第5話 ――止まない雨――
翔一は河原で一人、佇んでいた。
とんぼが目の前を何匹も飛んでいる。
そのうちの一匹を手掴みで捕まえた。
手を開くと、とんぼは飛び立とうとして、羽根をパタパタ動かすが、飛ばない。
捕まえた時に羽根の一部分が折れてしまったせいだ。
手の中で諦めずに飛ぼうとしているとんぼを、翔一は空中に投げ上げた。
とんぼは尚も羽根を動かすが、やがて地面に落ちてしまった。
地に落ち、もがいているとんぼをじっと見つめる。
「俺も……こいつみたいなもんか」
翔一は誰もいない河原で一人、そうつぶやいた。
寂しげな風が吹き抜け、河原の脇に生える草を揺らす。
たった一つのアクシデントは一人の人間の人生を大きく変えてしまう。
それは、二年前、突然起きた――
* * *
「いくぞ、ホラ!」
汗を拭いながら白球を追ってフィールドを駆ける少年の名は、秋川翔一。
彼が今駆け抜けているのは、緑の芝生がきれいに生えそろっているフィールド。
サッカー少年なら誰もが夢見るであろう、世界大会の会場である。
翔一は、若干十四歳にして、ジュニアユース、U─15日本代表でエースナンバー10を背負うサッカー少年だった。ポジションはミッドフィルダー。日本代表チームの司令塔――ゲームメイカーとして、秋川翔一の名は海外諸国にも知れ渡っていた。
ニッポンのショウイチ・アキカワがすごい、と。海外の有名クラブチームからもスカウトが来るほどだった。
翔一の放ったパスはきれいな弧を描いて味方に届いた。
「ナイスパス!」
「おう!」
そして、翔一は敵チームのゴールの前へと果敢に走り出す。ディフェンダーの猛烈なチャージを鮮やかなステップでかわしていく。
翔一がペナルティエリア内に入った時、味方からのパスが来る。
「決めろ、翔一!」
ボールは高く空中に放たれている。
翔一はジャンプして飛び上がり、体を逆さまにして足を振り上げた。
振り上げた足はボールの芯を捉え、翔一の放ったシュートは吸い込まれるようにゴールに向かい、そしてネットの中に納まった。
翔一は血肉湧き踊るような喜びを感じ、腕を振り上げた。
チームメイトが集まってきて、翔一の肩を叩いていく。
……楽しい。サッカーはやっぱり楽しい。ドリブルで相手を抜き去り、味方にパスを出す。そのまま敵陣に走りこんで、味方から受けたパスを華麗なシュートで決める。ゴールの瞬間、全身に電撃が走るような興奮を覚えるあの感覚は病み付きになってしまう。
目の前にあるボール一つで、自分はこんなにも楽しくなれる。サッカーはなんて偉大なスポーツなのだろうか、と翔一は思っていた。
それからも試合は順調に進み、やがてピ、ピ、ピーッと、フィールドに笛の音が響き渡った。
「ゲームセット!」
審判の声でその日の試合は終了した。勝利したのは日本。観客席からはワーッという耳が痛くなるほどの歓声が聞こえる。
試合結果は1─0。決め手は翔一の決めたシュートだった。
勝利を導いた立役者として、仲間たちによる翔一の胴上げが始まった。
背中を突き上げられ翔一は天を仰ぐ。
翔一が見たのは、自分がそのまま溶けて行ってもおかしくないくらい澄み切った青空だった。
その後、選手室にて今日の試合についてのミーティングが行われた。
「今日の試合、パス回しが甘かったと思います。相手選手の位置を的確に察知し、正確なパスを出すことをもっと徹底すべきです」
声高らかに発言したのは、翔一。ゲームメイカーである彼は、チーム全体の作戦指揮を任されていた。
「まあまあ、試合終わったばっかなんだしよ。そんなに根詰めなくてもいいんじゃねぇか?」
そう発言したのは、日本代表のキャプテン、大柳創。学年は翔一よりも一つ上の中学三年生。背が高く、茶色の短髪。その大柄な体躯からはとても中学生だとは思えない。
キャプテンである創の言葉に翔一は口を紡ぐ。
「し、しかし!」
「翔一、俺たちの目標は何だ?」
「……世界制覇」
「わかってるならいい。確かに過去を振り返るのも大事なことだ。だがな、それだけじゃ、未来は、栄光はつかめねぇと俺は思う。……な~んてな。これでもくらえぃ!」
創は手元にあったスポーツドリンクを手に取り、翔一にぶちまけた。
「な、何するんですか!?」
「へへ、ビールかけならぬポカリかけだ! お前らもやれやれ!」
