第6話 ――月夜の青春――

 翔一はぼんやりと星空を見上げていた。

 辺りはすっかり暗くなって、月が明るく輝くばかりだ。

 あれから、翔一はボールを蹴っていない。二年ほどの月日を経て、翔一の膝はかなり治って来ていた。もう、日常生活にはほとんど支障はない。普通に歩く分には痛みが出ることもない。もしかすると、サッカーだってもうできるかもしれない。だが、翔一がサッカーボールを蹴ることはなかった。

 何故か?


 ……怖かったからだ。


 もし、ボールを蹴って膝の状態が悪化したら、また入院だ。もう、あんな思いはしたくない。だから……サッカーはもうやめた。


 先ほどまで辺りを飛び回っていたとんぼの群れはもういない。

 穏やかな風が吹きすさぶ河原で翔一は一人、星空を見上げる。たくさんの星の中で一際強く輝く星が一つ。北極星だ。たくさんの星たちが季節や時間によって位置を変えるのに対して、北極星はブレない。北極星はいつもそこに存在し、輝いている。自分もあんな風になれたらな、と思いながら、翔一はじっと北極星を見つめる。

「……帰るか」

 立ち上がり、カバンを肩に掛けようと手を伸ばそうとすると、足音が聞こえてきた。

 足音のする方を振り返ると、真紅の髪の少女が風のように走っていた。

「光……?」

 光は翔一に駆け寄り、ぜえ、はあ、息を切らす。

 怒っているような、それでいて、悲しんでもいるような眼差しを翔一に向けたかと思うと、ギリ、と奥歯を噛み締め、

「このっ……バカぁ!!」

 怒声と共に、翔一に強烈な張り手を放った。

 突然放たれたビンタに動揺した翔一は、驚いて腰を抜かし、その場にへたれこんでしまった。

 ビンタを放った光の目からは涙がこぼれていた。

 頬がジンジンと痛く、熱い。

「……晴人から聞いたのか」

 光の唇は震えていた。

「……うん」

 光は悲痛な面持ちで頷いた。

「……ごめん。私、言い過ぎたし……。でも……でも、どうして言ってくれなかったの……?」

「……誰にだって言いたくないことの一つや二つあるもんだ。それに……お前に言ったところで、何か変わるのかよ? 現実は何も変わらないんだ……」

「私には、翔ちゃんの心の痛みを消し去ることはできないよ……。けど……一緒に背負うくらいはできる!」

 翔一は光の言葉に一瞬目を見開いた。

 ……こいつはなんなんだ? どうして、こんなに本気なんだよ。

 刃物のような双眸で光を睨みつける。

「……ざけんな! 俺がお前にそこまでしてもらう義理はねえ。わかったらとっとと帰れ。もう……俺に構うなよ……」

 翔一は冷たく言い放つ。そして、地面に落ちていたカバンを拾った。踵を返し、歩き出そうとした時、光がつぶやいた。


「友達でしょ!」


 光の言葉は翔一の足をぴたりと止めた。

 その言葉を聞いた瞬間、不思議と翔一の目から涙がこぼれた。何処にこんなにあったと思う程、とめどない涙が溢れだす。涙の雫は大きな鳶色の瞳を濡らし、まるで鳶が海原をかけているようだった。

「……バァカ」

 一言つぶやいた翔一は決して後ろを振り向くことなく、おぼつかない足取りでゆっくり前へ進み始めた。

「翔ちゃん!」

 立ち去ろうとする翔一を追いかける光。

 こんな無様な顔を見せるわけにはいかない、と翔一は早歩きで歩き出す。

 しかし、翔一の前に立ちはだかるように、鬼のような顔をした男が行く手を阻む。

「っ! 晴人……じゃまだ、どけ!」

 しかし、晴人はその場に仁王立ち。一歩もどこうとはしなかった。

 翔一は強引に通ろうとして晴人に掴み掛ったが、晴人が繰り出した背負い投げの前にあっけなくその場に寝転んでしまった。

 そうこうしている間に、光が翔一に追いついた。

「おう、夏凪さん。全く、こいつに何言ったんだよ? 翔一が泣きべそかくなんてよっぽどだぜ……」

 翔一はサッと、左腕で目の辺りを覆い隠した。

 そんな翔一の様子を見て、光はクスッと笑う。

「本当に昔からだよね……その強情っぱり」

「……うるせぇ」

 ガッハッハと、しまいには晴人も大声を出して笑い始める始末。何だか自分でも可笑しくなってきて、翔一も笑い始めた。

 と、足音が聞こえてくる。足音の主は、息を切らせて走っている冬島。光を追って晴人と共に走り出したらしいが、足が遅くて置いてけぼりを食らったらしい。

「ほよ? 皆さん、何で笑ってるんですか?」

 そんな、冬島を見て、三人はまた笑い出した。それにつられて冬島も穏やかな微笑を浮かべた。


 四人の笑いは風に乗ってどこまでも、どこまでも高く飛んでいく。やがて風は地球上を一周して、再び彼らのもとに笑いを運んでくるのだ。


 その後、笑い疲れた翔一はふと、自分の過去を話し始めた。

 自分はU─15日本代表選手だったこと。膝の致命的な怪我によって試合に出れなくなり、やがて日本代表の座を降りたこと。

 そして、今……サッカーがやりたくても、できないことを。


 話を聞いていた三人は、皆、真剣なまなざしで翔一を見つめながら、耳を傾けていた。

 翔一が話し終えると、そっと冬島はつぶやいた。

「秋川君……、まだ、あきらめるのは早いです」

 翔一は冬島に穏やかな口調で言った。

「……冬島、お前の気持ちは嬉しいよ。だけど、俺がサッカーできないのは夢でも小説の中の話なんかじゃあない。その事実は俺の前に現実としてあるものなんだ。だから、同情はよしてくれ。もう……いいんだ。俺にはお前らみたいな……いい友達ができたからさ」

