第8話 2005年(4)
「もしかして、泊まるところが決まっていないのですか?」
年の頃は30歳前後、長身でなかなかのイケメンだった。
もしかしたら、ナンパされているかもしれないと警戒すべきところだが、爽やかなこの駅員さんは、まるで濁った部分が見えない。
そして、私の表情を見ただけで、状況を理解してくれた。
「ちょっと待っていてください…」
駅員さんは、私から離れると携帯電話を取り出し、誰かに電話をかけて、「ありがとうございます」と言いながらお辞儀をして電話を切った。
「ちょっと待っていてください…」
駅員さんはみどりの窓口に入って行くと、何かを紙に書いてから、また戻って来てくれた。
「タクシー代が少々かかりますけれど、この住所の別荘に行けば、知り合いのおばあさんが泊めてくれます」
「はあ…」
想像を超える親切な対応に、私はよりによって「はあ…」としか言えなかった。何が起きているのか理解しきれていなかった。
「心配しないでください。クセのあるおばあさんですけど、とても面白い人ですから」
駅員さんは私の手を取ると、別荘の住所を書いた紙を握らせる。
「それでは、軽井沢を楽しんでください」
駅員さんはそう言い残すと、みどりの窓口に戻って行った。
追いかけてお礼を言いに行こうとしたが、上司か先輩の駅員さんに注意されている様子だったので、私はすごすごとタクシー乗り場に向かうしかなかった。
怒られてまで困っている人を助けた駅員さんにお礼の一つも言えないとは、私はなんて無礼な女なのだろう。
3,000円弱のタクシー代を払い、降車したタクシーが去って行くと、周囲は真っ暗で、そのこじんまりとした別荘の明りだけが頼りだった。
途中の景色をまったく覚えていなかったから、この別荘にまるでワープして来たような感覚だった。今思えば、駅前で菓子折りを買って来るべきだった。
アウトレットパークで購入した『沢屋のジャム』を渡すわけにもいかない。ああ、私はやっぱり無礼な女だ。
もう一度、タクシーを呼んで駅まで菓子折りを買いに戻ろうかと思ったが、時刻は21時55分だった。さすがに、午後10時を過ぎて、初めて会う人の家を訪ねることはできない。
私は恥をしのんで、別荘の玄関へ向かうと深呼吸をしてからチャイムを鳴らした。
「…お土産なんかいらないよ」
キレイな白髪のおばあさんは、私を見てそう言うと、背中を押して別荘の中に入れてくれた。
「ほら、座んなさい」
言われるがまま、手作りと思われるダイニングチェアに私は腰掛ける。魔法使いなのか? どうして私が手ぶらで来たことがわかったのだろう?
「さあ、お飲み」
おばあさんが入れてくれたカモミールティーに私は手を伸ばす。なぜか、このおばあさんの言うことには体が自然と従ってしまう。
「おいしい」
私史上、最ものどかな「おいしい」だった。
「隠し味に『沢屋の巨峰ジャム』を入れているんだよ」
「ゴホッ、ゴホッ。すみません」
初対面の人の前で、私は思わずむせてしまった。やっぱり、『沢屋のジャム』を渡すわけにはいかない。
おばあさんはキッチンへ戻ると、魔女が使っていそうな木のおたまでクリームシチューをお皿に入れて、パンと一緒に持ってきてくれた。
「火傷しないようにね」
「ありがとうございます」
私はフーフー冷まして、クリームシチューを空っぽの胃に入れる。たまらなくおいしい。
「うまい!」
町子よ、見ず知らずの方の別荘に午後10時近くに上がり込み、「うまい!」はないだろう。我ながら自然と出て来た一言を抹殺したくなった。いや、言葉に罪はない。抹殺すべきは私自身だ。
「フフフッ、うまい!でしょ」
恥ずかしそうにしている私を見て、おばあさんは悪戯っぽく笑う。
若い頃はそうとうモテていたことがうかがい知れた。もちろん、同性の私でも見とれてしまう品のあるメイクを見れば、今でもさぞかしモテていることだろう。
ラジオから流れるクラシック音楽を聞きながら、沢屋の巨峰ジャム入りカモミールティーを飲むおばあさんに、私の心は鷲掴みにされた。
「あの、どうして、わかったのですか?私が手ぶらで来てしまったこと…」
「タクシーから降りてからチャイムを鳴らすまで随分と時間がかかったからね。どんな顔をしているかと思えば、女の中でも気が強そうな顔をしているから、何の理由もなく尻込みしていたとは考えられない。それなら、急に来ることが決まって、菓子折りを買うことを忘れて、駅まで買いに戻ろうか迷っていたと考えるのが自然でしょ。チャイムがなったのが、22時3分前だったから、22時を過ぎて訪ねる方が失礼だと判断したんだね」
「…すみません。本当に無礼で…」
「謝ることなんかないさ。沢屋のジャムを持っているのなら、それを置いていきなさい。いくらあっても困らないからね。フフフッ」
あの駅員さんに感謝をしなければ。こんなに素敵なおばあさんを紹介してくれるなんて。
「ところで、あなた」
「はい」
「お名前は何ていうのかしら?」
ああ、そうだったー!菓子折りのことばかり考えて、自己紹介さえしていなかったー!
「し、失礼しました」
私はクリームシチューを食べていたスプーンを置いて立ち上がり、
「木下、町子です」
と名前を告げる。
「おや、随分と良い名前だね。木の下で待ち合わせをしたがる男ども寄ってきそうだ。でもね、町子ちゃん」
「はい」
「食事中は席を立つものではありませんよ」
「す、すみません」
私は慌ててダイニングチェアに座る。
「このおばあさんの名前は、寺本久美子っていうんだよ。よろしくね、町子ちゃん」
まるで童謡の『サッちゃん』のようなリズムで、久美子さんは名前を教えてくれた。
「さて、自己紹介も済んだところで、町子ちゃんがどんな恋愛をしてきたのか聞かせてちょうだい」
久美子さんはそう言うと、マッカラン18年とグラスを2つ持って来た。
「今日はね、孫娘が遊びに来るはずだったのだけれど、ボーイフレンドに夏祭りに誘われたから行けないって、そっけなくキャンセルされてね。町子ちゃんが来てくれて、私、ついているわね」
マッカラン18年をグラスに注ぐと、久美子さんは私に向かってグラスを持ち上げる。
「女に生まれたことに乾杯」
「か、乾杯」
私も慌ててグラスを持って、久美子さんのグラスにやさしくあてる。きっと、高価なグラスだろうから気をつけなければ。
「うまっ!」
名前は聞いたことがあったけれど、こんなにおいしいとは思ってもいなかった。
ウイスキーを詳しく知らない私でも上等なお酒だとわかる。甘口だけど深みがあって自分が高貴な女性になったようだった。
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