第1話 間違えて、秘境混浴 〜群馬県 宝川温泉(前編)
「こ──こんよく!?」
群馬県水上の山奥の中。
温泉の説明を改めて眺めて、素っ頓狂な声が漏れる。
当時27歳だったうら若き(?)私は、青ざめたまま、今夜の宿──宝川温泉「汪泉閣」を見上げ。
「しまった。間違えた……」
静かに、頭を抱えたのだった──
◆ ◆ ◆
7年前のこと。
その時、私はかなり疲れていた。
新婚による環境の激変、状況の変化にほとほと疲れ果て。この時は横浜に住んでいたのだが、朝いつも通勤していた癖で、最寄りの駅に何となく来てしまう。
「こりゃー、癒しが必要だな」嘆息し、ふと壁を見ると……
秘境のみなかみ温泉!
宝川温泉は群馬の美しい温泉です!
そんなキャッチコピーとともに、美しい露天風呂の写真。どうやら渓流が近くで流れているようで、幻想的な写真だった。今でもよく覚えている。
そして──
「こ……これだ……宝川温泉が、私を呼んでいるぅぅぅっ!!!」
27歳主婦は、心の底で吠えた。
それこそが、宝川温泉と私の出会いだったのだ。
◆ ◆ ◆
で。
冒頭のシーンに戻るわけだが──
私は美しい写真に目を奪われ、まさかここが、混浴などとは思ってもいなかった。
ちなみに混浴をよく知らない読者諸兄に、国語辞典から引用すると、
【混浴】 こん‐よく
[名](スル)男女が同じ浴場で入浴すること。
ということなのである。そう。男女が垣根なく本気で、温泉ダイブなのである。ちなみに老若男女である。
とはいえ──
キャンセルなどできないし、何より宿が目の前なのだ。もう後戻りはできぬ。
私は覚悟を決めた。
(初めての一人旅が、混浴とは……何というか、私らしいな)
自虐気味に笑う。宝川温泉「汪泉閣」は、そんな私にどんと構えるように、大きく建っていたのだった。
実に豪華な和の建築を施されたフロントを抜けると、フロントの前にちょっとしたお茶を飲めるスペースがある。そこで昆布茶を振る舞われ、住所などの個人情報を書き記す。こうやってゆっくりと渓流の音を聞きながら手続きする宿は、なかなかそうは見かけない。
さらに、自分の好きな浴衣を選べるという。これはかなり嬉しい心配りだ。私は赤い浴衣を選んだ。さあ、次はいよいよ、泊まる部屋である。
宿泊部屋はたくさんある中で、この宿の売りでもある、一番古くて素朴な離れの宿を選択していた。一番安い部屋で、なんと一泊夕朝飯付きで1万円と少し。往復の交通費と合わせても2万いかないのだ。ここはこの宿の一番最初に建てられた所らしく、以降増築して大きくなってきたのだと言う。
だからこそ、外れる事も多い。緊張の一瞬である。
しかし、そんな私の杞憂を他所に、入ってみれば非常に良い部屋だった。
「意外と広いな……!」
そこは適度に広く、近くを流れる渓流の音が絶えず聞こえ、一人ではもったいないくらいだ。少し傾いている部分があることは否めないが、気になるほどではない。趣があり、古い木の家の匂いがした。お婆ちゃんの家の、あの懐かしい匂い。
早速浴衣に着替えて、うきうきと露天風呂近くを見学に行く。ここは着衣のまま露天風呂をめぐっても良い。どちらかというと、庭のようになった部分に露天風呂が併設してあるイメージなのだ。
そして、もう一つ。私は気になっていた場所があった。
「熊がいるってほんとなのかな」
この汪泉閣は昔から、熊を飼育しているのだ。なぜなのかはよく分からないが、間近に熊を見られると聞いては黙っていられない。
外に出て、渓流を跨ぐ大きな吊り橋を渡り、ちょいちょいと左に行くと、大きな動物の檻が何個かあった。そしてそこには、確かに熊が寝転んでいたのだ!