ミーティングルームでポカリかけ合戦が始まった。翔一は呆れたような顔でチームメイトを見回していた。
「まあ、今日ぐらいはいいか」
そして、翔一はポカリを手に取り、合戦に参加した。
翔一の表情は、とてもにこやかなものだった。
にしてもさ――合戦がひと段落した時、チームメイトの一人が口を開いた。
「遠いよなワールドカップって。今日の試合だって、まだアジア予選だぜ」
ワールドカップ。それはサッカーの頂点を決める大会。世界中のサッカー選手たちはその栄光を目指して、毎日練習に汗を流す。そしてそれは翔一も変わらない。
今はまだ遠い優勝カップを思い描いて、翔一はつぶやく。
「確かにな……。でも、あきらめる必要はない」
キャプテンが翔一の言葉に続いた。
「コイツの言う通りだ。最初から諦めている奴なんかに栄光が掴めるはずがない。そうだろ? 俺たちにできることは、目の前の試合に全力で取り組む。それだけだ」
チームの皆の表情が明るくなっていく。やはり、キャプテンはすごい人だ。翔一は羨望の眼差しを向けた。
「じゃあ、来月の試合に向けて各自、練習を怠るなよ! 解散!」
それぞれ荷物を抱えて部屋を出ていく。アジア予選はまだまだ続く。だが、日本代表だからと言って、ずっと独自に練習しているわけにはいかない。彼らはまだジュニアユース。皆、学校に通っている中学生である。義務教育の真っ最中である彼らは、当然、普通の中学生同様に学校へ行き、授業を受けなければならない。今回はたまたま、試合だから駆り出されただけのことで、夏休みでもなければ、普段は自分たちの学校の部活動で練習しているのだ。夏休みのような大型連休になれば、強化合宿に参加しなければならないが、そういった場合以外は、翔一も一、中学生としての日々を送っていた。
次々と部屋を出ていく皆に続き、翔一もスポーツバッグを手に取り立ち上がる。
その時だった。膝に突然鋭い痛みが走った。思わず声を出しそうになるが、唇をかみしめて何とかこらえる。幸いにも痛みはすぐに消え去った。
「……? どうした翔一?」
創が不思議そうな目で翔一を見つめた。
「いえ、何でもありません……」
翔一は立ち上がり、創と共に部屋を後にした。
この時、翔一が感じた痛みは本当に一瞬の事だった。だから、翔一も特に気にしなかった。この時、まだ翔一は知らなかったのだ。膝の痛みが、その後の生活を大きく変えてしまうことに……。
* * *
いつもの日常に戻った翔一は、部活の練習に行くために廊下を歩いていた。
最近なんだか気分がすぐれない。試合が控えているだろうか。足がどうしてか落ち着かないのだ。
「よっ! 浮かないツラしてんな!」
後ろから肩をぽんと叩いて声をかけてきたのは、金髪の強面。春日崎晴人である。
「……不良が俺に何の用だ?」
翔一は冷たい仏頂面で言い放つ。
しかし、それに全く物怖じせず晴人は続けた。
「今日、カラオケでもいかねぇか?」
晴人の暢気な顔を見ていると、翔一は腹の中がだんだん熱く煮えたぎってくるのを感じていた。自分は試合が控えていて練習しなければならない。なんだか落ち着かない足をどうにかするには練習を繰り返すしかない。そう思っていた翔一にとって、晴人の提案は邪魔以外の何者でもなく、冷たい表情で晴人に言う。
「……不良に付き合っている暇はねえよ」
「……んだと!? てめぇ、俺はお前の息抜きにと思ってだな……」
「俺がいつ、誰に、そんなことを頼んだ? 余計なお世話なんだ。……とっとと俺の前から失せろ!」
すると、晴人は以外にもあっさりと、
「……そうか、ならいい。じゃあな、翔一」
と、言って立ち去った。
少し言い過ぎたか、と翔一は心の中で反省する。何故自分はあんなに熱くなってしまったのだろう? 自分でもわからない焦燥感に動かされ、つい怒鳴ってしまった。晴人に悪気はないではないか。しかし、口にした言葉はもう戻らない。翔一は歩き始めた。
* * *
――晴人と初めて出会ったのは……そう、一年の夏休みだった。そのころ、翔一は、部活が終わった後も、ずっと一人で練習していた。当時、すでに県でもトップクラスの実力を持っていた翔一にとって、部活の練習だけでは物足りなかったのだ。だから、他の部員たちが帰ってしまった後も、一人でボールを蹴っていた。日が暮れても、ずっと。
