第3話 2000年(3)

夕暮れになり、ユニットバスの掃除も終えると、埃をかぶっていた小説『思春期病棟の少女たち』を最初から読み直した。間もなく公開される『17歳のカルテ』の原作だった。

通勤の際に電車で読もうと思い購入したのだが、読みふけっている間に、勤務先の代々木八幡を通過して新宿駅まで行ってしまい、遅刻の連絡をした電話で1回、出社してから2回、計3回も佐野主任にこっぴどく叱られてからは、電車で本を読むことを禁じた。東京人はどうやって本を読みながら降りる駅に気付いているのだろう。今でも謎だ。

それにしても、『思春期病棟の少女たち』という題の小説が、『17歳のカルテ』という邦題で公開されるのだから面白い。『思春期病棟の少女たち』だと映画のタイトルとしてはやや重たい印象だけど、『17歳のカルテ』ならスクリーンで覗いてみたくなるタイトルだ。


いつか、映画の邦題をつける仕事もやってみたいなと思った。でも、映画版の原題の『Girl,Interrupted』は、英語が極端に苦手な私にはさっぱり意味がわからない。

やっぱり、英語からは逃げられないのだ。いつかハリウッドに進出する野望を抱いていた私は、東京でなくアメリカに留学すべきだったのかもしれない。英語音痴な私でも、生きていくために英語を話せるようになっていたことだろう。

それにしても、『思春期病棟の少女たち』は夏休みに読む作品ではない。頭がクラクラしてきたので、しおりを挟むこともなく本棚にしまう。内容を受け入れることを休暇中の心が拒んだために、また最初から読み直さないといけない。

気分転換に、そうめんを茹でて食べた。そうめんちゃんぷるーをつくるとホームシックが再発してしまうので、冷やしそうめんにした。何一つおいしいところが見つからない。


本降りになった雨の音が、『思春期病棟の少女たち』を読んでしまったことを余計に後悔させる。天気が良い日に、公園や海辺で読むべき作品だった。


単調且つインパクトがない冷やしそうめんの味では、まったく気分転換にはならなかった。

こんな時はスカッとする映画を観よう。私は昨日借りた『マトリックス』のDVDをPlayStation 2に入れる。

返却袋に入っていた紙には、返却日“8月15日(月)”と書かれていた。そうだった。1泊2日で借りていた。窓を開けて、雨を確認する。ザザー。窓を閉じて、『マトリックス』を観ることに決める。

延滞料金350円を払ってでも、もう一度観賞する価値のある作品だ。この雨の中、びしょ濡れになって自転車で返しに行くことはできない。往復260円の電車代を払うのなら、延滞料金の350円を払うのとあまり変わらない。それなら、もう一度あの銃弾を避けるシーンを観よう。


映画館で3回、DVDで2回観ても、延滞料金のことなど忘れさせて、画面に釘づけにする力を彼は持っていた。

私が現実の世界の戻った時には23時35分になっていた。今なら、まだ間に合うなと思った。それに、明日返却に行くのは、夏休みの宿題を最終日まで残すようで、嫌な気がした。せっかくの夏休みなのだから、すっきりとした気分で最終日を迎えたいと思った。

びしょ濡れになって店内に入って来た私を見ても、店員さんは拒否反応を示さなかった。ゴミ袋で包んでいた返却袋を渡すと、

「ネオを守ってくれて、ありがとうございます」

と言って店員の青年は機械でピピッとすることなく、レンタル商品だけ受け取った。


私がきょとんとしていると、店員の青年は壁掛け時計に目をやった。午前0時を2分過ぎていた。

「寝ぼけていて、バーコードで読むことを忘れていたと言いますから、大丈夫ですよ」

店員の青年はそう言うと、返却作品の整理作業に戻った。

「あ、ありがとうございます」

私はそうお礼を言ってレンタルビデオ店を出た。

店員の青年が私に振り向くことはなかった。ルールに負けない東京人もいるのだ。帰り道、自転車を漕ぐ私の心は、あったかいシャワーを浴びていた。


2000年8月16日(火) 天気:晴れ 最高気温:31.6℃


「クシュン」

鼻水をティッシュでかみながら、昨晩レンタルビデオ店の店員さんに「ありがとう」と言った言葉が聞こえていたのか不安になった。もう少し大きな声でお礼をするべきだった。

窓を開けて、タバコに火をつける。今日は良い天気だ。雨が降った翌日の東京の空は、沖縄の空にも負けないくらい青く輝いている。

「ゴホッゴホッ」

案の定、咳き込み気分が悪くなる。タバコの火を消して、テレビをつけると『笑っていいとも』が放送されていた。やった。夏休みでないと、まず見られない番組だ。とはいえ、夏休み最終日の貴重な1時間を『笑っていいとも』に捧げてもいいものか。

CMに入った隙に、テレビの電源を消す。危ないところだった。タモリさんは時間を奪う能力を持っているのではないだろうか。


薫に電話を掛けてみるが、電源が入っていなかった。映画でも観ているのか、充電が切れてしまったのか、とにかく連絡がとれない。

昨日と今日は、何も予定を入れないで、気が向いたことをしようと思っていたけれど、やっぱり薫と遊びに行く約束をしておけばよかった。

「ゴホッゴホッ」

体内の酸素を、外の健康的な酸素と入れ替えたほうが良さそうだ。手抜きメイクをすると、駅前の薬局で1,280円の風邪薬を買う。

良い匂いがしてきたので、駅に隣接している立ち食いそば屋で、ちくわ天そばを食べた。うん、これだけ食欲があれば大丈夫だ。風邪薬を飲むと、ゲームショップへ行ってみることにした。


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