第2話 2000年(2)
映画のキャッチコピーを書いてみたいと思い、『アイキャッチ』の就職試験を受けた。
超高層マンションのキャッチコピーを書くテストがあり、私は困った挙句に『超える』と一言だけ書いた。そして、採用された。ああだこうだ上手に書こうとするコピーの中で、私が苦し紛れに出した一言が新鮮だったらしい。
さすが、東京。チャンスがどこに転がっているかわからないと私は喜んだ。しかし、実際に入社すると、何を書いてもシュレッダー行きで、文字校正ばかりの日々が待っていた。
一言でも誤植を見逃すと、結婚しない女代表みたいなプライドを持っているチーフコピーライターの佐野さんの餌食になってしまう。入社初日にタメ口で話してしまって以来、特に私は目をつけられている。
タメ口で話すくらいで怒る先輩は沖縄にはいなかった。東京へ行くのなら、「言葉づかいに気をつけなさい」と、上原先生が先生が教えてくれなかったせいだ。
そんなことを考えていたら二度寝することもできず、参りましたと私はテレビをつける。せめてもの抵抗としてベッドからは出ない。
いつも慌ただしく見ているめざましテレビで、占いのコーナーがやっていた。おとめ座は12位だったので、8位だったしし座の内容を信じることにした。
私の誕生日は8月23日だから、8月22日生まれのしし座の人と、ほんの数時間の差しかない。午前零時ジャストで運命がピタッと変わるとは思えないので、私は都合よく、しし座の占い結果も信じながら大人になっていた。
美人のお天気キャスターが午後から雨が降ると言うので、私は昨日買ったコンビニ弁当を食べながら、今日は一歩も外に出ないという贅沢を満喫してやろうと決める。
携帯電話に、同期入社の佐藤くんから着信があったが、口の中をからあげが支配していたこともあり無視をした。同期入社と言っても佐藤くんは大卒で、高校教師を辞めて『アイキャッチ』に転職した経歴を持つ27歳で、6歳も年上だ。
最初は佐藤さんと呼んでいたが、「同期なんだから、佐藤くんでいいよ」と歓迎会の帰り際に言われたので、佐藤くんと呼んでいる。その佐藤くんは、一応女性である私をさん付けで呼ぶ。
だから、一緒にランチに行くと、私は上から目線の女に見られていないかと心配をするが、そんなことまるで気にしていない佐藤くんを見ていると、私までどうでもよくなってくるから不思議だ。
佐藤くんは心の開き方が上手な人だと思う。心の中にある玄関のドアは開放しているけど、心の中にある自分の部屋のドアは簡単には開けないぞという意志を感じる。
恐らくこれが東京風の距離感のとり方なのだろう。その頃には、私もこっそりと心の中にある大切な部屋にカギをかけていた。
あの風貌なら、さぞかし女子高生にモテたに違いない。何か問題を起こしたのではないかと私は睨んでいた。そんな佐藤くんから着信があり、私は携帯電話の電源を切った。これは噂に聞いていた“休日出勤”の通達ではないかと警戒したのだ。恐ろしい。恐ろしすぎる。待ちに待った夏休みに会社に行くなんて、東京人にしかできないことだ。
私はまだ東京人には、なりきれていない。今でもラーメン屋で一時間以上も並ぶという東京人が信じられなかった。
コンビニ弁当を食べ終えると、窓を開けてから、タバコに火をつけ、曇り空を眺めながら何をしようかとぼんやり考えてみる。
助監督をしていた彼が初めてこの部屋に泊まりに来た時に、タバコ臭いとドン引きしていた。自分もタバコを吸うくせに、タバコを吸う女は嫌いだという。納得がいく話ではないが、とにかく部屋にタバコの匂いがつかないように心掛けるようになった。
高校生の頃に中華料理店でアルバイトを始めたことをきっかけに、日常的にタバコを吸い始めた。休憩中に大人たちに混じってタバコを吸う自分がかっこよく思えた。忙しい日は、軍隊の訓練よりも激しく店内を動き回った。暇な日は、門番のように立ち続けた。足が痛くなって、大変だったな。でも、どうしてかな、一緒に働いた皆と笑った記憶であふれている。
特別面白い何かがあったわけでもないのに、お腹を抱えて笑い、こぼれた涙を拭う、無防備な私がいた。
告白されたその日に、大学生だった彼にバージンを捧げ、タバコを吸う私を見て、口でするのをせがまれた。嫌な記憶だ。2ヶ月後に彼はアルバイトを辞めると、福岡の酒造メーカーに就職し、新しい恋人をつくった。
そんなことを含めても、高校生の頃のアルバイトは楽しかったと言いきれる。どうして、働くことが楽しいと思えたのだろう?