熊はどうにも眠たそうで、こちらを一瞥するとあくびをした。
「おおおおお……!! か、かわいい……」
動物好きな私は無駄にテンションが上がりまくる。特にその辺の動物にはあまり見られない、丸い耳の造作などはずっと見ていても飽きない。しばらく、うっとりと眺めていたが──
「──はっ。いかんいかん、私は温泉に入りに来たんだ」
しかも、初めての混浴。
ちょっとドキンとしたが、慌てて部屋に戻り、湯の支度をして外に出る。
さあ、いよいよ、混浴初体験だ!
ドキドキと胸が鳴りつつ、一つ目の温泉「摩訶の湯」へと向かう。面積120畳分と大きめな温泉で、まるでプールのような光景だ。ここなら、端へ寄ってしまえば互いの距離は遠くなり、いざ異性が居たとしても比較的安心であろう。
女性には通称「軍艦巻き」とも呼ばれる色の濃いバスタオルが宿から支給される。対して男性は、白い小さなタオル一枚だ。なんというか、色んな意味で申し訳ない気持ちになる。とはいえ、これなら女性でも入りやすいように思えた。
着替える場所は、温泉のすぐ横。さすがにそこは男女分かれている。緊張しつつ、浴衣を脱いで、しっかりとバスタオルを体に巻きつける。深呼吸。
さっき入るときに確認したが、女性の中にご年配の男性がいることは分かっていた。
「だ、だいじょぶ……若い人じゃないし、きっとだいじょぶ」
結婚したとはいえ、私はあまりたくさん男性と付き合ったりはしていない。男の裸なんて、見慣れてなどいないのだ。なんでここに来てしまったんだ私。
ドキドキしながら、のれんをくぐり、いざ、
湯船に入ると非常に暖かく、まろやかな感触で、湯の質は最高だった。もしかすると、今まで私が入った中で一番相性が良いかもしれぬ。ざ、ざ、と移動するとバスタオルが揺れて、足元がはだけそうになり、必死で押さえながら温泉の端っこを目指した。
(『無敵エリア』に入れば、ひとまずは大丈夫だ……!!)
端っこに到着すると、ようやく緊張が解けた。ぐったりと湯に浸かる。これだけでなんだか疲れてしまった。そんな自分に、ちょっと笑えてくる。
少しして、場の雰囲気に慣れてきたら、周りを見渡す余裕ができた。すると、とんでもなく美しい光景が視界に飛び込んできたのだ!
「おおお……!!」
奥に連なる山々が借景となって壮大な景色となり、真ん中を流れる大きな渓流がただただ、美しい。この温泉の庭は伊達ではなく、本気で、ガチで大きい!! それこそ、ちょっとした公園なのかと思うほどの大きさだ!!
今は昼だが、夜になったらここはどんな風に変貌するのだろうか? またもや、期待に胸が高鳴ってしまう。
そして不思議なことに、ここまで凄い光景を堪能してしまうと、人とはいかにちっぽけなものかと再認識してしまったらしく、あんなに緊張していた異性──この場合は奥のご年配の男性──にも気にならなくなってしまった。
自然の雄大さ、恐るべし。
これで大きく勇気付けられた私は、他にもいくつかある温泉に入ることにした。
50畳ほどの小さくて浅い温泉は、「般若の湯」。ここは、子供と一緒に入るのに適した場所だ。一応入ったが、やはり物足りないので、すぐに別へと移ることにした。
次は、実は気になっていた「麻耶の湯」。昭和45年に、女性が安心して入れるよう造られた女性のみの温泉である。もし、周りの混浴に耐えきれなかったら最後の砦になるわけで、そういう意味でも期待していたのだが──
いざ入ってみて早々、拍子抜けする。
「な、なんだこれ?」
お湯には問題はない。問題は景観である。
男の目から隠すわけだから仕方ないのだろうが、とにかく隠されまくっていて、開放感はなく、景観はかなり悪い。ぶっちゃけ、あんまり景色が見えない。先ほどの雄大さに圧倒されていた私には、これは大変不服であった。