そんなある日、いつものように校庭で練習をしていた翔一は、フェンス越しにこちらを見ている誰かがいることに気づいた。どうせ、この辺りを縄張りにしている不良がからかいにでも来たのだろう。もう日も暮れてるし、普通の奴ならもうとっくに家でご飯を食べているはずだ。そう思った翔一は地面にボールを置いた。そしてそれを、何者かがいると思われるフェンスの辺りを狙って思い切り蹴り飛ばした。勢いよく飛んで行ったボールは見事フェンスに命中。隠れていた人物が姿を現す。
金髪のボウズ頭。首からいかにも、という感じのシルバーアクセサリー。般若のごとき強面。姿を見せたそいつの風貌に翔一は一瞬身じろぎしてしまう。それほど、そいつの風貌、特に強面は凄まじかった。まさに悪鬼そのもの。しかして、そいつの来ていた服は同じ学校の制服だった。これほどの面構え、翔一は学校で見かけたことはない。
金髪の強面はゆらりと、翔一に歩み寄って来た。
翔一は少し怖かったが、ポーカーフェイスを保ちながら言った。
「お前……同じ学校だよな? こんな時間に、何してんだ?」
そいつは、翔一をギロリと睨んだ。睨まれた翔一は蛇に睨まれた蛙のようだ。
「……それはこっちのセリフだ」
「……はぁ?」
強面は尚も変わらぬ面構えで言った。
「お前こそ……こんな時間に何をしている?」
「俺……? 俺はその……自主練だよ。俺、サッカー部なんだ」
翔一の答えに強面は顔をしかめる。
「自主練? ……馬鹿じゃないのか、こんな時間に」
その言葉に、翔一のポーカーフェイスは崩れ、一転してむすっとした仏頂面に。
「お前に言われたくねぇ! ちっ……アホくさ……。もういい……俺は練習を続ける。お前なんか知るか」
再び校庭の方に戻ろうとする翔一を強面が呼び止めた。
「ま、待てよ! お前、名前は?」
翔一は歩みを止め、強面の方に向き直って言った。
「……人に名を尋ねる時は、自分から名乗りやがれ!」
すると、強面は一瞬、ぽかんと口を開け、すぐに首を振って言った。
「そ、それもそうか。俺は春日崎晴人。お前は?」
「……秋川翔一」
「秋川、か。……よし! 俺もお前の練習に付き合ってやる!」
春日崎はぐっと拳を突き上げそう言った。
しかし、別に練習に付き合ってもらう必要はない。それに、はっきり言ってお荷物だった。
「何だそれ。いいよ、俺は一人でやるから」
しかし、春日崎も負けじと言う。
「うるせぇ! 俺にもやらせろ!」
翔一は、ふっ、と笑ってしまった。どうしてかはわからない。何でかわからないけど、笑ってしまったのである。
「フッ……だからいいってば。……お前、面白い奴だな」
春日崎は翔一の言葉に目を丸くする。
「俺が、面白い、だと? 俺からすれば、お前も相当変わってるぞ」
「はぁ!? 俺のどこが変わってるてんだよ!?」
「それだよ、それ」
春日崎は翔一を指さしてそう言う。
だが、翔一には春日崎の言った意味がわからなかった。
「俺とまともに話してくれる奴なんかいなかった……」
急に低くなった声に翔一は少し驚く。
「俺、見た目がこんなだろ? だから、話しかけようと思っても皆、俺を避けていくんだ。話しかけてくるのは、喧嘩をふっかけてくる不良や嫌味な先公くらい。俺に怒鳴るような奴はお前が初めてだよ」
確かに彼の言う通り、翔一も最初春日崎を不良だと思った。だが、今は違う。少し話しただけでもわかる。こいつは悪い奴なんかじゃあない。
「……気が変わった。お前ちょっと付き合え」
「え?」
翔一は春日崎に向けて強烈なパスを放つ。当然、春日崎はパスを受けられるはずもなく、ボールは遠くに飛んで行った。
「い、いきなり蹴るんじゃねぇよ!」
「……練習付き合ってくれるんだろ?」
翔一の顔にはいたずら小僧のような笑みが浮かぶ。
舌打ちしつつ、春日崎はボールを取りに走る。
それから小一時間、二人の練習は続いた。サッカーなんてほとんどやったこともない春日崎には翔一のパスはとうとう一回も取れなかった。けれども練習が終わり、疲れて校庭にどさりと倒れ、息をぜえぜえ言わせている二人の顔には笑顔があった。
練習を終えた翔一と春日崎は互いの家が意外と近くにあったということもあって、一緒に帰ることにした。
