しおの還るは 忙しき日常
【前回までの粗筋】
潮路局各員と
帰局の途に着く一行のなか、〈歯磨き係〉の姿もあったのだった。
◆ ◆ ◆
彼らの背中を見送って、巣へ帰る為にアクセルを踏む。
〈
買ったデータを再生すれば、車内に女児の声が響く。いつの間にやら現れた、
〈蝙蝠擬き〉と取っ組み合って、白いワンピースが泥に汚れる。あれの洗濯は難儀しそうだ。
腰まで伸びた健やかな髪は、蒼すら思わせ黒く輝く。
頭には二本のリボンが生えて、
右手に在るのは、自身の前腕くらいの筒だ。先に毛束を備えているから、あれも「歯磨き」の道具だろう。
――ならば。何故。
〈
「なるほど、ねェ?」
人差し指が、ハンドルを叩く。
「まァ、そう言うことなんだろうサ」
◇ ◇ ◇
「いや、どう言うことすか」
事務室の、
ススムの憤りは、当然のもののはずだった。励むか否かは別として、
「どうも
対する佐藤は、いつもの風だ。視線を書類に落としたままで、両手が其れらを
ススムは、其れには応えなかった。こうも
「何が言いたい」
ススムが葛藤していると、遂に佐藤が頭を上げた。ススムは内心
睨むような佐藤の眼とは、合わせたくなくて泳がせる。すると、救いは背後から。
「〈歯磨き係〉ちゃんのこと、ね?」
肩を開いて振り向けば、着替えを済ませた伊香が在った。
灰色のサマーセーターは七分の袖で、縦の方向へニットが走る。ロングスカートが
「……ええ、まあ。其れ
飽くまで、
「あの
何なんですか。そう訊ねようとしたススムの言は、細長い指に
「?」
「誰が聞いてるか、分からないから、ね」
「あ……」
人差し指の向こう側、優しい唇が微笑に揺れる。
例の〈
ちょっと考えれば分かりそうなことを、ちょっとも考えなかったことに恥じる。自然と「すんません」の言葉が漏れた。
「ススムくんの気持ちも当然だもの。私も殆ど知らないし、ね」
そう言って、佐藤に視線を
ススムが嫉妬を噛み殺す。其れに佐藤は構いもせずに、
「だが、先ずは仕事だ。俺も
「……了解しました」
あの佐藤が
尤も、手柄の大半は伊香のものだ。其の自覚と言うか負い目があって、ススムは伊香に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「
伊香の、
曲線をなぞるニットの縦線から、白い包帯へと視線を移す。
「伊香さんも、御大事に」
「ありがと」
ひらひら揺れる左手に、行って来ますと会釈した。
だからススムは、
「……巻き込むことになるぞ」
「そんな。もう巻き込まれてるじゃないですか」
「ならば知っていた方が良い、か?」
「違いますか?」
「吹き込まれやがったな……」
「え?」
「何でも無い。
「はい。行って来ます」
そうして伊香も去って、佐藤も席から立ち上がる。
だから、残した呟きは独言になった。
「
◇ ◇ ◇
「寄せては返す波のよう、ってか」
ぽつり、職員が呟いた。午後の業務の立ち上がり、ミーティングでのことだった。
集配課長が周知事項を述べていく。午前に警報が出ていたこと。其れによって郵便物等の配達、及び到着に遅れが生じていること。御客さまに御迷惑を御掛けしないよう、迅速に配達を行うこと。
寄せては返す仕事の波は、波と違って引かずに積もる。山を崩すは人の
そんな空気が支配したから、
更に一部に訊ねられたが、ススムも多くを知ってはいない。そして、其れが、どうしようも無く悔しかったのだ。
〈歯磨き係〉。〈
保護したなどとは聞こえが良いが、彼女の助けが無かったら、此処にススムは還っていない。
さて、
壁を隔てた
