第9話 2005年(5)

2005年8月16日(火) 天気:曇時々雨 最高気温:25.1℃


「ウソでしょ!」

木漏れ日の眩しさに起こされると、私はベッドに嘔吐していた。

突然のことにもかかわらず、心良く泊めてくれた恩人のベッドに吐いてしまうなんて。頭が痛い。二日酔いが吹っ飛ぶほど、頭が痛い。心が痛い。とにかく謝るしかない。土下座をしよう。


久美子さんを捜すが、家の中には居なかった。代わりに空になったマッカラン18年の瓶と、ゴミ箱行きとなった割れたグラスが見つかった。犯人は、私しかいない。久美子さんが、大事にしているグラスをうっかり割ってしまうことは考えられない。


私はもう1秒でも早く懺悔したくなった。建物から出てみると、庭で久美子さんが風景画を描いていた。

「大切なグラスを割ってすみませんでした!」

私は生れて初めて土下座をして謝った。

「あと…ベッドに吐いてしまいました。本当にごめんなさい!」

「フフフッ。フフフッ。フフフッ」

久美子さんは笑いが止まらなくなって、一度ペインティングナイフを置く。


「ごめん、ごめん。昨日、町子ちゃんが話してくれた、肝心な時に息子が役に立たないジムトレーナーのことを思い出しちゃって」

久美子さんはハンカチを取り出して、笑い過ぎてこぼれた涙を拭く。何て素敵な71歳なのだろう。見とれてしまう。

「グラスは、弁償します!今持っているお金では足りないかもしれませんが…」

「またダイソーで買えばいいだけだから、気にしないでおくれ」

「ダ、ダイソーのグラスだったのですか…。それなら、マッカランを飲み干してしまった分を…」

「町子ちゃん、あれはマッカランの瓶に入れた『ブラックニッカクリア』だよ。味は最高なのだけれど、瓶のデザインが気に入らなくてね。フフフッ。フフフッ」

千円札で買ってもお釣りがくる優秀なウイスキー『ブラックニッカクリア』と、一万円札が2枚必要な『マッカラン18年』の味の違いに、私が気付かなかったことを笑っているのか、あのジムトレーナーのことをまた思い出して笑っているのか、久美子さんはわからない人だ。


私は立ち上がって、絵を覗きこみ、話題を変える。

「お上手ですね」

「そう?」

「色彩がとても素敵です」

「町子ちゃんなら、私の作品をいくらで買ってくれる?」

「えっ?」

ずっと見ていても飽きない、キラキラとした光が印象的な絵で、自宅に飾りたいと思うが、いくらと聞かれると答えに困ってしまった。

「30万円よ」

「えっ?」

思っていたよりも高い金額だったので驚きを隠せなかった。でも、高額な絵は何億円もするのだから、絵画の世界では良心的な価格なのかもしれない。


「彼は30万円で買ってくれたわ」

「彼?」

「町子ちゃんを、ここへプレゼントしてくれた、駅員さんよ」

「ああ、あの爽やかさん」

「フフフッ。彼の名前は、福谷達郎。もう7年前になるわね。私がお気に入りの公園で、ひまわりの絵を描いていたら、『その絵を売ってください!』と達郎くんが声をかけてきたの。見知らぬ男性に急に声をかけられたから、ドキッとしたわよ。それも、なかなかのハンサムじゃない。それで、『いくらですか?』と聞かれたから、ちょっと意地悪したくなって冗談で30万円と言ったの。それを聞くと、達郎くんは去って行ったわ。私はてっきり、値段に驚いて逃げて行ったのだと思い、勇気をふりしぼって聞いてきた青年に悪いことをしたと反省したわ」

わかる。年下のイケメンに意地悪をしたくなる気持ちはよくわかる。


「その夜、達郎くんは、この別荘へ訪ねて来たわ。『絵を描いている美人のおばあさんを知りませんか?』って公園で聞き回って、ここがわかったらしいわ。教えたのは私の友人で、どう見ても達郎くんが悪い人には見えなかったから、教えてあげたそうよ。それで、達郎くんは、私に封筒を渡したの。中にはぴったり30万円入っていたわ。冗談で言ったのに、値切りもしないで、言われた額を渡してきたの。私はお金を返して、ひまわりの絵だけプレゼントしようとしたわ」