二人は帰り道、いろんなことについて話し合った。春日崎は、その外見のせいでよく喧嘩を仕掛けられ、その相手を返り討ちにしてしまうがためにヤンキーとして恐れられていた。そのせいで、最近家でも、親とギクシャクしていて、今日は家を飛び出してきたのだという。
しかし、こうして話してみると、実際はちょっとシャイな普通のいい奴だ。翔一は話をしながらそう思う。
一方、春日崎は、翔一と話していて、自分と同い年なのにもかかわらず、夢や目標を持ち、日々努力を続ける翔一の姿勢に感嘆していた。そして、自分もそういったものを持ちたいと思っていた。自分の目の前にある現実を変えるために。
やがて、分かれ道が見えてきた。
「……じゃあな、……翔一」
「フッ……またな、晴人」
そうして二人はそれぞれの道を歩き始めた。すっかり暗くなってしまった空にはたくさんの星が瞬いていた。
* * *
翔一はそんなことを思い出して、ため息を一つ。そして、校庭へ向かって歩き出す。晴人はもう練習に付き合ってはくれないだろう、と思いながら。
――タイムリミットが刻々と近づいていた。
校庭ではすでに練習が始まっていた。後輩に挨拶され、翔一はぶっきらぼうに「おう」と答えながら、練習用の服装に着替え、準備体操を始めた。
ちょうどそのころ、部活の顧問の先生がやって来た。ずんぐりむっくりとした初老の男で、背丈は小さい。しかし、その表情は厳しい。部員たちは皆整列して顧問の先生を迎える。
「……わかっているとは思うが、今年は地区大会優勝が目標だ。地区予選は今週の日曜日から始まる。もっと気合い入れて練習しろ!」
顧問の先生の喝が校庭に響く。そして、皆散り散りになって各々練習を始めた。
翔一もボールを持ってポンポン蹴り上げ、リフティングを始める。これは翔一の日課で、毎日少なくとも五百回はやっていた。そんな練習の甲斐あって、翔一はリフティングがずばぬけて得意だった。
近くで練習していた後輩たちは、いつしか翔一の技に見とれてしまっていた。
頭上に蹴り上げたボールを左足の裏で受け止め、右にステップ。そのまま蹴り上げ左足を前に出して落下してきたボールをキャッチする。《エクリプス》という、超難度のリフティング技である。翔一はそれをやすやすと決めて見せた。U─15日本代表エースはリフティング一つとってもやはり他の部員とは一線を画す動きだった。
ところが、ボールをキャッチして地面に着地した時、またあの鋭い痛みが膝に走った。以前よりも強い痛みで、普段はポーカーフェイスの翔一も顔をしかめた。
それに気づいた部員の一人が心配そうに声をかける。
「お、おい……秋川、大丈夫か?」
「いや……大丈夫だ。何でもない」
痛みはすぐに消え去り、翔一はいつもの仏頂面を取り戻す。少し不安に思ったが、皆また自分の練習を始めた。
やがて、ホイッスルの高らかな音がグラウンドに響き渡る。
顧問の先生の集合の一声で部員たちが整列する。
「今から練習試合を始める!」
その時、翔一の膝は再び痛み始めていた。練習試合に参加できなくもないが、ここで無理をしてもしょうがない。翔一は挙手し、膝の痛みを顧問の先生に訴えた。
「先生。今日は少し膝の調子が悪いので、練習試合は見学させてもらえませんか?」
しかし、顧問は翔一の要望を聞き入れなかった。
「膝の痛み? お前たち中学生にはありがちなただの成長痛だ。放っておけば治るから大丈夫だ。それより、秋川、お前が抜けてしまっては部全体の士気に関わる。ここは参加してもらうぞ。日本代表の10番だろ。皆にお前の実力を見せてみろ」
膝は少し痛むものの、先ほどのような鋭い痛みではない。何とかなるだろう。翔一はそう思い、顧問の言葉に承諾した。
「……はい」
顧問はそれを聞いて両手をパンと叩く。
「よし! さっさと始めるぞ。赤チームと青チームに分かれて試合開始だ」
それぞれ赤と青のビブスを着て配置につく。
試合開始を告げるホイッスルと共にキックオフ。練習試合は始まった。
翔一のいる赤チームは先攻。ボールはすぐに翔一に回り、相手ゴールへと突き進む。「行かせない!」とディフェンダーが立ちはだかるも、翔一は体を回転させ、ボールをするりと移動させて、風のように相手を抜き去る。抜かれた相手は唖然と口を開くばかり。それほど、翔一のドリブル技術は卓越していた。
「い、今のは……ジダンのインサイドルーレット。まさか……」
翔一のドリブルに目を奪われていたのは顧問もだった。
