鍋の中

 ワン! キャン! ワン!


 窓からオレンジ色が差し込む。

 部屋の外から、犬の鳴き声が響いてきた。

 隣家の飼い犬の声だ。

 

 学校から帰宅後、最近、夜に眠れずにいた私は睡魔に襲われ昼寝を極めていたのだが、犬の鳴き声で目を覚まし、ゾンビのようにベッドから身体を起こした。

 それと同時に、私のスマホの着信が鳴り出した。


『今日も残業で遅くなる。母さんに伝えておいてくれ』

 

 私の父からだった。

 私も鈍感ではない。ある程度は察している。父は家族にばれていないと思っているのかもしれないが。

 おそらく父は不倫をしている。

 いい歳の父が、母以外の若い女と身を交えていることを想像しただけで、吐き気が湧いてきた。

 私は身体を預けるようにベッドに凭れた。そうすると再び瞼が重く沈み始めた。


 * * * * *


「ごはんよー」 


 目が覚め、気付いたとき窓の外は暗かった。一階から母の呼ぶ声がする。

 私は重い溜息をついた。スマホを持ったまま寝ていた腕は身体に挟まれ痺れていた。

 ワン! ワン!

 と、やかましい獣の叫びが響いている。


 台所のテーブルの上では、熱い湯気が立ち昇っていた。


「今夜は鍋よ」


 母はいつも通りの人懐こい笑みを向けてきた。それだけに私の中で父に対する憎しみが煮えたぎる。

 母は優しすぎる。父を甘やかしすぎている。

 定期的に『残業』が入る父。父は鼻が腐っているのか。『残業』が入った日、帰ってきた父は必ず身体に強い香水の匂いを纏っている。

 それにすら気付いていないのか。取り払う必要すら感じていないのか。

 いつも母に「お父さん今日残業らしいよ」と伝える私の気持ちを考えたことはないのか。

 いつも母は「そう。お父さん忙しいからしょうがないのよ。私たちを養うためなんだから」と返す。

 優しい笑みを浮かべて。

 だが私は鈍感ではない。

 母のその笑みが嘘だって知っている。母のその笑みはいつだって疲れている。

 また今日も母の疲れた笑みを見なければならないのか、と思いながらも、私は父の伝言を告げようと口を開いた。


「お母さん、あのねお父さんだけど、今日も……」


 そのとき、母は振り向き、私の言葉を掻き消すように告げた。


「そうだ。お父さんだけど、今夜から臨時で出張しなきゃいけなくなったらしいわ。だからしばらくはお母さんと二人きりね」

「……え?」 


 出張? 

 私は言葉が出なかった。

 あくまでも残業だとしか私は聞いてはいない。

 父は母にも連絡を伝えたのだろうか?

 いや、だとしたら私には『残業』、母には『出張』と告げるのはおかしい。

 それにいつも私経由で『残業』を伝える父が、母に直接連絡をするだろうか。


「鍋。早く食べちゃいましょう? おいしいわよ」


 優しく微笑んだ母の笑顔はいつも以上に澄んでいて、気持ち良さそうで、そして不気味だった。


「いただきます」


 そう言って母はテーブルにつき、手を合わせ、湯気をなびかせながら鍋をつつき始めた。

 私もぎこちない仕草でテーブルにつき、具を取っていく。

 そんなことをしながらも私の頭の中は、父のことで一杯だった。呆然としながら、箸を口に運ぼうとしたとき、


「いただきます、と言え!」


 母の怒号が響いた。

 私は驚いた。母のそんな声を聞くのは初めてだった。

 母の怒りの形相を見ながら、私は、


「い、いただきます……」


 と呟いた。


「私たちはね、命を頂いているのよ」


 母は頷き笑顔を浮かべて、再び食べ始めた。

 そんな母を恐ろしく思いつつ、私は肉を口へと運んだ。次の瞬間――


「おええっ!」


 私は、口に含んだ肉を吐き出してしまった。

 自分の息遣いが荒くなり、心臓の鼓動が早くなるのがわかった。

 母はそんな私を冷たい眼差しで睨みつけていた。

 私は母を涙目で見返した。


「はあ……はあ、お母さん……これ、なんの肉?」


 母は優しく微笑んだが、眼の奥は笑ってはいなかった。


「ちゃんと全部食べなさい」


 私が吐き出したその肉からは、香水の香りがした。


 * * * * *


「ごはんよー」


 目が覚め、気付いたとき窓の外は暗かった。

 一階から母の呼ぶ声がする。

 私は重い溜息をついた。スマホを持ったまま寝ていた腕は身体に挟まれ痺れていた。

 なんだか夢を見ていた気がする。

 恐ろしい夢だった、気がする。

 着ていた学校の制服が汗でびっしょりと濡れていた。


「お父さん今日残業らしいよ」


 私は母に告げた。


「そう。お父さん忙しいからしょうがないのよ。私たちを養うためなんだから」


 母は疲れた笑みを浮かべ、私に告げた。

 台所のテーブルの上では、熱い湯気が立ち昇っていた。


「今夜は鍋よ」


 母はそう告げた。



 深夜。

 一階から玄関の開く音がした。おそらく父が帰ってきたのだろう。

 私はベッドにつき静かに瞼を閉じた。

 そういえば今日の鍋の肉はなんだかいつもと違っていた気がする。牛でも豚でも、鶏でもなかった気がする。

 おそらく昼寝したときに変な夢を見てしまったせいだ。たぶん私の気のせいだろう。

 それにしても今夜はなんだか静かで、よく眠れそうだ。


 隣家の犬の鳴き声が聞こえない。


 end

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