第11話 2006年(2)

2006年8月13日(日) 天気:晴れ 最高気温:32.7℃


電車と高速バスを乗り継いで新潟市を訪れた。荒々しい波しぶきが押し寄せる、日本海こそが今の私に最適な避難場所だと思ったのだが…。

子供たちが楽しそうに泳いでいる。夏の日本海がこんなにも穏やかだとは知らなかった。間違いなく、私は今、勇太にバカにされている。


仕方なく海の家に入り、生ビールを注文する。日本海で海水浴ができるなんて、大学で映画の勉強ができることを知った時の衝撃と似ている。進路指導の上原先生は今頃何をしているだろうか。

よく冷えた生ビールを、勇太に悪いなと思いながら、一気に半分ほど半死状態の心に流し込む。

「お母さん、あの人どうして水着に着替えないでお酒を飲んでいるの?」

「見ちゃダメよ…」

「ミキちゃんは、ああいう大人になっちゃダメだよ」

「もう、お父さん…」

残っていたビールを飲み干すと、私は市街地へ行き、白のビキニを購入する。胸に自信はないがパッドで盛れるし、脚には多少なりとも自信があった。


再び海水浴場に戻ると、水着に着替えて、先ほどの家族連れを見つける。そして、家族連れの隣に敷物を敷いて座ると、缶ビールを飲む。おっと、私としたことが胸にビールを垂らしてしまった。

「ちょっと、お父さんどこ見ているのよ!」

「いや…その…」

「お父さん最低…」

うーん、夏の日差しを浴びて、海水浴場で飲む缶ビールの味は格別だ。そう思いたい。


せっかく新潟まで来たので一泊することにした。ホテルは昨日のうちに見つけていた。去年は、達郎さんと久美子さんがいなかったら、路頭に迷うところだった。

ビジネスホテルだったけれど、部屋も広めでベッドもセミダブルサイズだったので、ゆっくり休むことができそうだ。15時にチェックインして、2時間ほど眠ってから、地酒を飲める居酒屋に行こうと思っていたが、海水浴場で生ビールと缶ビールを飲んでスイッチが入っていた私は、荷物を置くとすぐに飲みに向かった。

そして、18時前にはホテルに戻って来た。中学生の門限でもあるまいし、まだ明るいうちに帰って来るなんて、私らしくない。


だって、一人で飲んでもおいしくないんだもん。今までだって、一人で居酒屋に行くことはあった。それなりにおいしく飲むことができた。

それは勇太という存在が心の中にあったからだ。今度、勇太をこの店に連れ来てあげようとか、このつまみは勇太には合わないなとか思いながら飲んだ一人酒には未来があった。

でも、今日の一人酒は、空っぽだった。お酒を飲んでも、心にひっかかる場所がない。シャワーを浴びると、20時前には部屋の明りを消した。すすり泣きがビジネスホテルのシングルルームに響いた。電気をつけた。テレビをつけた。眠りについた。



2006年8月14日(月) 天気:晴れ 最高気温:32.8℃


ある目的のために、新幹線で缶ビールを飲む至福のひと時を我慢して、お昼近くに経堂のマンションに帰宅する。

私はカーテンを閉じたままテレビをつけると、DVDをプレーヤーに入れた。今日はシラフで、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観たい気分だった。名作だ。観る度に、名作になっていく。面白すぎる。こんなに痛快な作品をどうやったらつくることができるのだ?

ライトノベルも、もちろん面白かったけれど、私はやっぱりアニメ版のほうが好きだ。嫉妬のあまり、12分ほどでやけ酒の衝動に駆られる。仕方ないので私は一時停止をすると、冷蔵庫に入っていた3本の缶ビールを取り出し、フタを開けてシンクに全部流した。

よし、こうしてしまえば邪念なく観ることができる。テレビの真ん前に座ると、再生ボタンを押そうとしたが、途中から観るような感じがしたので、もう一度最初から観ることにする。


2時間後、私は退職願を書いた。それなりの給与をもらえていた。残業はきついが、新聞の15段広告に自分が書いたキャッチコピーが使われると、疲れの数だけ桜の花が咲いた。ようやくTCC新人賞を取ることもできた。高学歴でオシャレなイケメンと知り合う機会も多かった。お寺巡りをするコピーライター仲間もできた。

なんとなく続けていた仕事だから、真剣に悩むようなこともなかった。6年か…随分と長いこと逃亡を続けていたものだ。もうすぐ27歳になる。

30歳まであと3年。恐らく私の人生にとって、非常に貴重な3年間であるはずだ。今のところ断トツNo.1の高校の3年間を超えるくらい、キラキラしたものにしたい。もがいてやりたい。


私はカーテンを開くと、思いきり背伸びをする。

「いっちょやってみっか!」

木下町子の本気を、木下町子に見せてやるのだ!

パソコンを立ち上げると、住宅情報サイトで、『2階以上』『お風呂付き』という最低限の条件をつけて、物件を探した。実に楽しい作業だ。今よりぼろいアパートを借りることになるのにワクワクする。

最悪の場合は、半年くらい働かなくても暮らせるくらいの貯金はある。念のために結婚資金として貯めていたが当分は必要なさそうだ。

できるかぎり、家賃が安いアパートに引っ越して、少しはアルバイトをしながら、シナリオコンクールに応募する作品を書こう。

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