木下町子と夏休み達
桜草 野和
第1話 2000年(1)
【流行語】 おっはー, IT革命
2000年8月12(土) 天気:晴れ 最高気温:32.8℃
長かった。映画を1本も観ることもなく、ゴールデンウィークが慌ただしく過ぎ去ってから、次の息継ぎまでが長すぎる。危うく溺れかけた。社会人一年目。ようやく辿り着いた、夏休み。楽しんでやる。怒った時に必ず同じことを2回言う、チーフコピーライターの佐野さんの顔なんか忘れて、思いきり楽しんでみせるのだ。
ロマンスカーに乗りこむと、命を救う薬を投与するかのように、その冷たい缶のフタを開け、目を閉じて喉に流し込む。窒息しかけた心に、スゥーッと風が吹く。
「ゲポッ」
「町子、子供じゃないんだから。フハハハハッ」
コーラを飲んでゲップをした私を見て、親友の薫が子供のように笑う。
ペットボトルではダメだった。満たされる気がしなかった。ロマンスカーに乗って、缶のコカ・コーラを飲む。そう決めた私は、昨晩スーパーを4店回って、ようやく缶のコカ・コーラを発見すると30分くらい悩んだ末に6本購入し、携帯用のクーラーボックスに入れて一緒に旅行に臨んだ。
期待以上に喉を、心を、景色を潤してくれた。
「プハーッ」
「もう、ビールを飲んでるオヤジじゃないんだから。フハハハハッ」
コカ・コーラを飲みほし、缶をバコッと凹ませると、薫が笑いながら写真を撮る。
この感じだ。この感じだ。学生の頃に戻ったようだ。いや、違う。“戻ったようだ”だと、戻っていないことになってしまう。今、私たち二人は学生の頃に戻っているのだ。そう、戻っているのだ。ただただ輝かしかったあの頃に。
2000年8月14日(日) 天気:晴れ 最高気温:31.3℃
暗い部屋に帰って来る。楽しすぎた1泊2日の旅行は、短編映画を観るよりも早く過ぎ去り、電気をつけても暗い部屋で私は一人泣いている。
さすがに30分前に別れたばかりの薫に、寂しいからと電話をするわけにもいかない。上京してから毎日のように食べていたコンビニ弁当をうっかり買ってしまったことを後悔していた。今は、コンビニ弁当を開ける気がしないどころか、見るのも嫌で小さな冷蔵庫にしまう。
昨晩食べた豆乳鍋は絶品だった。先ほどまではそう思っていた。しかし、豆乳鍋は本当に絶品だったのだろうか? 非日常の世界で、親友と食べた夕食。それが、正体だ。つまり、私の脳次第なのだ。そうわかっていても、やはりコンビニ弁当を食べる気にはなれない。明日の昼食にしよう。午前中に起きる気は毛頭ないから、必然的に昼食になる。
目覚まし時計がセットされていないか確認をする。間違って目覚まし時計に起こされたら、私は罪なき相棒を破壊してしまう。社会人となって、さらに重要性を増した相棒を。
コンビニでお弁当と一緒に買った缶ビールは、一口飲んだだけで狭いシンクに流した。眠るにはまだ早いが、何もすることがない。あいつらに遭遇してしまうリスクがあったが、自転車のカギを握って、電気をつけたまま暗い部屋から出る。
思っていたよりも蒸し暑い東京の夜の中、自転車を15分ばかり漕いでレンタルビデオ店へ行き、1時間かけて借りる作品を決める。地元には大型のレンタルビデオ店がなかったこともあり、つい長居してしまう。
新作のポスターや、店員さんのオススメコメント、並んでいる夢物語たちのジャケットやタイトル、それらを見ていると一人ぼっちでも、この世界も悪くない、素敵な世界だと思えてくるから不思議だ。
こうして90分を費やして『マトリックス』を家へ連れて来た私はPlayStation2で再生する。祭り帰りや、一緒にDVDを選ぶカップルと遭遇しなかったことはラッキーだった。
やっぱり14インチのテレビでは迫力に欠けるが、『マトリックス』はそれに勝る名作だった。用意したコカ・コーラとポテトチップスに手を付けることなく、136分間も仕事のことを忘れることができた。そう思った時に、仕事のことを思い出してしまった。夏休みでさえ、仕事の呪縛には勝てないのだろうか。
私は棚上げしていたファイナルファンタジーIXを最初からプレイし直した。順調に進んでいたが、装備を充実させずに強い敵キャラと戦ってしまったために全滅してしまった。私は怒りのあまりファイナルファンタジーIXを割ってやろうとしたが、売ればお金になるので思いとどまった。
あれは小学4年生の夏休みだった。
何度も全滅してもめげることなく、2歳年上の兄と一緒に『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ…』をクリアした時、感動していた兄妹に向かって、
「何度も死んでいたじゃないか。こんなのズルだ」
と父が言って以来、私はRPGゲームで全滅したら最初からやり直すことにしていた。
そして、最初からやり直せるチャンスも3回までと決めていた。ファイナルファンタジーIXで全滅したのはこれで5回目だった。この事実が怒りを増幅させる。
まあ、いいや。これだけ夜更かしすれば、思いっきり寝坊をすることができる。そう言い聞かせて、電気をつけたまま眠りにつく。
2000年8月15日(月) 天気:曇りのち雨 最高気温:30.9℃
箱根湯本のナトリウム塩化物泉に2時間22分も浸かっていたおかげか、あろうことか7時10分に目が覚めてしまう。なんてことだ。いつもより、30分しか寝坊していない。
夏休みは明日までだ。私は追い込まれた。思いきり寝坊できるのは明日がラストチャンスだ。でも、待てよ。これなら、普段の土日のほうが寝坊できていたではないか。私は、温泉旅行に行ったことを後悔してしまった。あんなに楽しかった旅行に行って後悔をする私はなんてバカなんだろう。まだ大学生の薫を羨ましく思う。
私は映画監督になりたくて、沖縄の離島から上京し、2年制専門学校に入った。しかし、現場実習で奴隷のように扱われていた助監督と付き合うことになり、私の夢は殺されてしまった。
彼は、セックスもできないほど毎日疲れきっていて、お金もなく主なデート先は吉野家だった。両手で数えきれるくらいしかセックスしないまま、会うこともなくなった。
三日に一回くらい右目が一重になるせいか、少し胸が小さいせいか、口でするのが嫌いなせいか、彼がセックスしようとしなかった理由を考えることはあっても、また彼に会いたいとは一度も思わなかった。
たまに薫に大学の友人と一緒に合コンに行かないかと誘われたが、キラキラ輝いている女子大生の中に社会人がぽつんと入ることを、ふかんで想像すると「ノー」としか返事ができなかった。
大学で映画の勉強ができることを私は知らなかった。まさか大学という真面目な世界で、エンターテインメントを学べるとは夢にも思っていなかったし、進路指導の上原先生も教えてはくれなかった。
まあ、相当勉強しないと入れない狭き門だが、せめてチャレンジだけはしたかったと今でも進路指導の上原先生を恨んでいる。
ぼったくりのように高い入学金を払った専門学校を中退し、父と喧嘩して実家に帰りづらくなったのも、終電10分前が事実上の定時の広告制作会社『アイキャッチ』で働くことになってしまったのも全部、上原先生のせいだ。
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