転換
翌日。
僕の身体は少し懐かしい振動に揺られていた。
スライドする景色、せわしなく駆け抜ける日光。
バス停で立ち止まっていた時の沈黙の残り香が、無気質な駆動音のリズムを徐々に加速させていく。
幾つもの停車を経て、座席の穴は段々と埋まっていくのに。
僕はずっと、窓の外を見ていた。
硝子に反射したりして自分が着ているのと同じの色がちらつく度に、何やってんだ俺って気持ちになる。
でも、もう戻れない。戻る事はできない。俄かに感じた自らの浅はかさと愚かさを、そのまま僕βにぶつけてやりたい気持ちになる。
そうだ。そもそもアイツが僕の事を不安にさせたからこんな事になったのだ。何だよ、自分の身体が自分だけじゃないって、解ってるクセして。僕には知る権利があったはずなのだ。真っ向からそれを問い質さなかった僕αもそりゃまあどうかとは思うが。でも本当に僕は何も知らないのだから、僕βの面下げてこのバスに乗るべきでは無かった。まさかとは思うが、僕αの知らない誰かから話しかけられた時、どうすればいい?どう返事を返せばいいの?トラディショナル・スタイルな第一パターンは『こんにちは』と来て『こんにちは』。『おっす』と軽めに来れば『よう』とか。変則的な『こんばんは』とか来れば『おいおい、今は朝だってー』とかか?ちょっとおい、それってどんだけレベルの高い事を朝から要求してきやがってんだ。最初の一言目といったら五文字が限界じゃないの、普通。……『いま、あさ』……で通じる物だろうか?すげーそっけなくない?そうだ、だいいち僕αはどんなテンションで言葉を発せばいいんだ?僕βの普段のテンションなんて一切信用できない。アイツ、そこんところはあんまり変化無いわけだし。
とどのつまり、僕αは僕βに初めて嘘をついた。彼はうまく今日が祝日だと思い込んだみたいで、八時20分を回ってもまだ眠りについていた。僕は僕が二つに分かれてから、初めて学校に行った。靴箱の泥落としの色が変わっていて、それにその時気付かなかった僕はなんだか全然覚えてないなあってかなり不安になる。クラスが変わっている事は意識していたが、それでも自分の靴を入れる所を探すのにかなり時間を食って、もたついている間にそいつは話しかけてきたのだ。
「おうっ」
「お…おう」
男子。全く見覚えが無い顔。
だがなんとなく返せれたので良かった……と思った瞬間だった。
「昨日俺が言ってた奴見てくれた?」
「えっ」
想外この上無かった。平静を装っていたはずなのに、つい声を漏らしてしまったのだ。
しかも最初の一言で考えすぎないでいりゃ普通に予測できたじゃん、な事柄だっただけに、不意を突かれた様な声を抑えずにはいられなかった。
言うに事欠いて『昨日言ってた奴』とは何だ。映像か音楽かどうかすら絞れていないじゃないか。僕βが昨日何を見ていたかなんて覚えていない。ノートパソコンへ向かっている時はイヤホン着用でこちらに画面見せず、読んでる本の話なんてしないし、布団に寝転がった時にゲームをしていたのかどうかすら覚えていないけれど、「顔面に落ちてくるぞ」と僕αが余計な口出しをした事は覚えている。
「ああ、面白かったよ」とりあえず、が頭につきそうな無難な返事。
「だよなー、特に後半ぐわって一気に落ちる所が最高だよな」
「落ち……そうだね、こっからこうだもんね、なだれ込みって感じでさ」
「でも真ん中辺りは結構静かなんだよね、最後で畳みかける感じね」
「……そうね、退屈と言えば退屈だけど、最後のぐわっでもう一気に持ってかれちゃうよね」
「あんなシーンにも伏線があったのかーって感じだよな、もう一気に回収していっちゃうもん」
「!――それねー、まさか、主人公のアレが、ああくるかって感じでさ」
「え?なんだったっけそれ」
「――いや、アレだよ、主人公の……上半身の……」
「ああ、マッスル貯金箱ね!確かに俺もアレが後半のあそこでああくるかーって感じだったわ」
「!?……、そうそう、あそこで重要なアイテム出さないでってのがクールだよね」
「そうだよねー、でも言うてあの境地を打開するアイテムって他にあったか?」
「えー……と、アレだよ、主人公の腰の奴を……ズギャーンって……」
「ああ、キングダムバタールね!でも食べ物を粗末にするのは奴のポリシーに反してるっつーかなー」
「!!??……」
もう取り返しのつかない状況にまで話が進行している気がしたので、沈黙。
すると目の前の彼は突然笑い出した。
「?」
「ははは、今日のお前は鬼気迫ってるって感じだったな」
「えっ……」
「またやろうぜ、『存在してない映画を存在してるっぽく語る』遊び!じゃーな!」
「……」
一人取り残された靴箱で立ち尽くしている内に、向こうの方の靴箱の方で再び誰かの気配を感じた。また話しかけられる前に心を落ち着けなければならないと判断した僕は靴箱の影でスパイみたいに息を潜めて、その人影が遠ざかるのを待っていた。目の隅で、その影を捉えた。女子生徒――僕は、その人影に見覚えがあった。幼馴染であるその女子は歩くのが早く、僕の考えが180度転換し話しかけなくてはと思った瞬間にはもう見えない廊下を歩いていた。彼女と話さなくなったのは、いつからだったか。分からないが、僕βがもし彼女と話しているとしたら……僕はこんな事をしている場合では、という気持ちで歩き始めた。
