたっちゃんに甲子園に連れて行って欲しがった気持ちがよくわかった。私の空は、ちゃんと沖縄に繋がっているだろうか。



2006年8月17日(木) 天気:曇 最高気温:32.6℃


『アイキャッチ』に勤め始めて7年目に入り、私は夏休みにくっつけて有休を1日取る権利を取得できていた。明日も有休を取ることができたら9連休となっていたのだが、まだそれを良しとしない空気が先輩方から漂っていた。

とは言え、たった1日出勤すれば、また土日の休みがやってきれくるので、今年は夏休み最終日特有の後悔症候群に襲われることがなかった。


映画館に『ハチミツとクローバー』と『ゲド戦記 』を観に行こうと思っていたが、電車で揺られている間に気が変わった。

大手旅行会社の広告を見て、私の心の中は、小学生の3人兄弟がいる家みたいに騒がしくなった。新宿に着くと、お盆休みでも営業している旅行会社に入る。


アジア、ヨーロッパ、アメリカ、気になったパンフレットを見ていると、

「どのようなご旅行をお考えですか?」

「まだ具体的には…」

「お友達と行かれるのですか?」

「いえ、一人です」

「どうぞ、こちらへ」

恐らく独身と思われる30代後半の女性のスタッフは笑みを浮かべると、カウンターに私をエスコートする。


薬指が裸であるだけでなく、男受けしそうなメイクとタバコで黄ばんだ歯を見て、私はこの女性スタッフが、仕事終わりに新宿2丁目のゲイバーに行って、泣きながら梅酒を飲んでいる姿を想像していた。

「お客様、お客様」

「は、はい」

「海外旅行は初めてですか」

「はい」

「初めての海外旅行でしたら、やはり日本語を使える人が多い、ハワイやグアム、台湾がおすすめです」

「でも、それだと海外に行った感じが薄まってしまうような…」

ベテランの女性スタッフは、小さく息を吸うと、イタリアとフランスを周遊するプランを紹介した。

「若い女性の方にとても人気のツアーです」

「飛行機で12時間はちょっと…」

「眠ってしまえばあっという間ですよ」

「眠れないんですよ」

「それでは…」

ベテランの女性スタッフは、今度は外さないぞと鋭い眼差しで私が好みそうなツアーを探す。


飛行機が苦手なので、これまで私は海外旅行を敬遠していた。飛行機に乗るのは沖縄に帰省する時だけでいい。

飛行機という発明品は信頼できるが、それを取り扱う人間という生き物にどうしても不安を感じてしまう。人間は誰でもミスをする生き物だ。

でも、たっぷり残っている有休をどう使おうかと考えた時、やっぱり海外旅行が最もそれっぽい行動に思えた。『アイキャッチ』で奮闘した自分へのご褒美だから、誰にでも自慢できる出来事をつくるべきだと感じていた。


「神様が残した最後の楽園と言われています」

ベテラン女性スタッフの、その一言が私の心を惹きつけた。

「よさそうですね。行ける日が具体的に決まったら、また来ます」

「その時は、私、庄子にお申し付けください」

私はパラオのパンフレットと、庄子さんの名刺をもらうと、旅行会社を後にした。


まだ13時過ぎだったので、映画を1本観てから帰ることにする。時間的にちょうどよかった『時をかける少女』を観た私は、心の中の大切な場所に火がつき、『ハチミツとクローバー』と『ゲド戦記 』もはしごして観賞した。

残念ながら、『ゲド戦記』を観ている時は、私の脳裏は残念ながら庄子さんに占拠されていた。


私は映画館を出ると、新宿2丁目にある馴染みのゲイバーへ行った。ここで勇太と初めてあった時は、本当に時間が止まった。『ディオ・ブランドー』もゲイバーに来るのだろうか?

勇太は大学の学費を稼ぐためにアルバイトをしていると言っていたが、どちらかというと仲間がいるこの場所が大切だったのだと思う。この日は、勇太ことを話題にすることはなかった。そうなるには、まだ時間が必要だ。

22時前になり、庄子さんが店にやって来た。彼らの出迎え方で、常連さんであることがわかる。


庄子さんは私に気付くと、気まずそうな表情を浮かべたが、

「よろしかったら、付き合っていただけませんか?」

と私が言うと、

「ええ、いいですよ」

できるだけ大人の女性の余裕を見せて、庄子さんは私と同じテーブルの席につくと、すぐにタバコを取り出した。


本当は、私は明日の仕事にびびっていて、そろそろ店を出ようかと考えていたが、仕事終わりにゲイバーに通う未婚で30代後半の女性の生態に興味がわいた。

どうやら今日観た映画はもう一度見直すはめになりそうだ。黄色い歯を見せながら語る、庄子さんのラブストーリーのほうが私の記憶に残ってしまう予感がした。


そしてこの日、帝京高校は激闘の末に、智弁和歌山に逆転負けを喫した。毎年ドラマが生まれる甲子園大会の中でも歴史に残る名勝負だったらしい。

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