鮮やかなドリブルでディフェンダーをかわした翔一の前にはゴールキーパーただ一人を残すのみ。青チーム最後の砦としてキーパーは翔一の前に立ちはだかった。
ボールはすでにペナルティエリアの中。
手を使っても良いキーパーは前に出てボールを奪い取ろうとする。
だが、その動きを翔一は読んでいた。キーパーがボールを奪おうと飛び出す寸前に、翔一はループシュートを放っていた。きれいな弧を描いたボールはやがて、ふわりとゴールネットにその身を収める。見るも鮮やかなシュートであった。
シュートを決めた瞬間、翔一の膝には刺すような痛みが走ったが、ゴールの興奮がそれをかき消した。赤チームの面々が翔一のもとに集まり、ゴールをたたえた。やっぱりすげぇよ、お前は! 日本代表は次元が違うぜぇ、などと言って。
その後も試合は、赤チームが一方的な展開で進む。青チームが攻めようと思っても、翔一が雷光のごときスピードで接近し、ボールを奪い去ってしまうため、シュートのチャンスが作れない。仕方なしに遠くからロングシュートをダメもとで放ってみても、入るはずもない。
結果は4─0で、赤チームの圧勝。うち3点は翔一が決めた。
試合終了後、顧問の説教も終わると、今日の部活はもう終わり。皆、帰り支度を始めた。翔一もスパイクを脱ごうと思ってしゃがみこむ。しゃがみこんだ拍子に自分の膝小僧が見えた。膝は少し痛むものの、特に外見に変化はなかった。
一日寝れば治るだろう。翔一は安易にそう考えていた。――安易に、軽く考えていた。
帰り支度を整え、校門をくぐると金髪ボウズ頭の地獄から蘇った鬼神、ではなく晴人が立っていた。
「……よう。練習、ご苦労だな翔一」
「……いや、別に。それより、さっきは言い過ぎた。ゴメン」
ぺこりと頭を下げた翔一を指さし、晴人は大声で笑い始めた。それを見て翔一はむっとする。
「て、てめぇ! 何がおかしい!」
「あーっはっは……ふー、いや悪ぃ。お前が素直に謝るなんて、雨でも降るのかと思ってさ」
「はぁ!? もういい。俺帰る。じゃあな、バカ」
「ま、待てって」
帰ろうとする翔一の肩を晴人が捕まえた。
「練習終わったんだろ? だったら、ちょっと遊びに行こうぜ」
何だか翔一は不自然だった。晴人は普段自分をこんなにも遊びに誘ったりはしない。なのに、今日はちょっと執拗すぎるような気がする。
「何でそんなに俺を誘うんだ? 行きたかったら一人で行けばいい。俺は試合も控えてるし、今は大事な時期なんだ」
「だからだよ。たまには息抜きも必要だろ。……今朝ちょっと嫌な夢見てさ。真っ白な場所にカーテンとベッドが置いてあって、ベッドの上にはサッカーボールと翔一、お前がいるんだ。お前はベッドで寝ていた。だが突然寝ているお前に何かとんでもなく恐ろしいものが取りついて……ベッドの上のサッカーボールが弾けて……消えた。そんな夢。何だかよくわからねえけど不気味でさ。お前の練習は毎日ベリーハードだしよ、俺が見た夢がどうとかじゃないけど、パンクしねえか心配になった。」
翔一は晴人の話を聞いて腹を抱えて笑い出した。夢だって? そんなもの、当てにしてなんになるっていうんだ。……馬鹿げてる。
「……お前も意外と乙女チックなところあるんだな。安心しろ俺は大丈夫だ。日本代表のエースだぜ? 心配すんなって」
そう言って翔一は家への道を再び歩き出す。晴人にはその背を掴むことはできなかった。
* * *
翔一が家に帰ると、家族が食卓を囲んでいた。料理にはまだ手が付けられていない。どうやら、翔一の帰りを待っていてくれたらしい。
さっさと手を洗って、翔一も自分の定位置に座る。
いただきますの挨拶をして、秋川家の夕食が始まった。
きつい練習のせいでお腹もぺっこぺこ。
弟の譲はがつがつとご飯を食べる翔一を見て、唖然としていた。よくこんな勢いで食べられるなぁ、と。のどに詰まったりしないのだろうか? 激流のような勢いでご飯を食べる兄は弟の目からは何だか違う人種みたいだった。自分はゆっくりもそもそと、ご飯を食べている。
翔一はあっという間に夕食を終えてしまい、夜の自主練に出て行こうとする。 その時、譲は翔一の袖を掴んで言った。
「待てよ兄ちゃん。俺にも……サッカー教えてよ」
譲は自分でもどうしてそう言ったのかわからない。珍しいことを言い出した弟に対して、翔一は、少し驚きつつ、
