第4話 2000年(4)
人通りがいつもより明らかに少ない。箱根旅行から帰って来た時に知ったが、お盆になると東京からこんなに人が消えるとは思ってもいなかった。
私も、上京してから過去2年は、沖縄に帰っていた。今ここに残っている人たちが本物の東京人なのだろうか。だとすると、東京で暮らす人々の中で、東京人はかなりの少数派だということになる。田舎から上京してきたけれど、あまりビクビクする必要はないのかもしれない。
いつもは賑やかなゲームショップにも、私を含めてお客さんが二人しかいない。どうせ来るのなら、『ファイナルファンタジーIX』を持ってくればよかった。今日なら順番を待たずに売ることができたのに。私はバカだ。自覚はある。だから、バカはご褒美に弱いこともよく知っている。
明日からの地獄の3日間を耐えた自分へのご褒美を、前もって買っておこう。私にしては珍しく買うべきゲームがすぐに決まった。ストレス解消に良さそうな『バイオハザード3 LAST ESCAPE』を2,980円で買うことができた。ゾンビを佐野主任として撃ちまくってやる。
『ファイナルファンタジーIX』を売ればトントンになるだろう。古本コーナーを覗いてみると、『タッチ』の全巻セットがあったので、大人買いというものを初めてやってみた。なかなか気分が良いものだ。
ゲームショップを出るとまっすぐ暗い部屋へ帰宅し、ベッドの上でタッチを読みふけった。専門学校に通っていた頃に、夕方に放送されていたタッチの再放送を見て、浅倉南ってこんなにぶりっ子だったかなと違和感を覚えていた。
原作をちゃんと読んでみると、確かにぶりっ子の要素を持っているけれど、そっけない一面もあって、決してベタベタしているわけでもなく、理想のヒロイン像に思える。
兄が、高校生の頃に「浅倉南と付き合えあたら死んでもいい」と言った理由がよくわかった。そして、他の作品を挟まずに、一作品を完結までぶっ通しで読むと、感動が何倍にも膨れ上がることもわかった。
どうして、私は南ちゃんではなく、浅倉南とフルネームで呼んでしまうのか、その謎も解けた。たっちゃんの告白のセリフがずっと印象に残っていたのだ。
たっちゃんが浅倉南を甲子園に連れて行ったのか、浅倉南がたっちゃんを甲子園のマウンドに立たせたのか、今度はそこに視点を置いて読み直してみよう。
それに、『天使なんかじゃない』の全巻セットもあったから、今週末にまた大人買いしてやろう。
久しぶりに時計を見ると、相棒は21:14を表示していた。風邪薬のおかげで咳はすっかり治まっていたし、あだち充先生のおかげで心も元気を取り戻していた。
お腹が空いていたので、カップラーメンのお湯を沸かしていると、突如ドアがノックされた。
「俺だ」
と一言だけ声が聞こえた。
昨日電話をかけてきた同期の佐藤くんが、会社の誰かに住所を聞いて訪ねて来たのかもしれない。
私がドアを開けると、その厳つい男は足でドアを閉められないように押さえると、
「新聞とって」
と言って、朝刊の申込用紙とペンを渡そうとする。
「あ、あの、親に聞いてみないと…」
私は申込むと面倒なことになりそうだったので、やんわりと断ろうとした。
「お嬢さんもドアとか壊されたくないでしょ。さっさと書きなよ」
厳つい男は堂々と脅して来た。
どうしていいかわからずに私が硬直していると、お湯が沸きヤカンがピーッと鳴く。私は恐怖のあまり、電子調理器まで動くことができなかった。
「おい、はやく消せよ!うるせーな!」
厳つい男が苛立った様子を見せると、
「もしもし、警察ですか、こちらは東京都…」
と隣人の赤い服の青年が、携帯で電話をしながら部屋から出て来た。
厳つい男は舌打ちをして赤い服の青年を睨むと、両手をポケットにつっこんで去って行った。
「あ、ありがとうございます!」
私は昨晩のレンタルビデオ店での反省を生かして、大きめの声でお礼を言った。怖さで手はまだ震えていた。
「不用心だぞ」
と無愛想な顔で赤い服の男は言うと、部屋に戻ろうとする。
「あ、あの、警察は…」
「バカだな。こんなことで、本当に電話をするわけがないだろ」
バタンとドアが閉められ、カギをかける音がする。
またあの厳つい男が戻って来るかもしれない。私もすぐにドアを閉めて、ドアノブのカギと内カギの両方をしっかりかけた。
東京に油断をしていた。なんて怖い場所なんだ。これからは、窓を開けてタバコを吸うこともやめよう。そう考えていると、再びドアをノックされる。
ウワッ、やっぱり厳つい男が戻って来たのか、どうしよう? 本当に警察に電話をしたほうがいいかなと慌てふためいていると、
「隣の豊田だ。ヤカン、止めてくれるかな?」
と声がする。ドアスコープを覗いてみると、助けてくれた赤い服の青年が立っていた。
ヤカンがピーッと鳴き続けたままだった。私は慌てて電子調理器のスイッチを切ると、
「ごめんなさい」
と言いながらドアを開けた。
豊田さんの姿はもうなかった。下から足音が聞こえて来たので、慌ててドアを閉めてカギをかける。隣人が豊田さんであることは、ポストの名前を見て知っていた。でも、声も知らない相手なので、赤い服の青年と呼んでいた。そして、私は豊田さんを気持ち悪いと思っていたことを反省した。
私はベッドに潜りこむと、枕を口にあてて愚かな自分を抹殺する。私にはもう一つ、大いに反省すべきことがあった。
同期の佐藤くんが家にやってくるわけがない。それなのに、私はちょっと嬉しくなり、ドアスコープを覗くこともなくドアを開けてしまった。元彼と別れてから、男性がこの部屋を訪ねて来ることがなかったから、つい期待をしてしまった。寂しさとは危険な存在だ。もっと強くならないと、東京では無事に暮らせそうもない。
ああ、なんだか胃が痛くなってきた。ああ、胃薬を買うのを忘れていた。ああ、明日からの仕事、どうしよう。胃薬がどこかに余っていないか、鞄の中を必死に探す。
手帳を開くと、大きな字で『胃薬を忘れないように!』と書かれていた。ご丁寧に私は蛍光ペンで目立つようにもしていた。もう、今日薬局に行ったのに!
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