あの頃に貯金をしていたおかげで、専門学校を辞めて就職活動をすることができた。あの頃に貯金をしていたがために、『アイキャッチ』で働くことになってしまった。一呼吸も置かずに、2本目のタバコに火をつける。こんなことは珍しい。私は、本能に従い様子を観察することにした。
アルバイトは生活のためではなかった。精神的に楽だったから、楽しかったのだろうか? いや、お金をもらって働くということはとても大変なことだ。
生活のためではなかったから楽しかった、とはならない。夢だ。正体は、夢だ。あの頃の私には、東京へ行って映画監督になるという明確な夢があった。
今、私は『映画のキャッチコピーを書いてみたい』というぼんやりとした目標を追いかけている。いや、追いかけることはできていない。目標を掲げて飾っているだけだ。
どんなに辛くても、自分が追いかけている存在に近づいている実感があるのなら、仕事のことでこんなに憂欝な気分になることもないだろうに。専門学校を辞めたのは失敗だったかな。
奴隷のようにこき使われても、アルバイトよりも低い収入でも、映画業界で働いて、夢を追いかけたほうが楽だったのかもしれない。
だけど、夢とはそんなに簡単に捨てられるものなのだろうか。私が見ていたものは、本当に夢だったのだろうか。今となっては、それさえ疑わしい。なるほど、2本続けてタバコを吸うと、こんなところにまで潜って行くのか。
たまには悪くないかもしれないが、少し気分が悪くなったので、窓を開けたままベッドに横たわる。しまった、目が合った。相棒の目覚まし時計が、10:03を表示している。
明後日の今頃、私は相も変わらず文字校正をしているのだ。明日、胃薬を買い忘れたらアウトだ。明日、胃薬。明日、胃薬。メモに残したくはなかったので、脳に刻み込んでみる。
さて、何をして過ごそうか、体を起して窓を開けると、うっかりタバコに火をつけてしまう。ウッ、と吐き気が込み上げ、3m先のトイレまで間に合わず、フローリングに嘔吐する。
東京で部屋探しをした際に、私はフローリングにこだわった。畳と聞いただけで、どんなに学校に近くても、家賃が安くても、内見さえしなかった。
驚いたことに、2月下旬に沖縄から部屋探しに来た時には、ほとんどの物件が契約済みとなっていた。まだ住みもしないのに、3月分の家賃を払ってでも契約しているのだ。
というわけで、学校から3駅離れた仙川駅まで徒歩7分で、壁が薄いロフト付きのこの部屋を借りることになった。2階建アパートの2階の角部屋なので、日当たりは抜群に良い。隣の部屋には赤い服ばかり来ている青年が住んでいた。
やや気持ち悪いが、一目で隣人だとわかるので、防犯上は良いことかもしれない。
フローリングからタバコの汚物を取り除き、スイッチが入った私は掃除を実行した。先月から棚上げしたままの事案だった。
幸い、掃除のやり方は覚えていた。ほら、また寂しくなってくる。私はキレイ好きなほうだ。掃除が嫌いになったのは、お母さんと一緒に掃除をしていたことを思い出してしまい、こんな感じでホームシックになってしまうからだ。
ああ、沖縄に帰りたいな。今から荷物をまとめて、帰ってしまおうかな。一緒に上京した同級生の高良くんだって、1年ももたずに沖縄に帰って行ったじゃないか。
父に「根性ないな」とバカにされるだろうが、それくらい聞き流せばいい。掃除を終えたら荷造りしよう。
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