「……ま、いいよ。だったらさっさと飯食え」
譲はがつがつと、ご飯をほとんど呑み込むようにして食べ終えると、ジャージに着替えて翔一の前へとやって来た。
二人は家の近くの公園へと向かった。
普段は運動なんて大嫌いな譲が翔一と一緒にサッカーだなんて、何かあったのか、と両親は心配そうな視線を向け二人を見送った。
公園につくと、翔一はふと譲に聞いた。
「お前、どういう風の吹き回しだ? 運動なんてちっともしないお前が」
譲は笑って答える。
「別に。ただ、久しぶりにサッカーしてみたくなっただけ」
小さいころ――といっても幼稚園のころだが、二人はよく一緒にサッカーをしていた。そのころは近所でも有名なサッカー兄弟だった。
だが、譲は次第に翔一とサッカーをしなくなっていった。大きくなるにつれ、兄との実力の差を自覚してしまったからだ。自分はせいぜい普通の奴程度。だけど、兄は違う。兄のサッカーセンスはプロ顔負け、世界でもトップレベルだ。少なくとも譲はそう信じていた。
そんな兄の練習に、もはや譲はついていくことができなくなったのだ。
そうして、翔一がひたすらにサッカーを続ける中、譲はすっかりインドア少年になり、マンガやゲームをして毎日を過ごすようになった。
そんな弟が、今日久しぶりに、とても長い時間を経て、サッカーをしたいと言った。翔一は胸にこみ上げてくるような嬉しさを感じていた。
譲も、久しぶりのサッカーが楽しみだった。あのころとはもう違う。今や兄は日本代表のスーパープレーヤー。そもそも自分とは次元が違う。けれども、胸の高まりは止められなかった。公園まで、ボールを手で持たず、足で蹴りながらやって来たのもそのためだ。
「いくよ、兄ちゃん!」
「おう!」
譲は翔一に向けてボールを蹴り飛ばす。飛んできたボールをキャッチし、翔一はそれを譲の方に蹴り戻す。そんな、キャッチボールのようなパスワークが続く。
やがて、単調なパスワークに飽きてきた二人は、ワンオンワンを始める。
「……やるか」
「よし!」
ボールを持つのは譲。翔一を抜けるかどうか一騎打ちだ。
ダッ、と譲は前方にダッシュ。翔一は隙のない動きで譲を迎え撃つ。右でも左でもなく、譲は翔一の頭上にボールを蹴りあげた。
しかし、譲の動きを呼んでいた翔一は地面を蹴って、空中に浮いたボールを左足で蹴り飛ばし、公園のわきの方にある電柱に命中させた。
誇らしげな顔で翔一はつぶやく。
「……昔からボールを宙に上げて、相手を抜こうとするのはお前の癖なんだよ、譲」
抜けなかったのはくやしいが、それでもやっぱり翔一は、兄はすごい。譲は笑って鼻の下を人差し指でこすり、へへ、と笑って見せる。
「……兄ちゃんはすごいよ。これなら、今度の試合だって大丈夫さ。俺、応援に行くからな!」
譲の言葉に、翔一の仏頂面もわずかに笑う。
しかし、その時突然、すさまじい痛みが翔一の膝を中心に足全体を駆け巡る。
それは立っていられないほどの痛みで、翔一はその場に崩れ落ちた。
突然の兄の変容に、譲は激しく動揺する。
「お、おい兄ちゃん!? 急にどうしたんだよ!?」
翔一は額に汗を浮かべ、苦しそうな表情を見せる。息も絶え絶えに、
「膝が……ぐぁぁ!」
再び、猛烈な痛みが雷光のごとく体中を駆け巡った。
「兄ちゃん!? 兄ちゃん!? おいってば! 兄ちゃーん!」
翔一の視界はだんだんと狭まっていき、薄ぼんやりとなっていく。じわじわと黒い領域が広がり、そしてやがて、真っ暗になった。最後に感じたのは、弟が自分を呼ぶ声だけだった。
* * *
目を開けると、目の前には知らない天井があった。
足の方からじわじわゆっくりと痛みが這い上がってくる。
ぷーんと、薬っぽい独特のにおいが漂ってきた。両脇には白い柵が備え付けられている。
ここは、たぶん……病院。翔一は病院のベッドの上で横たわっていた。病室には翔一しかいない。どうやら個室のようだ。
痛みを堪えつつ、体を起こそうとした時、ドアがガラガラと開いた。
「良かった……目を覚ましたのね」
入って来たのは両親。
「俺は……気絶したのか……?」
「ええ、そうよ。びっくりしたわよ、譲が急にあなたを担ぎこんで家に帰ってきて。それから救急車を呼んで……」
そうだ……。譲は? あいつはどうしたんだろう?
