chapter 3 前兆 -4

4  4月15日 前兆



「つかさあ、東高の女子と合コンの約束したんだよねー、五十嵐も来るっしょ?」


 山田秋彦ヤマダアキヒコが五十嵐に向かって意気揚々と話し始めた。

 もう既に授業は終わっており、A軍連中のたむろする教室後方は香水とお菓子のドギツく甘い匂いが蔓延していた。

 山田にチラッと目をやって五十嵐は鼻で笑う。


「は? 東高とかブスしかいねえじゃん。そんなとこの奴らとしか絡めねえから、お前はその程度なんだよカス」

「ははっ……そっかなあ」


 と作り笑いを浮かべる山田の表情には苛立ちと陰りが見えた。


「五十嵐言い過ぎだってー、アッキー可哀相じゃん」


 と、スマホをいじりながら興味なさげに仲居ミキが呟いた。

 そこへやってきた金城蓮カネシロレンがふいにミキのスマホを覗き見る。


「な~にやってんだよ、ミキ」


 画面には「山田アッキーはブスとあいあいがさ」という呟きが窺えた。

 金城を睨みつけ、ミキは慌ててスマホを隠す。


「勝手に人の画面覗くんじゃねーよ、くそ」

「おやおや、ごめーん、っと」


 そして金城は五十嵐の隣の机に置かれていた雑誌を払いのけ、その上に馴れ馴れしく座り、


「なあ五十嵐。今度ちょっと前にナンパした子たちとデート行くんだけど、行かね?」


 と、明るい笑顔を浮かべ声をかけた。

 五十嵐は金城を一瞥し、ふっと笑って、


「ヤレんなら行く。面倒臭くなったらドタキャンすっから」


 と、吐き捨てるように呟いた。


「おっけーおっけー」


「あ、……あのう……」


 そのとき、そんな彼らの前に人影が現れた。

 前の時限の教科書を震える手で持ち、A軍の前に立っている一人の生徒。髪はもっさりとして、深い眼鏡をつけ、挙動不審に五十嵐を見据える。C軍の平森隆寛ヒラモリタカヒロである。


「ああ? なに? お前」


 平森の姿を鋭く睨みつけ、五十嵐は威圧するように反応した。


「あ、あの……後ろの……ロ、ロッカー……」


 五十嵐たちは背後に並ぶ教科書などをしまって置けるロッカーを振り返り見た。

 そこには『平森隆寛』というネームプレートが飾られている。

 五十嵐がふんぞり返っているせいでロッカーへの道が閉ざされていたのである。

 まあ、つまりは平森が言いたいことはというと……


「……ああ~、いいぜ。通れよ」


 察したかのように五十嵐は道を空けた。


「あ、ありがとう……」


 平森が予想していたこととは正反対の対応に遭い、平森の表情は晴れ渡った。感謝を告げ、そのままロッカーへと歩き始めたのだが。

 次の瞬間、五十嵐は平森の歩みに向かって引っ掛けるように足を差し出した。そして、平森はそのまま勢い良く躓き、顔面から転倒した。


「ぷっ……はっはっはっはっはっはっは!」


 A軍の居地はそんな惨めなC軍青年への嘲笑の渦に囲まれた。

 そんな中心で独り平森は愕然として佇む。

 惨めで情けない恰好で。

 平森の口が切れて血が出ていた。


「転びやすそうだったからさー、つい足掛けちゃったぜ。でもさ、仕方ねえよな? お前みたいな気持ちわりい童貞風情が上流階級に逆らったんだからさ!」


 五十嵐は不適な笑みを浮かべ、平森の髪を掴み、そのまま立ち上がらせようとする。

 平森の頭部に激痛が走る。


「い……たっ……」


 五十嵐は多くの生徒たちが見ないフリをしている教室中に向かって、大声を挙げた。


「みなさーん、ちゅうもーく!」


 まるで『刑』の執行であるかのように。


「このド底辺階級C軍のカスが俺たちに向かって『邪魔だから退(ど)け』なんて口を利きましたー! 俺たちA軍はとても傷つきました~。だからこのカスには『罰』を与えたいと思いまーす!」