「なんだこれは! これに入って男の目から逃れるくらいなら、混浴に入って景色と湯を満喫するわい!」
今から考えても実に漢らしい思考でもって、私はさっさと麻耶の湯から出た。この湯を否定するつもりは無いのだが、私のニーズには合わなかったのである。
気を取り直して、今度は最後の湯、「子宝の湯」に向かう。ここは200畳分と一番大きい面積を誇る、一番の温泉らしい。わくわくと中に入ると──
「う、うわあああ……こりゃあいい!!」
非常に趣のある家屋のような着替え場所からスタートして、徐々に温泉に入り奥に行くと、渓流が間近に、それこそ目と鼻の先に見られるポイントまで来ることができる。そして、DTPデザイナーの私から見ても、デザイン構成が完璧になった景観。
最高の温泉に違いなかった。
そして、ここにはやたらと若いカップルや夫婦が入っていた。若いとはいえ、パートナーがいるのであれば、多少は安心できる。少なくとも、先ほどの緊張よりはかなりリラックスしていた。慣れてみると、これも一種の水着で入るプールの感覚に近いのだろう。
ここでかなりの時間、湯を堪能し、のぼせ気味になりながら、一旦宿に戻ることにした。時刻は既に夕方。そろそろ、夕飯の時間だ。
旅行好きな私は、温泉の次に大切なものがある。それは食事だ。飯は何よりも代えられぬ。旅に対して元気を与えてくれるし、何より美味しく味わえることは幸せなのである。というか、私が特に、食べることが好きなのだ。
だからこそ、この一食は今後ここに来ることになるかを左右する。先ほどとは別の意味で緊張していた。
薄暗く、ぼんやりと綺麗な明かりを灯された食事部屋へと通される。テーブル席だ。そしてそこには──
「………当たり」
美味しそうな懐石料理。
それも、色鮮やか、器にもしっかりと凝った出で立ち、本当に隙が無い。どこから見ても、本気でプロが作ったことが容易に分かる。
着席して、まずは食前酒。甘く深い味わいの蜂蜜に漬けたらしき梅酒が、口内に芳醇な香りを漂わせる。それだけで腹が鳴った。もうたまらない。
早速、丁寧に焼かれた川魚や、煮ごこり、透明なゼリーのようなものにくるまれた、なんだか分からないけれど舌にとろける絶品な料理を堪能する。
私は食べ物の美味さは味の先に、まず食感だという持論があるのだが、この料理には食感にも気を配られていて、とろけるほどに崩れるもの、さくさくと小気味良く崩れるもの、こりこりっと音を鳴らして噛み砕けるものなど、実に多彩だった。これだけでご飯何杯でも行けてしまいそうだ。
様々な味を堪能していると、大きなお椀に固めの肉が入った汁が出てきた。
「うわ……これ、なんのお肉です?」
「熊です。熊汁ですよ」
「おおお!? 熊……く、くま!?」
思わず檻の中の熊たちを想像した私を察したかのように、給仕のおばさんはころころと笑った。
「違いますよ、檻の中の熊たちではなくて、ちゃんと狩ってきた方の熊ですから」
ちょっとほっとしつつも、命を食べるありがたみを噛みしめて、一口。肉は実に固めで、しかし噛めば噛むほど旨味が口の中に広がっていく。これが、熊肉……!!
最後にさっぱりとしたシャーベットを食して、
「ごちそうさまー!!」
手を合わせて食後の一礼だ。満足である。食事は満点だ。このクオリティで朝も出るのかと思うと、楽しくてたまらない。最高の旅だ!
さて、食べたら今度は──外はもう、とっぷりと日が暮れていて。
「よーし。いよいよ、温泉の醍醐味! 夜の温泉へと繰り出すぞー!!」
再び私は、夜の温泉へと飛び出したのである。きっと幻想的で、もっと素敵な景観になるであろうあの温泉たちを夢見て。
──あんなこともあるとは知らずに。
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