ひんやりと、
「ススムちゃん、御疲れー」
「あっ、
ひらひら手を振る
「えー? また戻しちゃうの?」
「……何のこと?」
「ニャンコって呼んでくれたじゃん? 『ニャンコぉ! 伏せろぉ!!』って」
「いや、あれは。其の。勢いと言うか」
ニャンコが声色まで真似るのだから、ススムは途端に気恥ずかしくなる。
悪戯っぽく尖る唇が、裸電球を反射する。
「あのススムちゃん、ちょっと格好良かったのに」
「え、っと。あの。いや、ありがとう」
羞恥が脳から溢れ出し、顔面全体で放熱をする。此処が地下だったことを感謝する。
勢いと言えば、他にも色々言ったのだけど。其れには触れずに居てくれるのが、
思考の硬直と裏腹に、表情が大きく
「どーん!」
「!?」
呼吸も忘れて、うずくまる。怨嗟の声すら絞れない。
「あっ、〈歯磨き係〉ちゃん! 駄目だよー!!」
「ふっふーん」
下手人は、腰に手を当て、満足気に笑う。
「ススムちゃん、大丈夫……?」
大丈夫、とススムが唸って立ち上がる。
「
「おねえさんに、かりたの!」
「可愛いでしょ! つい買っちゃったんだけど、流石に着れなくってさあ」
なるほど、
問題は、
「〈歯磨き係〉ちゃん、気に入ってくれて良かった」
「えへへ」
本当に嬉しそうな惹子の横で、〈歯磨き係〉が
「さ、〈歯磨き係〉ちゃん。私らも御仕事しよ?」
「うん!」
よいしょと二人が
「ススムちゃんも、頑張ろうね」
「またあとでね! おにいさん!」
ころころ転がる二人の声に、気圧されながらも「おう」と応えた。
また後で、と続けて言って、何だか喉が
カートの中身を
「
◇ ◇ ◇
「何が
市立病院の待合室で、伊香は、そんな言葉を聞いた。
「だって、別に郵防公社の
顔は浅く伏せたまま、ちらり、目だけで
今の伊香は私服姿で、
「郵防公社の仕事だろうが。郵便局は
男が右手で「銃」を作った。
かつて局員は、郵便保護の為に銃を備えた。
「
「ううん、仕方無いのよ」
ふんすと主人は鼻息荒く、更に
「総ては
待合室が、凍り付く。ああ、
恐竜は身近になり久しいが、
ただ、
「そもそも
「あの」
過熱してきた奥さんに、女性看護士が水を差す。待合室の空気が、ほっと
此の手の
どうやら「患者」は夫婦の息子で、
「伊香さん、伊香
胸中、嘆息、被せるように、診察室から御呼びが掛かる。
すっと立ち上がってスカートを伸ばす。顔を上げれば、何故か「母親」と目が合った。彼女は静かに
流布する程度の
「
◇ ◇ ◇
「
潮路市役所。数ある会議室の一部屋で、寄せられた「御意見」に、佐藤が零す。
どうせ「良心的納税者」なら一日二食は配給がある。
「喰わされてん
佐藤の向かいで、眼鏡の男が呆れて言った。年齢の頃は
ふんと佐藤が鼻を鳴らせば、細身の男が口を開いた。
「さて
彼は衛生課の職員で、同じ年頃と役職だ。〈三本指〉の強襲に避難を指揮し、唯一、生き延びた者でもあった。
「いや。施設課には防衛線の件で助けられた。衛生課にも、警報発令に際して支援を頂き――」
「やめ、やめてください」
「
机に手を着く佐藤に対し、二人が
「……しかし、
「ありゃあ、まだ生きとるんでしたか」
「ああ。左前脚を壊した、だけだ」
いつだって、最終防衛線は突破される。降りしきる雷を伊香が
そうしても。
「殺せば
「いっそ爆破しちまうとか? 発破なら
「腐肉と脂肪を
「〈森〉側に引っ張れりゃあ
二人の間を取り持つように、佐藤が言った。内容が無いような自覚は有った。
車輪を持つなら兎も角として、二〇トンもの肉塊を、移動させられる術は無い。しかも今なお生きていて、抵抗されれば只では済まぬ。