「譲は? どこいったんだよ?」
「譲は……ちょっと外に出てるわ」
母の声のトーンが少し重い。
父は、翔一の足に視線を向け、静かな声で言った。
「翔一、お前何で言わなかった……」
「……何が?」
父の顔が強張る。
「誤魔化すな。膝の話だ」
「膝……? 別に……そんな気にするほどじゃねぇよ。ただ、今日急にすげぇ痛くなって……それで……」
「嘘をついてもいいこと無いよ。翔一くん」
カツカツと足音を立てて病室に入って来たのは、白衣の男。おそらく、翔一の担当医だ。
「嘘……? 俺は別に嘘なんか……」
医者の目が細く、そしてきつくなった。
「君はいつも通常をはるかに超えたオーバーワークをしていた……そうだね?」
確かに、自分は他の部員たちと比べて、練習量は多い。反論できない翔一は首を縦に動かす。
「失礼だが、君の膝のレントゲン写真を撮らせてもらった。少々酷な話ですが……ご両親もどうか」
父も母も、神妙な顔つきで近くにあった簡素なパイプ椅子に座る。
「君の膝は今……かなり深刻な状況なんだよ」
「え……?」
父と母の顔もいよいよ険しくなる。
部屋の空気はますます重苦しくべっとりとしたものへと変容していく。まるでここだけ重力の強さが違うみたいだ。
「レントゲン写真を見てみると、翔一くんの膝の骨はひどく出っ張っていた。だから、膝を動かす時、例えばジャンプしたりボールを蹴ったりする時、激痛が君を襲ったはずだ」
思い返してみると、あの凄まじい痛みに襲われたのは、医者の言うように、ジャンプなどで膝を使った時――屈伸運動を行った時だった。
「……翔一くん。君にはしばらく入院してもらう」
入院。その言葉に、父も母も、そして自分も動揺を隠せない。
「入院? どうして、俺が入院なんてしなくちゃならないんだよ!?」
医者は翔一を見て嘆息する。
「翔一くん。きみは……膝に怪我を負っている。それも……極めて重篤な、ね。ここまでひどい状態は私も初めてだ。……今治療しなければ、日常生活にも支障をきたしてしまうかもしれない」
「そ、そんな……翔一はそんなにひどい状態なんですか!?」
母親の顔が蒼白になる。父も握った拳をワナワナと震わせている。だが、翔一は違った。翔一は虚空を見つめて笑っていた。
「はは……そんなの、嘘だ……。だって、アジア予選はもうすぐだぜ? それに……俺はU─15日本代表なんだ。……こんなところでウジウジしてる場合じゃないんだよっ!」
医者はまったく表情を変えない。能面のような感情が感じられない顔で翔一をまっすぐに見つめている。
「……残念だが、これは事実だ。君の膝は今や、歩くだけで激痛を発するほどにボロボロだ。……医者として言っておく。症状が回復に向かうまでは運動は厳禁。サッカーなんてもってのほかだよ」
「先生……入院ってどのくらいなんでしょう……? 翔一は……息子は、またサッカーができるようになるんでしょ?」
母親が悲痛な声で医者に問いかける。
「彼の場合、剥離骨折を引き起こし、靭帯まで影響が及んでいます。手術が必要ですし、長くて半年。少なくとも三か月の入院が必要です。私自身、ここまで重篤に進行している事例は聞いたことがありません。ですから……またサッカーのような激しい運動ができるようになるとは……現時点では断定できません。……失礼します」
それだけ言うと、医者は白衣を翻し、病室を出ていった。
母親のすすり泣く声が病室に響く。
――三か月だと? そんなに入院してたら、予選なんてとっくに終わってしまう。それに、自分はもうサッカーができないかもしれないだって……。嘘だ。そんなの嘘だ。そうだ……これは夢なんだ。最近疲れてたから、きっとたちの悪い夢を見ているんだ。起きたら、雀がチュンチュン鳴いていて、カバンを肩にかけて、またいつものように朝練に出掛けて行くんだ。そう。絶対そうだ。そうに決まってる。もし、そうじゃなかったら――。