* * * * *



「ほら、まだだよ。もう一回だ」


 そして再び五十嵐は有無を言わさず、ゴミの浮く冷水の入ったバケツの中に平森の顔を突っ込む。


「はぁっ……やめっ……がっ!」


 ぶくぶくと平森はバケツの中で苦しそうに暴れる。

 手が痙攣し、辛さが滲み出ている。

 力強く後頭部を押さえつけられている平森はどうしようとも抵抗することなどできない。

 幾度と無く自分のペースから外れた息継ぎと窒息がランダムに交錯される。


「まーだだよ。何秒息止められるかなァ!」

「……っ!」


 バケツの水がびしゃびしゃと床に零れ落ちる。

 A軍はそれを見てまるで猿のように手を叩き笑っているが、それ以外の生徒たちは恐怖と不快さで、怯えて、見て見ぬフリしかできない。

 当然である。どう足掻いても他人事。

 正義のヒーローでもない限り、自分の身を犠牲にして、こんな出来事に遭遇したときに止めようと思える人などこの世にいるわけがない。

 ――はずだった。


「お前ら何やってんだよ!」


 その声に教室中の生徒たちが反応した。それはA軍である五十嵐たちも当然であった。

 五十嵐が手を緩めたのをいいことに、平森が汚水の滴る顔を上げる。苦しそうに「ゼェッ、ハァハァ……」と呼吸を繰り返す。

 唖然とした五十嵐は目の前にやってくる神谷陽太の姿をすっと見据えた。


「は? んだ、てめえ?」

「大丈夫か? 平森君」


 陽太は苦しそうにする平森の背中を擦るようにして、息を整えさせる。

 隣には桜もやってきて心配そうに平森を支える。


「大丈夫?」


 A軍も五十嵐さえもその「有り得なかった」光景に驚きを隠しえなかった。


「なんだよてめえ、自分がやってることわかってんのか? ああ!」


陽太は五十嵐のその言葉を聞き、間髪いれずに睨み返した。


「こっちの台詞だ!」


 周りの生徒はその様子を怯えてみていることしかできずに、ただただ震えて佇んでいた。

 金城やミキ、山田のような他のA軍でさえもそんな陽太の予想外の咆哮に、緊張と驚愕を繰り返すばかりであった。

 だがそのとき五十嵐の返しは陽太すら予想外であった。


「……く……くはははっ」


 ただ静かに五十嵐は笑った。

 そして、


「なるほどねえ」


 と、陽太の行動を感心するかのようにして、にやっと邪悪な笑みを浮かべ、そのまま教室から去っていった。


「え……五十嵐……お、おい?」


 「どうして反論しないのか」「どうして殴り倒さないのか」そんな疑問を抱えながら、しかし口には出せずにA軍、金城やミキ、山田たちは五十嵐の跡を追っていくことしかできなかった。


 この出来事はこのクラスにとっては有り得なかった出来事で、不可思議・異様な光景であったのだ。

 苦しそうに呼吸を繰り返す平森の側にC軍の男子と女子が駆けてくる。

 伊瀬友昭イセトモアキ東佐紀アズマサキである。


「平森君、大丈夫?」


 東佐紀が細々とした声で平森へ呼びかける。

 彼女は黒い三つ編みに眼鏡を掛けていて、少し世代的に古い恰好をしている。いかにも大人しそうな女子だ。

 次に伊瀬が申し訳なさそうに声を発した。短髪で活発そうな見た目に反して、ひどく臆病で腰が引けている男子である。


「ごめん……平森君。僕、助けれなかった」


 そんな伊瀬の姿を捉えて、平森は安心させるような優しい笑みを浮かべた。


「大丈夫。仕方ないよ。僕が伊瀬君の立場でもたぶん助けることなんてできなかった」


 そのとき、桜が立ち上がり張り詰めた声を発した。こんなときの桜は心に怒りが溢れていることを陽太は知っていた。


「平森君、静間先生に言って止めてもらおう? こんなのひどすぎるよ」


 平森は再び怯えた表情に戻り、桜を説得しようとした。


「え……? い、いやいいよ。胡桃沢さん。僕が我慢すればいいだけだから」


 桜は陽太の顔をキッと鋭く捉え、


「行こう、陽太!」


 陽太の腕を力強く掴み、


「お、おい! 桜って!」


 教室の床を踏みしめながら去っていった。

 そんな二人の姿を残された青年はただただ眺めていることしかできなかった。

 

 そして、教室の片隅、眼鏡の奥で、そんな二人を評定するかのように捉えて、


「面白い奴……」


 と、不適で嫌味な笑みを浮かべる『人物』がいた。

 彼の懐の生徒手帳には『霧島響哉』という名が書かれていた。



* * * * *



「喧嘩ですか? キミたちはもう高校3年生なんですよね。先生が出て行くような年齢ではないはずです」


 訴えかける桜と付き添う陽太に一瞥もくれずに、キーボード打ちながら静間は答えた。

 ひどく面倒くさそうで、「早く帰ってくれ」とでも言わんばかりである。


「喧嘩じゃありません! いじめです!」


 そんな桜の言葉を聞き、面白い話題を見つけたかというように、静間の向かいに座っている教師が割って入ってきた。


「おや、静間先生、いじめ問題ですかな? 面倒ごとになる前に穏便に頼みますよ」

「鈴木先生やめてくださいよ、ただの生徒同士の喧嘩です。そんなんじゃありません」

「先生……」


 桜はそんな教師のやり取りを呆然と見つめることしか出来ずにいた。

 静間は桜に鬱陶しいから帰れ、という目付きで、小声の回答を下した。


「先生があとで言っておきます。とりあえず教室に戻りなさい。次の授業が始まりますから」


 静間は短い髪を掻きながら、「わかってくれ」とでもいうふうに頷いた。


「! 静間先生! 私たちは真剣に――」


 次の瞬間、陽太は桜の腕を思い切り掴み、自分の背後へと回した。


「はい、わかりました。静間先生失礼しました……もう行くぞ、桜」

「え? ちょっと陽太!」


 キーボードをカタカタと打ち込む静間を尻目に陽太と桜は職員室を出て行った。

 次の授業へと向かう生徒たちが歩き回る廊下で、桜は大声を上げた。


「なんなの陽太! もう離してよ!」

「桜……静間は駄目だって。アイツは前からそうだろ? 俺たちに……あのクラスに興味なんて無いんだよ」


 ひどく哀しむ様子の桜だったが、陽太はそんな幼馴染に何の言葉を掛けてやることもできなかった。


「あんなクラス……もう嫌だよ……」


 心から思う残酷な言葉を吐き、桜は陽太に背を向け、静かに廊下をあとにしてしまった。

 整然とした沈黙が支配する廊下に一人陽太は佇んでいた。


 廊下は昼間だというのに、暗く沈んでいた。今日は太陽が隠れるほどの雲行きらしい。

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