第5話 2005年(1)

【流行語】小泉劇場,想定内(外)



2005年8月13日(土) 天気:曇り 最高気温:31.6℃


デートの約束を9時間前に断ったばかりなので、今日の予定は白紙だ。

大手広告代理店に勤めているアートディレクターの三井さんからデートに誘われていたが、作晩になって、

「経堂駅の木の下で、10時でいいかな?」

と電話がかかってきた。

「ごめんなさい。急用が入って…」

私はそう言って、電話を切るしかなかった。


木下町子。その名前を聞くと、なぜ男性は木の下で待ち合わせをしたがるのだろう? それもちょっと気取った感じで…。

こんなつまらないことをしたがる男性と付き合うことなんて私には無理だ。とんかつにソースをかけすぎて、カリッとした食感を台無しにして、豚肉の甘味もソースの風味で消されているのに、それをおいしいと食べるような男なんだろう。

それか、飲み会の席で女性に気を使わせないようにから揚げにレモンを率先してかけるような男なんだろう。から揚げにレモンをかけることが嫌いな女だってここにいるのに…。


両親ももう少し、慎重に名前をつけるべきだったのだ。町子という名前は古臭いが、そこまで悪くはない。この仕事についてから、長谷川町子を好きになったこともあり、むしろこの名前を好きになっていた。ただ、木下という名字とくっつけると、その話は別になる。

木の下で待ち合わせしようと言われる前に、結婚して名字を変えてしまうしかない。でも、最も恐ろしいことは、結婚してから思い出したかのように、木の下で待ち合わせをしようとする男と結婚してしまうことだ。これは、かなりやっかいな問題だった。結婚した相手がいつその気になるのか、見極めようがない。

日本語がわからない外国人と結婚をすれば大丈夫かもと考えたが、日本語の勉強を始めて私の苗字の意味を知ると、愚行に出る可能性は残念ながら高い。


久しぶりに佐藤くんに電話でもしてみようかと思ったけれど、数々の賞に輝き、今や売れっ子のコピーライターとなった佐藤くんは、私などもう相手にしないだろう。

何となくコピーライターの仕事を続けているけれど、はっきり言って私はキャッチコピーを書く仕事が好きではない。だから、好きなキャッチコピーを聞かれると困ってしまうし、キャッチコピーを書くことが好きな後輩たちに追い越されてしまうのは目に見えている。好きな映画なら、相手が覚えられないくらい答えることができるのにな。

タバコに火をつけて、誰に電話をかけるか考えてみる。お盆休みに実家にも帰らず、暇を持て余しているような奴といえば、やっぱり勇太くらいしかいないか。タバコの火を消すと、電話をかけてみるがなかなか出ない。勇太のことだから朝まで曲をつくって、まだ寝ているのかもしれない。


「お前、着信拒否にするぞ」

18コール目でやっと勇太が電話に出た。

「急にデートがキャンセルになっちゃって。せっかくの夏休みだから付き合ってよ」

こう言えば、もう私の勝ちだ。

「じゃ、経堂駅の木の下で、一時間後に…」

いつも通り返事も聞かず、勇太は電話を切った。


「せっかくの夏休み」と言えば、勇太はもう断ることができない。彼は私と同じくらい、夏休みという存在を大切に思っている。

木の下で待ち合わせるのは、そこを突かれた腹いせだった。遊び相手も決まったことだし、私は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、バルコニーに出て小田急線を見ながら、喉に流し込む。

「ゲポッ」

夏休みのビールはやっぱり格別だ。ゲップさえ出なければ完璧な飲み物なのに。今度はロマンスカーが通過して行く。

私は残っていたビールを一気に飲み干すと、缶をバコッと凹ませて、バルコニーに置いてあるゴミ箱に捨てる。雨の日になると、ゴミ箱に捨てた缶に滴が「カン、カン」と落ちる音を聞くことが、マイムーブだった。


15分ほど遅れて駅前に行くと、待ち合わせした木の下に、勇太が突っ立っていた。赤い服を着ているからすぐにわかる。

それにしても、突っ立つという言葉は、勇太のためにつくられた言葉のように思える。だらしなく立っているわけでもなく、キリッと立っているわけでもなく、信念がチラ見えする感じで突っ立っているのである。

「おせーよ」

「はいっ」

私はコンビニのビニール袋に入れてきた缶ビールを勇太に投げる。

勇太は何も言わずにキャッチすると、片手で上手にプシュッとフタを開けると、ゴクゴク喉を鳴らして黄金の水分を吸収していく。

「うんめー」

缶ビールをおいしく飲むコツは、フタを開ける音からこだわることだ。

そう教えてくれた勇太は、映画の『ショーシャンクの空に』で主人公が仲間たちと一緒に屋上で瓶ビールを飲むシーンに引けを取らないくらい、幸せそうにビールを飲んでくれる。


これを見られただけでも、今日、勇太を誘って良かったと思えた。私も負けじと片手でフタを開けると、缶ビールをあおる。

「ワハハハハッ」

おいしすぎて、声を出して笑ってしまった。当然、周囲の人から冷たい視線を浴びる。

「フハハハハッ」

それを見て、勇太はおかしそうに笑い、またビールを口にする。


「あれ、佐藤さんの作品?」

大手旅行代理店の広告が出ていて、『最高にもったいないことをしよう。』というコピーが書かれている。遠くに行ってしまったなあ。

「私には書けないわ」

「そんなことないさ。書けるよ、町子ならもっとグッとくるワード」

「そうかな…」

「今年は出さないの?シナリオコンクール」

「どうだろう…」

「早く町子がデビューして、俺に主題歌を歌わせてくれよ」

「その時は私が作詞をして、印税をいただくからね」

「チェッ、それじゃ俺の歌にならないっつーの」

バコッと私と勇太は同時に、飲みほした缶ビールを凹ませる。

「で、どこ行く?」

気だるそうに、それでいて心をギラつかせて、勇太が聞いてきた。

私はポケットから、サイコロを取り出すと、地面に落とした。出目は3だった。

「まずは、3駅先の街をぶらつこう」

「へーい」

勇太がゲイだと知った時、私はすごく安心した。これからもずっと友だちでいられるから。

「なあ、誰か男、紹介しろよ」

「広告代理店のアートディレクターはどう?」

「町子と木の下で待ち合わせしようとする男以外で、頼む」

「それは無理。私が絶対に掴んで離さないから」

「俺は愛人でいいよ」

「はあ?リアルに変態ね」

「フハハハハッ。アーティストには最高の褒め言葉だ」

「アーティストねえ。2ヶ月くらい新曲聞いていないけど…」

「あのな、ミスチルだって新曲を出すのは1年に1回くらいなんだぜ」

「もうとっくにミスチルを追い抜いている頃なんじゃなかったの?」

「あのな、そんなに簡単に追いつける相手じゃないんだよ。町子にはわからない」

「そうね。私は勝てない戦いは挑まないもの」

「これだから女はつまらない」

隣に座っていた男子高生たちが席を移動する。各駅電車で3つ先の駅は玉川学園前だった。

「知ってるか?ミスチルは自分たちのことをミスチルって呼ばないんだぜ。必ず、ミスターチルドレンって言うんだ」

「ふーん」

勇太が貧乏揺すりをしている。これは、悲しさを紛らわしている時のサインだった。

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