まだ高く昇っていない日に目を向けると、硝子の外の校舎の向こうの高い山は絵本で見た様な色に包まれていて、可笑しいなと思う程の余裕は無いはずなのに、僕は素直にそう思った。
バスの到着時間の関係で早く学校に着いた今の時刻はまだ8時前。人は少ないと多いの中間くらい。だが彼女を追って廊下を歩き始めた所で、僕はすぐに教室の方から自分の名前を呼ばれた。短髪の男子。
「おう、○○!おはよー!」
「お、おはよー……」
「なあ、アレやってよ!」
「えっ」
予想外この上……以下略。
言うに事欠いて『アレやってよ』とは何事だ。物真似か?一発ギャグか?どちらにしろ今の僕に出来る事では無いだろうが。ああ、僕βよ。これはあなたの鉄槌なのでありましょうか。どうか私の罪をお許し下さい。何かの弾みでテレパシー能力なんかが発動して、僕βが僕αのヘルプを受け取ってはくれないだろうか、などと思う始末。手を伸ばす僕αを他所に、段々僕βの顔が斜め右上へと遠ざかっていく映像を脳内で見る。同じ顔だけど。
「ごめん、今日そういうテンションじゃないから……じゃっ」
「おっ……じゃあなー」
強引にその場から離脱。今僕が歩いている先の突き当りにある曲がり角を目指す。次に何か話掛けられても、無視するような勢いで。確かあの曲がり角の先は……本校舎への渡り廊下が……
「よう、○○!」
「あ、○○だ、おはよー」
「○○ー、アレやってよ」
「○○、一局付き合ってくれるか?今日こそ貴様に勝つ!」
「○○、アレの進化系編み出したって訊いたけどマジか?」
「○○、アレ勝負に付き合ってくれるか?貴様の進化したアレよりも進化させた俺アレで貴様に勝つ!」
「○○アレ○○アレ勝負○○アレ○○アレ○○アレ勝負アレ
大幅に省略。何とか渡り廊下の手摺の影に逃げ込んだ僕は、肩で息をしていた。僕βの奴、完全に人気者じゃないか。冗談じゃない。この勢いで行くと下校時どころか昼休み時になれば確実に死んでしまう。やむを得ず僕は朝礼の始まっていない今の内に休みだったという事にして自宅に戻る道を選択した。今の時間家には、僕βしかいないだろうし。
手摺を乗り越えて隠れた先は当然土の上で、僕はスリッパのまま外に出てしまっている事に気付く。考えてみると渡り廊下と校舎との継ぎ目に当たるここは他の教室とかからも見えにくいスポットで、こんな非常事態でなくてもここに座り込んで昼ご飯とか食ってたな、という事を今更になって思い出す。校舎を背に、見える景色は下町の前景。……
コンクリートとコンクリートの隙間に、咲く花を見つけた。ベタにも程があるが、僕はその花を見て、不思議な衝動に駆られてしまったみたいで何故か動けなくなったのだ。そう、僕はこれを知っている。でも忘れている。否、本当に知っているのか?デジャヴという言葉がある。そうでなくとも身体が分裂という超現象が、僕の身体自体に全く影響を与えていないだなんて、どうして今まで考えもしなかったのだろうってくらい。突拍子も無い事だけれど。「おう、珍しいね」
僕はもう適当に反応しとこうと思って振り返った瞬間、本当に驚いて何も言えなくなってしまったのだ。幼馴染のその子の声すら思い出せない程に僕は彼女と言葉を交わしていなかったのか、という事を思い知らされた。既に思考の世界へと泳ぎ始めていた僕の脳みそは、方向を転換させなくてはいけなかった。僕にはすぐにそれをやる能力が欠如していたし、突然の彼女の襲来にすっかり硬直してしまっていたのだ。
「どしたの、最近元気してたみたいだったのに」
「いや……」
「うわーい、もうホームルーム始まっちまうぜー」
手摺ごしに僕を覗き込んでいた彼女は、何も言い返さない僕に溜息をついてから、手摺を飛び越えてきた。僕は思いのほかぐいぐい干渉してくる彼女に驚きをうまく隠せないと判断し、押し黙っていた。
「なあに、本当に不愛想」
彼女は嘲るように言うと、ふざける様に笑って見せた。そしてまた、溜息。
「最近は何だか楽しそうだよね」
「楽しそう?」
僕が疑問めいた口調で言うのを怪訝に思ったのか、彼女は急に真面目な表情をして、こっちを向いてみせた。
「楽しくない?」
「え?いや……楽しいよ」
「貴方まさか、つまらない処世術でも覚えたんじゃないでしょうね」
何の話をしているんだろう。分かる様で、分からない感じ。でも本当にぐいぐい突っ込んでくるので、やはり僕βとも何度か話しているのだろう、と思う。そう思うと、なんだか……
「なんかさあ、最近寂しいんだよね」
寂しいって言うのだろうか。
「ずっと落ち込んでたと思ってたのにさ、急に立ち直っちゃって、急にずうっと離れていっちゃいだしてさ」
そう、そんな感じ。大切な物を奪われた感覚すら有る。
でも、本当に何の話をしているのだろうか?