「仮設電柵の資材は、足りるか?」
「まあ、
「ですが、電柵を置くとしても」
ああ、と佐藤が唸る。先と同じ場所に敷いたなら、〈四ツ足〉を〈境界線〉内に含めてしまう。
湧いて
「〈境界線〉を、下げるしか
幸い上潮路町は、其の大部分が無人の地域だ。ゆえに「緩衝地帯」として機能する。
「……ま、其れが妥当ですわな」
「そう、ですね」
同意が苦いのは当然だ。またしても
だが、佐藤は敗けていなかった。少なくとも、敗けを認めていなかった。総て人類が敗けたとしても、其れは佐藤のものでは無いと、強く信じているからだ。
「いっそ密猟連中が、持ってってくれりゃ
「勘弁して下さい。
此の二人、何だかんだで気丈だし、何だかんだで相性が良い。横にも上にも頼れない、佐藤の貴重な戦友だった。
だが。其れは其れとして、不穏な単語が引っ掛かる。
「
「ええ。あれ、佐藤さん、御存知では無かったですか」
「どうも
「最近の異常出現は、其れが原因の可能性もあります」
植食竜狩りを違法とするは、肉食の糧を奪わぬ為だ。人里へ降りる竜の脅威を、其の場だけ
抜本的な対策ならば、寧ろ糧などは奪うべきだ。人里へ降りる竜の脅威を、其の場で討ち取る
「……目星は付いてんのか」
「
二市が頼れば頼るほど、
「
佐藤が胸ポケットから紙箱を出す。
「役場は敷地内禁煙ですよ」
「
一本を摘まみ出し、苦笑の二人に箱を薦める。
自分は其れを咥えたら、安物ライターで点火する。人差し、中指で紙巻を支え、安物の味を肺に取り込む。
「
ぼやく佐藤が紫煙を零す。
二人も同じく吐き出して、部屋は
「
◇ ◇ ◇
「
「え、あ、はい?」
ススムが呼び止められたのは、製陶業者の事務室だった。
良い砂の採れる此の地では、生を支える産業だ。右肩下がりの業績も、金属需要の一部を代わり、今も細々と生き延びている。
「今日は
「あ。申し訳ありません」
嫌味と眼鏡を直した男は、〈スズキ・セラミックス〉の社長だった。腰を上げる姿は
対するススムは、咄嗟に謝罪を口にした。此れは世間話の延長で、明るく言い切ってしまえば良い。まだまだ仕事が待っている。
「午前中は警報が出てましたから」
「郵便屋さん、そりゃあ言い訳にならんぞ」
そんなススムの侮りに、社長の語気が明らかに変わる。
ススムは配達を
「そんなもんは御宅らの事情やろ」
「いや、ええと。はい、そうです」
「ウチはウチの事情がある。……ちっ」
事此処に至り、ススムは反論を諦めた。
社長は封筒の一ツを開き、忌々しげに舌を打つ。並ぶ数字は大きな桁で、存在感を主張する。
「御宅らが、もっとしっかりしてくれりゃあ。こんな金ばっかり払わんで済む」
びらびらと紙の音が立ち、下げた老眼鏡から目が睨む。どんな金かは知らないが、其れを訊くのは得策でない。
「明日からは気ぃ付けてくれ。御苦労さん」
「……はい。失礼します」
取って付けたような
濡れた道路も乾いてきたが、空は青くて高かった。大気中の塵が落ちるから、梅雨の晴れ間は空が眩しい。そのくせ気温と湿度は高く、見た目と裏腹に不快が身体に纏わり付いた。
誰もが必死に生きている。あらゆる生は、必ず死する。だから誰もが必死に生きる。
喰う為に走る。生きる為に撃つ。同じことだ。同じことのはずだ。
何とかリズムを取り戻し、次の辻へと車体を倒す。外への
「ああ。もう。疲れた」
◇ ◇ ◇
「御疲れさま」
「ススムちゃん、御帰りー」
ススムが漸く帰局したのは、西日が強烈な頃合いだった。
郵防公社の
「あっ、うっす」
