chapter 3 前兆 -5

5  4月15日 母と子



「陽太、進路どうするの?」


 憂鬱な気分で学校から帰宅した陽太に対して、彼女の第一声がそれであった。

 陽太は溜息を吐き、そんな言葉を投げ掛けた神谷波絵カミヤナミエの姿を横目で窺った。

 彼女はテーブルに腰掛け、何やら家計簿のようなものを開いて、カリカリと電卓片手に記帳している。


「母さんの悪いようにはしないよ」


 陽太は呆れ混じりの声で返した。

 波絵は陽太の母である。

 陽太は幼い頃に父を亡くした。

 それ以来、寂しい思いを陽太にさせないようにしつつも、自身の交友関係や、近所付き合いなどもそつなくこなし、一人手で陽太を育ててきた。

 そのせいもあるのか、波絵は日頃から陽太を必要以上に気に掛けることが多かった。

 今の状況がその「必要以上」に当たるのかどうなのかはわからないにしても、陽太は鬱陶しいと感じてしまう日も沢山あった。

 陽太は母・波絵を一人の親の形として尊敬するような感情を持ち合わせてはいたのだが、それを声に出して表現など出来てはいないものであった。


「母さんの悪いようにはしない、って当然でしょ。そうじゃなくてどこの大学に行くとかちゃんと考えてるの、って聞いてるの」


 若い頃に塾や学校で講師の経験もある波絵は陽太の学業のことについて特に気に掛けていた。

 それに関しての心配は「必要以上」なのかもしれない。


「大丈夫だって」

「もうアンタは2年生じゃないのよ、今年受験なんだからね。勉強だってしなきゃないし、自分の学力の範囲だって知っておかなきゃいけないんだから――」

「わかってるよ。うるさいな」


 陽太も本当にそんなこと理解している。

 「今年受験」「勉強」「進路決定」……。

 しかし、あのクラスのことを思うと、またそれを危惧している幼馴染のことを思うと、そんな思考がうまく回らないというのが陽太の本音であった。


「なんとかなるよ」


 陽太はそんな母の姿から視線を外しながら、適当にそう答えた。


「なんともならないの。だから私は忠告してるのよ?」

「わかってるから」


 多少苛立ちの入った声だったかもしれない。

 陽太はそうは思ったものの、母の居る部屋から逃げるように出て行った。

 

 波絵は溜息を混じらせ再び家計簿と向き合った。

 しかし、落ち着かず部屋の棚の上に置かれているロケット(小さなペンダント式写真ケース)に目を遣った。

 それを開き、中の写真を確認する。

 そして一瞬微笑んだが、すぐに不安げな眼差しへと表情を変えた。


「いつからあんな子になったのかしら」


 小さくそう呟いた。

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