翔一は膝を抱え、顔を膝の中に埋めるようにして目を閉じた。
気づくと雨音が聞こえてくる。ザーザーとまるで壊れた機械が発するノイズ音のように、雨音は翔一の耳に流れ込む。
雨脚は徐々に強まっていく。
その日、雨が止むことは無かった。
* * *
結局、翔一は入院することになった。
入院中、翔一は一度も笑うことは無かった。ただの一度も。
生気のない、何かが欠落している不完全な表情で、ずっと、窓の外を見つめる。鳶色の瞳は輝きを失い、濁った灰色のようだった。翔一は生ける屍と化していた。
彼の心は、青々とした芝生が生えそろうサッカーフィールドで白球を追っていた。時折、晴人が見舞いにやって来ても、何の反応も示さない。ああ、と曖昧な返事をするだけだ。晴人も、かける言葉が見つからず、病室を後にする。それは翔一の家族も同じだった。何を話そうとも翔一の心には届かない。
手術は成功だった。医者の言うように、翔一の膝はかなり深刻な状態であったため、大手術になったらしい。術後、膝の痛みも徐々に退いていき、リハビリ後のトレーニングを翔一は淡々とこなした。
翔一は三カ月で退院した。まだ、歩く時に若干の痛みがあったものの、日常生活に特に支障はない。医者や両親は心底ほっとしていたようだ。ああ、よかった。歩けるようになって良かった、と。
だが、翔一は喜ぶことができなかった。怪我が治った代償として、翔一にとって、とても大切なものを失ったからだ。
現実は時に人の心を抉り、引き裂き、そしてバラバラに粉砕してしまう。そこにはもはや光と呼べるものが届くことはなく、暗黒とも呼べる何かが、その影をじわじわとにじり寄るかのように大きくしていくだけだ。
――U─15アジア予選は日本代表の負けで終わった。
試合に出れなかったことで、翔一は日本代表から降板。怪我の影響は大きく、有名チームからのスカウトも無かったことになった。退院後、学校へ行っても、サッカー部へ行くことは無かった。サッカーなんか、もうどうでもよくなったのだ。
そうして空いた時間に、翔一は雲の流れをぼんやりと見るようになった。何をするでもなく、ただぼんやりと屍のように。翔一の心は曇っていた。分厚い鼠雲がどこまでも広がっていたのである。家に帰り、自分の部屋の布団に横たわると、どうしてだろう、涙が溢れてきた。そして、嗚咽のこもった声でむせび泣いた。
* * *
「――というわけだ」
「…………」
「……そんなことって……」
晴人の話を聞いた光と冬島は、何と言ってよいかわからず沈黙する。
翔一は元日本代表のサッカープレーヤー。なのに、突然の怪我で、試合に出ることができなくなり、代表降板。それをきっかけにサッカーも嫌いになってしまった。
そんな翔一に、光は「サッカー部に入れば?」言ったのだ。翔一がどんな思いを胸に抱いたか、想像に難くない。光はそのことを深く悔やんでいた。
晴人も、それ以上何も言うことはできない。
三人はその場に立ちすさび、押し黙る。
……と、不意に光が手に持っていたカバンを落として、沈黙が途切れた。
ワナワナと震えだした光はすぅーっと、息を大きく吸い込んだ。そして、突如、二人が耳鳴りを起こすほどの雄たけびを上げた。
「ばっかやろぉ~!!」
雄叫びを上げた光は、驚いている晴人と冬島を余所に、駆け出した。
翔ちゃんのバカ……。何でもっと早く私に言ってくれなかったんだ。私があいつに会ったところであいつの心の痛みを取り去ることできない。だけど。だけど、あいつを、翔ちゃんをこのまま放っておくなんて私にはできない!
光は、赤い髪を月夜になびかせ、足を加速させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます