第10話 2006年(1)
【流行語】イナバウアー,品格
2006年8月12日(土) 天気:雨時々曇 最高気温:26.6℃
長野県松本市。城下町の住宅街に勇太の実家はあった。ご両親に頼まれて、私が送った写真が、遺影として仏壇に置かれていた。
お線香を立てた。母親が礼をする。父親は掛け軸を観賞している。社交辞令の挨拶を済ませると、お墓参りに向かった。
エベレストに登っていようが、メキシコのシウダー・フアレスにうっかり入ってしまおうが、渋谷のスクランブル交差点を渡っていようが、いずれにせよ私たちは死と直面して生きているのだ。
花一つないお墓だった。私がお花を供えると、見知らぬおばさんが話しかけてきた。勇太の親戚だろうか。そのおばさん曰く、勇太がこのお墓に入ることを父親が大反対して大変だったそうだ。
それを聞いた私は、勇太の実家を再訪すると、思いっきり振った缶ビールを仏壇に供えてフタを開けてやった。
「すみません。勇太さんに、飲んでもらおうと思って…」
私は缶ビールを取ると、わざと転んで掛け軸にかけてやった。
「ご、ごめんなさい…」
なかなかの演技だったと思う。勇太の父親は私を責めることができず、着ていたシャツを脱ぐと、大慌てで拭いていた。勇太、笑ってくれているかな。
そば屋へ避難すると、もりそばと日本酒を注文した。勇太を殺してしまったのは、世間か、ご両親か、私か。きっと全員が、共犯者だ。ごめんね、ごめんね。何回謝っても許してくれないよね。そば屋ではダメだ。
もりそばが運ばれてくる前に、お会計だけすませると、私は店を出た。どこに行けば避難できるのだろう? この現実から非難できるのだろう? 避難先を探していると、
「お客さん、ちょっと待って!」
とそば屋の店主が追いかけて来た。
はて、食い逃げとでも思われたのだろうか。いや、私は食べていないから、それは違うな。
「どうして、そばを食べてくれなかったのですか?」
そば屋の店主にしては若い、30代半ばの男性が、息を切らしながら聞いてきた。
一口も食べずに店出てしまい、この店主のプライドを傷つけてしまったのだ。
「すみません。食欲がなくて…すみません。食欲がないのにお店に入ったりして…」
「ちくしょう!」
店主は膝を叩いて悔しがる。
「一人前になったつもりでしたが、まだまだですね。元気のない人を、元気にできないなんて料理人失格だ」
「そんな…そんなことないです。私が…私が…ちょっと…」
あれ? なぜこのタイミングなんだ? 涙があふれてきて止まらない。
そうだ、こんな時は楽しかったことを思い出そう。ダメだ、勇太とふざけあったことばかり思い出してしまう。勇太、止まらないよ。会いたいよ。もう一度だけでも、会いたいよ。誰か、願いを叶えてよ。
私はそば屋の店主に抱きつくと、
「ゆうたあー、ゆうたあー、どこに行ってしまったの、ゆうたあー」
と泣きじゃくった。
当然、周囲の人たちがざわつく。これ以上、この店主に迷惑をかけるわけにはいかない。私が体を離そうとすると、店主がギュッと抱きしめてくれた。
「お客さん、勇太の知り合いだったのですね」
「えっ?」
店主の目にも涙が滲んでいた。
店主は私の腕を掴んで、通って来たバスに乗り込むと、勇太が通っていた高校まで案内してくれた。
中途半端な気持ちでそばは打てないと、店は準備中にして来たらしい。
「平日は、ここで顧問の先生と一緒に、後輩たちに野球を教えているんですよ」
「……」
「勇太は、守備のセンスは抜群だったけど、とにかくバッティングが嫌いで…普通は逆なんですけど…」
「勇太らしい」
「守備のメンバーと、攻撃のメンバーが別々でもいいルールになったら、プロ野球選手になってやってもいいと笑って言っていましたよ」
「勇太らしい」
「そして、3年生の夏の大会で負けた時に、勇太はチームメイトに告白をしたんです」
「勇太らしい」
「こんな田舎じゃ、それはもう大騒ぎになって…親父さんは勘当だと激怒して、勇太は結局、高校を中退して、東京へ行ってしまった…」
「あの父親らしい」
「東京へ行くのを止めておけばよかったと後悔していましたけど、お客さんを見て、少し楽になりました」
「えっ?」
「東京で素敵な友だちをつくれたようで…」
「はい、親友でした」
「すみませんね、こんなところまで連れて来てしまって…」
「あの、やっぱり、おそばを食べさせてください。勇太が食べていたおそば、私も食べないと怒られてしまいます」
「そりゃそうですね。たっぷり食べてやってください!」
やっぱり、勇太にも隠し事があったのだ。野球をしていたどころか、野球の話題になった記憶さえない。意図的に、勇太が野球の話題を避けていたのだろう。人は誰しも、秘密を抱えていく生き物。だから…だから…だから…。
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