勿論、期待はしていたけれど、実の場面で言葉が出ない。
制服の似合う伊香の私服。校服の似合うニャンコの局服。知らざる魅力に、今日も出逢った。人生は驚きの連続で、だからこそ今日も生きている。
「どーん!」
「!?」
そうして新たな驚きが、視界の外からススムを襲う。
少女が、手を腰に当てて鼻息を吹く。伊香と惹子が、合わせて笑う。
そんな幸福にも終焉がある。何かを思考するより早く、全身の筋肉が
「何やってんだ、お前ら」
背後から、左を抜けて、自分の席へ。視線を逸らして、なお位置が分かるのは、瘴気に産毛が立つからだ。
「御疲れさまです、佐藤さん」
「やること終わったら早く帰れよ」
健気な伊香の労いに、相も変わらず素気無く返す。
伊香と惹子は顔を見合わせ、「はい」「はーい」と片付けをする。
「小山内、お前も今日は帰れ」
「は、」
了解を示す「
「……マジすか」
「例の話は、明日してやる」
だから今日は帰れ。そう言って、佐藤は書類の束を掴んだ。ススムが何かを言おうとすると、濁った
「あれ、ススムちゃんも終わり?」
「みたい」
洗濯物を籠に抱えて、惹子がススムに笑顔を向ける。
そして、ススム自身が退勤の許可を信じられない。例の話は別として、〈
「じゃあさじゃあさ、今から
「……は?」
またも間抜けな声が零れた。
伊香の家で? 惹子も一緒に? 食事だと?
俄かに信じられるほど、充実の人生は送っていない。
「〈歯磨き係〉ちゃんと三人で、
「〈三本指〉のときの御褒美も、まだだったし」
器材室から戻ってきて、伊香が惹子の横に並んだ。
ね、と言って二人で笑う。
「……マジすか」
ええ。ええと。そりゃあ。もう。喜んで。
気持ちが先走って喉で
「どーん!!」
三度目の鉄槌は、右の爪先への一撃だ。とても、とても、痛い。
「……ほんとやめてください」
「ふーんだ」
涙すら滲む懇願に、少女は
そんな彼女の小さな右手に、惹子の右手が重なった。
「そんじゃ〈歯磨き係〉ちゃん、着替えよっか」
「えー……」
「にゃはは。其の服だったら、あげるから」
「ほんと!? おねえさんだいすき!!」
そんな二人を見送れば、〈歯磨き係〉が惹子の細い腰に抱き着いた。
羨望の目を少女に見られ、悔しくなどないと目を逸らす。
「では、失礼します」
伊香が佐藤に退勤を告ぐ。相も変わらず律儀なことだ。
「気を付けろよ」
書類を見たまま佐藤が言って、「はい」と短く伊香が返す。
そうして振り向いた伊香の顔は、いつもの大人の微笑みだった。
「さ、ススムくんも片付けてきて」
「はい」
伊香に促されて着替えを済ませ、夕焼けの帰路に加わった。
橙の色に霞んだ街を、四本の長い影が横切って行く。其のなか短い一ツの影が、華奢な二本の間で揺れて、遂に地を発ち宙に踊った。驚きと喜びに満ちた声が、足音とともに歩いて行った。
――今日は本当に色々あった。
そして結局、何も分からなかった。
整っていない伊香の部屋で、ニャンコの料理が美味かった。喰って散らかす〈歯磨き係〉の、汚れた口もとを呆れて拭う。こどもじゃないのと喚かれて、伊香とニャンコが優しく笑う。
今日も何とか生き延びられた。どうせ明日も忙しいなら、こんな時間も良いだろう。誰にとも無く言い訳をして、ススムも二人と一緒に笑う。〈歯磨き係〉は
そうやって、御褒美の夜は更けて行く。
◇ ◇ ◇
「潮路局――此処だな」
「ええ、間違いありません」
恐竜の 歯磨き係と 配達員
しおの還るは
―了―
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