第6話 2005年(2)

2005年8月14日(日) 天気:晴れ 最高気温:33.3℃


ひどい二日酔いだった。きっと、私はマゾなのだ。もう酒は飲まないと思っても、またこうしてトイレから出られなくなる。

三井さんとお泊まりするかもしれなかったから、今日も予定を開けておいて正解だった。さっきから携帯電話が騒がしいが、一体誰が電話をかけてきているのだろう。

もう、胃液しか出てこないほど出し切ると、うがいをして携帯電話のもとへ向かう。知らない番号が着信歴に5回も残っていた。気付かなかったが、作晩にも2回電話がかかってきていた。

お盆休みにこんなにしつこく電話をしてくる相手は想像がつく。何だか嫌な予感がする。私はもう一度、嘔吐してから、知らない番号に電話をかけた。


「町子!今どこいるの?昨日から電話をしていたのよ!」

「お母さん、ごめんなさい。今は、家に居るわよ」

「家って、さっきからチャイム押しているのに何で出ないの!」

直ぐさまにピンポーンとチャイムが鳴る。

私はインターホンを取り、怒っている母の顔を確認すると、オートロックを開けた。どうしよう?トイレでゲーゲーしていたから、チャイムに気付かなかったとは言えない。

いや待て、そんな心配をするより、なぜ母は突然訪ねて来たのだ?あの怒っている様子から、嫌な予感がさらに高まっていた。

「こんなに立派なマンションに住んでいるんだねえ」

母はろくに挨拶もしないで上がり込むと、1LDKの私の部屋をチェックした。

「これなら、お母さんも一緒に暮らせそうさー」

嫌な予感は的中した。でも、理由は違っていた。


てっきり父と喧嘩をしたのかと思ったが、

「お母さん、調理師専門学校に通うことにしたからねえ」

と目をギラつかせて宣言した。

何でも、神奈川から嫁いできた兄の奥さんがかなりの料理上手だそうで、兄が母の料理をまったく食べなくなったそうだった。

「新婚だからじゃないの?」

私がそうなだめても、母は大きく首を横に振る。

「あんたよ、和子さんの料理は、本当においしいさー」

そうだった、お義姉さんの名前は和子さんだった。一度も会ったことがないから、名前を覚えることができない。


とにかく今は、母を沖縄に帰す方法を考えなければいけない。私は、思考力を取り戻すために鎮痛剤を飲む。このひどい頭痛を止めないと、母が家具を買いに行ってしまう。

母は思い立ったら行動する人で、ダイエットに挑戦すると言い出した時には、すでに車を売って自転車を買っていた。電車が走っていない沖縄で車を手放すことは大問題だった。

しかし、母は見事に20kgも痩せてみせ、ダイエットコンテストで入賞した賞金で中古車を購入した。多少、リバウンドはしたが、今でも年齢の割にはスリムなほうだ。

「町子、家具屋さんはどこにあるねえ?」

ほら、きた。ただでさえ、彼氏ができなくて困っているのに、母と同居なんかしたら、私はきっとホストクラブに通うようになってしまう。


「お母さん、実は私、同棲をするの…もちろん、お母さんとお父さんに連絡してからと思っていたけど…」

「同棲って…相手はどんな人なの?もしかして、佐藤さんねえ?」

私が首を横に振ると、母は寂しそうな表情を見せた。

佐藤くんは両親や兄とも親しくしてくれた。「お母さん、佐藤くんとの同棲はとっくに失敗してたんだ」なんて今更言えない。

「お仕事は何をしている人なの?年上なの?年下なの?」

母の質問が止まらない。私も早く、同棲相手の設定を決めなければ。

「その前にコーヒーを淹れるね」

時間を稼ぐためであると同時に、脳を活性化させるためにもカフェインを摂りたかった。


「お母さん、いつ携帯の番号変わったの?」

「町子に手紙を送ったでしょうが」

手紙? ああ、「孫の顔が見たい」という恐ろしいワードが書かれていたあの手紙か…。

あまりにも怖かったから、最後まで読んでいなかった。東京で働いているうちに、私は子供を産むことに抵抗を感じるようになっていた。

「昨日もここに来てチャイム押したけど、あんたどこに行っていたの?」

言えない、ゲイの友達と朝まで飲んだくれていたなんて。なんだか、お母さんに話せないことばかりだ…。

「はい、どうぞ」

私は、母にコーヒーを差し出すと、自分も一口飲んでから、母の質問に答える。


「あのね、彼は市役所で働いている公務員よ」

「本当ね。それはよかったさー」

「年は私より、5つ年上」

「そうよ。年上のほうが安心さー」

公務員でまあまあ年上の男性。実に無難な設定だ。これだから、シナリオコンクールで1次審査も通過できないのかもしれない。

「わかった。町子、同棲しなさい。結婚してから後悔しても遅いからね」

母は渋々承知する芝居をしている。母の本音は見え見えだ。同棲して、できちゃった結婚すれば、孫の顔が見られると思っているに違いない。残念だけど、もしそうなっても、私は子供を産まないだろう。

「お母さん、私が生まれた時、どう思った?」

聞く気もなかったのに、口からそんな質問がこぼれた。


「もう死んでもいいと思ったさー。かわいくて、かわいくて。何があっても、この子を絶対に大きく育てるって思ったよー」

言っていることが矛盾しているのに、気持ちが良く伝わってきた。やっぱり、面白い人は面白い表現をするなあ。私も今度の仕事で使ってみよう。

「名前はなんていうの?」

「えっ、誰の?」

「誰のって、あんたが付き合っている人の名前さー」

「ああ、吉田修二さん」

「次男坊ね?」

「う、うん」

「それは良かったさー」

全然、良くない。とっさに考えた名前とはいえ、好きな小説家の名前を一文字しか変えていない。しかも数字を一から二にしただけだ。偶然に母には喜ばれたが、やっぱり私には物語を書く才能がないのだ。


「いつ会えるねえ?」

「えっ、誰に?」

「誰にって、あんた、修二さんに決まっているでしょ!」

「ああ、そうね。でも、ちょうど明日から一緒に旅行に行くことになっていて…か、軽井沢で現地集合なんだ」

「お母さんが急に来てしまったからねえ。そんな人がいるなら、ここで待っていてもいいねえ?旅行はいつまで行くの?」

「たまには、ノープランで、行ってから決めるみたいな感じで、3泊かもしれないし、5泊かもしれないし、どうなるかなあ。アハハ」

嘘に嘘を重ねた。夏休みは17日までだった。

「お母さんは大丈夫。一週間でも、十日でも待っているさー」

「でも、どうかな…ほら、旅行から帰って来て、いきなり親を紹介されたら、重たい女って思われないかな…同棲前に気まずい感じになるのも嫌だし…」

「それもそうねえ。それじゃ、お母さんも東京で会いたい友だちがいるから、町子が旅行に行っている間、2、3日泊まらしてもらうさねー」

「う、うん。ゆっくりして行って」

「それじゃ、買い物に行こう。今日はお母さんがおいしい料理をつくってあげるから」

兄に食べてもらえない悔しさを晴らそうと、母の目が輝く。

「やった。町子はお母さんの料理大好きだもん」

浅倉南っぽく言ってみると、母は満面の笑みを浮かべた。

母の料理は本当に大好きだったが、やっぱり浅倉南っぽく言うと、より好印象を与えるようだった。

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