30万円差し出されて私は返すことができるだろうか? 多分、できないな。少なくても、5万円はもらってしまうだろう。


「でも、達郎くんは一度渡したお金を受取ろうとはしないのよ。理由を聞くと、『はじめてのボーナスで、両親にプレゼントするものを探していたんです。この絵を一目見て、これだ!と思いました。両親に30万円のこのひまわりの絵をプレゼントしたいのです』と言って、意地でもお金を払うという目をしていたわ」

親不孝者の私には耳が痛い話である。お母さんは今頃何をしているだろう。置いてけぼりにしてしまったことを悔やんだ。

「はじめてのボーナスでは足りないから、きっと貯金も使ったのね。私はそのあたたかいお金をありがたくちょうだいすることにしたわ。その代わり、毎年、彼のご両親の誕生日には、花の絵をプレゼントさせてもらっているの」

「素敵です。久美子さんも、駅員さんも」

「達郎さんには手を出さないでね。彼は既婚者で、娘さんもいるから」

久美子さんは達郎さんの心配をしたのだろうか。それとも、私の心配をしたのだろうか。


「町子ちゃんは、不倫をしてみたいと思う?」

「どうでしょう。既婚者の男性に抱かれてみたい願望はあるかもしれません」

「女だものね。でもね、町子ちゃん、不倫はよしなさい」

「はい」

その理由を久美子さんが話さなかったことが、余計に私の心に突き刺さった。


「もうすぐ雨が降るわね。お茶にしましょう」

画材をアトリエに片付けて、久美子さんが『沢屋のストロベリージャム』入りのカモミールティーをダイニングテーブルに運んでくると、合わせたように雨が降り出した。


久美子さんはラジオを消して、雨音を楽しみ始める。一つひとつが絵になる女性だ。もしかしたら、久美子さんは40年後の私だった!ということは、ないな。

妄想を膨らませ過ぎて落胆する私を見て、

「面白い人ね。フフフッ」

と久美子さんは笑ってくれた。なんだか、久しぶりに学校の先生に褒められたような気分になった。



2005年8月17日(水) 天気:雨のち曇 最高気温:29.6℃


朝一番の新幹線で、私は軽井沢を後にした。『沢屋のジャム』を渡すと、久美子さんは本当に喜んでくれた。ベッドに残ったシミは「町子ちゃんが来てくれた記念になるわ」と、笑って許してくれた。

私が冗談で「先生」と呼んだ時以外は、何を話しても笑っていてくれた。「先生」と呼んでしまった時は、

「私はそんなにお固い女ではないわ」

と少し怒らせてしまった。

おかげで、久美子さんの喜怒哀楽が私の中で揃ったのだけど。

「また夏になったら来なさい」

と言ってくれた時、私の手を握っていた久美子さんの手が、寂しそうな表情を見せた。

「また来ます、先生」

と言って、私は久美子さんにしばしの別れを告げた。


軽井沢駅で、達郎さんにお礼を言いたかったのだけど、姿が見えなかったので諦めることにした。既婚者だから、他の駅員さんに達郎さんが何時ならいるのか、それとも今日は休みなのか、聞くこともできない。


「ただいま」

経堂のマンションに帰ると、そこには、返事をしない母がいた。部屋の隅々までキレイに掃除されている。やっぱり私とは違う。これが、お母さんの掃除だ。

しっかり爪痕を残して、母は沖縄に帰って行ったのだ。テーブルには手紙が置かれていた。私は携帯に電話をかけてみたが、電源が入っていなかった。もう、飛行機に乗ってしまったのかな。充電が切れているだけかもしれないから、羽田へ向かってみようかな。

そういえば、お母さん、ちゃんと携帯の充電器を持ってきていたのかな。忘れて、困っていたりしなかったのかな。お母さん。会いたいよ。ごめんなさい。ワガママな娘で。今日は、手紙を読めそうもないよ。

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