第28話きゅうりとサバの酢のもの

 リリアの祖父からプレゼントされた手作りナイフで、水洗いしたきゅうりを薄切りにしていく。ザクザクとあざやかな切れ味。俺は手際てぎわよくナイフをった。まな板がないのでデリバリー専門の寿司屋のチラシの上で作業をこなす。そう、リリア宅にはキッチン道具がほぼないに等しい。包丁ほうちょうもないのだ。ナイフを持ってきてよかった。

 そんなわけで俺はただいま料理中。


 L字型のキッチン、割と広め。水栓すいせんとシンクのセットが3つある。IHコンロは4口。真上の換気口が低いうなり声を上げている。キッチンに向かっている俺の背後にはカウンターテーブル。そこには二人の人物が腹を空かせて待っている。

 俺が振り返るとリリアとその彼氏がキスをしていた。

「ふざけんな!」

「あ、できたぁ?」能天気なリリア。

「ほら」

 俺は完成した料理を彼女らの前に並べる。きゅうりとサバの酢のもの、豚肉とナスの味噌炒みそいため、そしてヨーグルトをかけたイチゴ。すべての料理を1時間内で作った。手早く料理を作るにはちょっとしたコツがいる。ただやみくもに料理すればいいというわけではないのだ。俺は笑顔で言う。

炊飯すいはんジャーの設定間違えた。あとはご飯がけるの待つだけ」

「ちょっと味見していいですか」

 リリアの彼氏が人懐ひとなつっこそうに笑った。

「ああ、こりゃあリリアの言う通りだわ、美味しい!」

 つまみ食いをしたリリアの彼氏が満足そうだ。

「なんで倒れたなんて嘘ついた?」

「うん、久びさにマッシュの手料理食べたかったんだよねぇ」

 そんなことリリアに言われると俺もしんみりしてしまう。

「……それに、この菊丸きくまるにも食べさせたかった」

 リリアはやさしい目で菊丸を見た。

「菊丸って本名?」と俺は菊丸に訊く。

「そうです」

「そうか」

「いやぁ、マッシュさん……その、なんて言ったらいいか……とにかくリリアは僕におまかせください。がははは」

「わかったよ」

 俺は返す言葉もない。

 その時、炊飯ジャーのアラーム音が鳴った。

「ご飯は自分たちでよそってくださ〜い」

「は〜い」

 ちっ、子供かよ。二人の素直な返事を聞いて俺はエプロンをはずした。エプロンはリリアからの借り物だ。

「マーカーペンある?」

 俺は食事中のリリアから油性ペンを借りて「食事中失礼」と言いながらトイレへ入った。しかし用は足さず「今日は楽しかったよ、また来る、二人とも仲良しでいてくれ」とそなけのトイレットペーパーに書き残した。そしてだまってリリア宅を出た。


 それにしてもリリアの祖父からプレゼントされた手作りナイフは食材を見事に切った。きゅうりを切っても鮮血せんけつが飛び散るのではないかと錯覚さっかくしたほどだ。おそらくこれはアウトドアを想定して作られたものだろう。そのうち化石採掘旅行かせきさいくつりょこうでもしようかと思っていたタイミングである。その時キャンプでたきぎを作るのに使ってもいいかもしれない。俺は右後ろの腰にあるシザーケースに入ったナイフを右手でポンポンと確認するように押さえた。


 マンションのエントランスをキュッキュッと足音を立てながら歩く。中央のカウンターにいるコンシェルジュが俺をガン見している。俺は玄関から外へ出てpm2,5の混じった空気をしょうがなく肺いっぱいに吸った。


 来週は色いろ建て込んでいる。月曜日の夜、小野田と直接取引をしなければならない。日曜日の明日、それに関してキリトとめの話をする予定である。おそらく小野田は死ぬことになるだろう。


 街路樹の桜が満開だ。通行人は少ない。俺はもう朝に近い夜の街を歩きながら、さっきのリリアを思い出していた。


 結局リリアは本当に俺の料理が食いたかっただけなんだろうな。確かにリリア宅ではろくなことをしゃべらなかった。こんなことならアインシュタインの名言でも教示きょうじしてこればよかった。


 数時間前、全力疾走したせいで肉体がクタクタだ。俺は自宅のベッドを目指してひたすら歩いた。


 

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