 翔一の言葉を聞いた晴人は、鼻の頭を指でこすりながら照れたように、「へっ」と言い、光は少し赤面して、空を見上げていた。

 しかし、冬島はより一層真剣な顔つきになって言った。

「私は本気で言ってるんです! まだ、秋川君はサッカーできます!」

 相も変わらず言い放つ冬島に、翔一の表情が険しくなる。

「TRPGの中でなら……」

 冬島は、静かにそうつぶやいた。

「TRPG?」

 聞き慣れない単語に、翔一は首をかしげる。

 光も晴人も、何のことかわかっていない様子だ。

 冬島は、そんな三人に、滔々と説明を始めた。

「えっと……TRPGっていうのはですね……簡単に言うと、パーティゲームです」

「……ゲーム?」

 訝しげな視線を送る翔一に、冬島は頷いてみせる。

「ゲームと言っても、ファミ○ンみたいな機械は使いません。使うのは紙とペン、そしてサイコロです」

「それでゲームになるの? 私にはどうにも、すっごくつまんなそうに聞こえるんだけど……」

 光も翔一同様、得体の知れないゲーム内容に不安を隠せない。しかし、冬島はにやりと笑った。

「そう……。夏凪さんの言う通りです。このゲーム、TRPGは遊び方によって、とっても楽しくもなるし、すごくつまらなくもなります」

 晴人は小難しげな表情を浮かべた。

「うーん……俺もよくわかんなくなってきた。つまり、どういうこと?」

「TRPGの主役はプレイヤーなんです。ド○クエは皆さん知ってますよね? あのゲームでは与えられたシナリオに沿ってプレイヤーが進んでいきます。でもTRPGには決まったシナリオが無いんです。それを創るのはプレイヤー自身。プレイヤーの行動は基本的に自由で、例えば人々の依頼を受けて、解決するお助け屋になってもいいし、悪の道を突き進んで王国を破滅に導く魔王にだってなれるんです」

 えらく饒舌にマシンガンのように冬島の口から言葉が発せられ、その勢いに翔一たち三人は思わず圧倒させれていた。

「……あ、あのよ冬島。お前が、TRPG? 大好きなのはわかったんだが、それと、俺がサッカーできることと何の関係があるんだ? 俺には全く関係ないようにしか思えないんだが」

「RPGであるからには、プレイヤーは様々なロール――役を演じます。どんな役を演じるかは基本的にプレイヤーの自由。定番の勇者や戦士や魔法使い、どれでもなりきることができます。そう、全てはプレイヤーの、皆さんの想像力次第です。だから……秋川君がその気になれば、サッカープレーヤー、なんてのもありだと思います」

「「「サッカープレーヤー!?」」」

 冬島が不意に口にしたその言葉に、三人は声を揃えて驚いた。

 RPGって言ったら、まあ架空世界を舞台にした物語なんだろう。そのくらいは、ほとんどゲームをしない翔一にも想像できた。そういう世界には、たいてい凶悪なモンスターが闊歩するような設定がつきものだ。人外の怪物を相手にサッカーボールで一体何ができようか?

 考えていると、頭の中がこんがらがってきて、翔一は少し混乱していた。

 その様子を見ていた冬島は、

「ほら。今、秋川君、頭の中でサッカーしている姿を思い浮かべてたでしょ。それは現実ではないけれど……でも、少しは秋川君の助けになれるかなと思って、私……」

 翔一はまっすぐに自分を見つめている冬島を見て思った。自分は愚かだった、と。こんなにも自分の心配をしてくれていた冬島に、一瞬ではあるが邪気のようなものを感じてしまった自分が許せない。それに、彼女の言葉――頭の中でならサッカーはできる、というのは考えもしなかったことだ。

 あんなに嫌いだったサッカーが、今、自分の頭の中いっぱいに広がっている。そのきっかけをくれた冬島に、翔一は感謝の気持ちを感じていた。

 翔一は、冬島の瞳を見返して、

「俺、やってみるよ。頭の中でボール蹴ったって、どうにもならないけど……それでも、やってみたい。冬島、俺にTRPG教えてくれ」

 翔一の返事に、冬島の顔は見る見るうちにパァっと明るくなる。

「はい! もちろんです! でも……一つだけ問題が……」

「問題?」

「TRPGはある程度の人数が必要なんです。その方が進行もスムーズですし。四人は最低限集めないと……」

 すると、光と晴人は顔を見合わせ、ニカッと笑みを浮かべた。

「何だよ、二人とも水くせぇなあ。俺も仲間に入れてくれよな」

「そうだよ! 私だって仲間外れはヤだからね! それにTRPGって役を演じるんでしょ? 私、演劇得意だしピッタリじゃない!」

 思っても見ない二人の反応に、翔一と冬島は一瞬驚いたような表情で互いの目を見つめ、そして穏やかな微笑を浮かべた。

「……四人……そろったな」

 翔一がそっとつぶやく。

 冬島は手をすっと伸ばした。光と晴人も手を伸ばし、冬島の手の上に重ねた。

 フッ、と少し口角を上げて、翔一もそっと手を重ねる。

 冬島は夜空の星を見上げて、声高らかに言った。


「TRPG部結成です!」

「「「お~!」」」


 四人は一斉に手を振り上げる。

 かくして、TRPG部は結成された。いや、正確にはまだ部にはなっていないが。

 詳しいことは明日の放課後に話し合うことになって、四人はそれぞれの帰り道を歩き始める。


 進む道は同じではない。だが、彼らの頭上にはきれいな星たちが同じように瞬いていた。

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