湾曲した文庫

田原泳透

第1話

 無意識に溜め息をつき、溜め息をつくと反射的に

「疲れた」

 あ。また言ってしまった、と思うまでが一括りだ。


 新卒で入社してから3年。この峠を越えてさらに5年頑張った。しかし、仕事を覚えても、部下を持つようになっても、忍耐することは変わらない。俺は底なし沼に沈んでいる途中。底はまだか、底に到達したら辞める、と週に一度は思う。


 そんなとき、異動命令が出た。同じ関東圏ではあるが、いまのマンションからは遠すぎる。

 俺は長めに有給を使って一旦地元に帰ることにした。この機会を逃したら、もうしばらく休みは取れないだろう。引き継ぎは適当でいい。どうせもう俺が担当ではないのだ。


 実家まで、新幹線から列車に乗り換える。新幹線よりずいぶん短い車両に乗ると、ようやく休みを実感し始める。

「やっと」

 言葉は続かないが、俺はそう口にした。


 実家の両親は、もうおじいちゃんとおばあちゃんという感じで、不謹慎にも可哀想だと思ってしまう。

 もうあの両親ではなくなっている。「あの」が「どの」かは自分でもわかっていない。


「元気?」

と母が訊く。

「まぁ元気」

「そうか。食べとるだか?」

「コンビニが多い」

「いけんでぇ。野菜食べんと。悪いもんばっかり入っとるだけ」


 帰るのは、2年ぶりだ。

 長めの休みで帰省しても、行って帰るだけなので億劫になる。

 もう日が落ちてきているが、夕飯まで時間がある。母が俺の好物のコロッケをつくってくれるという。俺は腹を減らすために自転車に空気を入れて走った。


 時間が経った。

 どこを見ても時間の痕跡がある。新築の家、知らない子ども、つぶれたお店、両親、俺にも。俺はさらに自転車を走らせた。

 小学生から高校生になるまでよく行っていた本屋があった。個人経営の小さな本屋だ。おじいちゃんが店番をしていて、たまにおばあちゃんに代わっていた。

 おじいちゃんはレジ前の椅子に座り、鼻梁の中腹に掛けていた眼鏡を覗き込むようにして本を読んでいた。俺はよく立ち読みした。

 おばあちゃんの日はすぐに帰った。おばあちゃんは立ち読みに寛容ではなく、

「何か探しとる?」

 と訊いてくる。

 探してないときは、訊かれそうになると店を出た。探しているときは、訊かれるまで立ち読みして、本の名前を言った。たいていは、見えやすいところにある新刊だ。


 でもいつからか、その本屋は時間が停まった。雑誌や売れ筋のコミックだけが現在に合わせて回り、残りは過去に留まった。俺はもうそこにいてはいけない気がした。

 まだその本屋はあった。

 外から見ると、薄暗く、やっているのか判然としない。よく見ると、店内の照明は点いているのでやっているようだ。

 俺はガラガラと戸を開けて中に入った。

 店番はいない。店の奥からテレビの音が漏れているので、誰かがいることは確かだ。

 俺は動線に従い、棚を順番に見ていった。


 棚は空きだらけ。

 多くの本が色あせて埃を被っている。ブックスタンドにもたれかかった文庫本は、長い間そうしていたせいで湾曲している。帯には新潮文庫の夏の100冊フェアが巻かれているが、今は春だし、帯は3年前のものだ。しかし時間は進む。


「いらっしゃいませ」

 奥からおばあちゃんが出てきた。俺の記憶の中よりも、ずっとおばあちゃんになっていた。

「久しぶりだが」と彼女は微笑んだ。

 俺を覚えてくれていたことに驚き、初めておばあちゃんにこんなふうに話しかけられ、少し戸惑う。

「え、はい、何年かぶりに来ました」

「そうだでなぁ。大きなったな」

 俺たちは長い間顔見知りではあるが、共有した時間はごくわずかだ。お互いのことなどほとんど知らない。


「なぁ、線香あげてくれんか」


 誰に向けての線香なのか、すぐにわかった。

「おじいさんは、ここに子どもが来るのを楽しみにしとってな。でもある日からぱったり来んくなるだろう? しょうがないけどなぁ」

 おばあちゃんは歯を見せて笑った。


「あんたは帰ってきたけぇ。せめて、顔見せたって」


 俺は久しぶりに会ったその人の写真に、目を閉じながら合掌した。そうだ。こんな顔だった。でも笑っている顔は初めて見た。


 変わらないでいるには、変わらなければならない。自分が現在でいるためには現在を表現し続けなければならない。しかし、人々はついていくのをやめていく。その結果、この本屋みたいに古くなっていく。

 現在を表現することをやめても、ちゃんと現在まで届くものもある。俺は、いつの間にかタイムカプセルを埋めていた。

 俺は選択しなければならない。留まるか、進み続けるかを。



おわり

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湾曲した文庫 田原泳透 @oyogusukeru1991

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