「まあ、幸せそうだったらそれでいいんだよね」
「うん、幸せだよ」
「ほら、嘘ついたね」
「え?」
フッと息をつく彼女。今度は溜息ではない。きっと吹き出したのだ。
「冗談……でも、気が動転している。やっぱり嘘をついておったな、お主」
「なんで」
「やっぱり、時々は相手してやらないと駄目みたいだね」
長い間座り込んでいると、急に眠たくなってきた。僕の目線はずっと彼女の肩あたりにあったが、首ごと下方に移動させると、コンクリートに挟まれた一弁の花が、再び。
「成長したね」
「え、誰が?」
「その花」
そう、忘れていたのだけれど、何かあったっけ。そんな事を訊こうとした時に僕は思い出した。
「高校に入りたての頃は、ここでパンとか食ってた」
「私達の中学から来てんの、そんな居なかったからね」
「なんで話さなくなってたんだっけ」
「なんか別のコミュニティとかできてくるとさ、もうあんまり関わんない方がいいのかなってなるじゃん。お互い様だよね」
「今は話してるのにね」
沈黙。
9秒経過。早く何か言わなければと思う。
「これ、そんな大きくなった?」指も目線すら何も動かさず、僕は言う。
「花?うん」
「ああ、そういや茎の部分とか茶色っぽくなってる気がする」
「いつの間にか変わってるものよね」
「そうだね」
「ゆったりな速度でも」
「……」
「気が付かない内にでも」
「何の話?」
「貴方って変わったよね、本当に」
「それは……」
昨日まで君が話していた僕と、今の僕は全然違うだろうからね。
僕はそう続けようと思った。でもそんな事を言ってどういう事?って首を傾げられるだけだろう。なので……
またも沈黙を繰り返したのだ。
「どうだった?」
家に帰って僕βに訊かれた時は少しだけれど驚いた。実の所怒っているかもしれない、なんて考えていたのだ。僕αは僕βに黙って彼の時間を奪ってしまったのだから。
「まあ、実の所悪かったなあって思ってたんだよね、だから明日からはお前が学校に……」
「ちょっと待てよ、それじゃあお前は」
僕βの言葉に、僕αはようやく自分がしてしまった事の重大さを理解した。僕が学校に行きたいという意志を示した以上、本当にどちらが本当の僕として社会に出なければならないか、という事を決めなければならない。どちらかは僕では無い人間として生きなければならないのだ。交代交代で僕を成り立たせる事は出来ない。記憶が独立している以上、それは不可能な話であるのだ。
「俺はもういいよ、お前の方がうまくやっていけるって事はよくわかったからさ」
「俺だって、変なの。それ僕が他人に使う一人称じゃないか」そう言うと僕βは笑い出した。
「話をはぐらかすな!」
誰も帰ってきてないリビングの椅子を掴んでいた手に、少し力が籠った。
静寂。擦りガラスは真白く、外の世界なんて存在しないみたいに、音は無い。
「話しつかないね、この話題は重すぎる」
「そもそもどうしてこんな事に……」目を伏せる僕α。
「今度の土曜日、×××に行こう」
唐突に言い出す僕βに、僕αの視線は引き戻される。
彼が言ったのは、中学で引っ越してくる前に僕が居た生まれの地だった。
「なんで?」
「久しぶりに外に出ていたら、急に遠くまで行きたくなっちゃって、そのついでにさ。邪魔も入らないだろうし、そこでゆっくり話せばいい」
「……」
モノクロの部屋に同じ身体が二つ、立ち尽くしていた。
早く電気をつけなければ、と僕は何故か思った。
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