森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ
【前回までの粗筋】
小山内ススムは郵便配達の
雷竜と小型翼竜を退けて、潮路郵便局には日常が戻る。〈歯磨き係〉も加わって、
そんな潮路局を嗅ぎ回る人影が居て――
◆ ◆ ◆
潮路郵便局は、いつもの
落ちる雷、
各員の奮励と
だから、いつもの忙しい朝だった。
郵便局、特に
八時の始業で体操をして、「大区分」と呼ばれる仕分作業や、配達順に並べる「戸別組立」の作業に掛かる。其の他、諸々の行程を経て、一〇時に出発していたい。一〇〇人近くが時間に追われ、部内は喧騒に満ちている。
郵防公社も、基本的には集配に沿って業務を行う。別組織を笠に無視すれば、無為な反発を産むからだ。そも、郵防公社の協力社員は、局の定員から召し上げている。定められてはいなくとも、心情的には当然だった。
具体的には、ススムの配達するぶんを、伊香が準備する寸法だ。
「佐藤さん。ススムくんのぶん、出来ました」
「おう」
戸別組立は、単に並べるだけではない。一通一通の宛先を、一軒一名まで精査する。確認、確認、また確認だ。手間と忍耐の作業だが、伊香の仕事は、本職たちと遜色ない。
彼女は静かに、自席へ座る。
「〈歯磨き係〉は
「ええ、〈蝙蝠擬き〉と遊ぶとか。
「そうか」
「不思議な子です、ね」
伊香の端末は、マルチモニタを兼ねていて、
佐藤が返事をしないで居ると、伊香は視線と話題を変えた。
「坊田局からの返信、有りましたか」
「返信
右手で定形の封筒を渡す。白地に赤の帯が走る、通信業務に用するものだ。
伊香が開いた
「『
「分かっていたことだ」
封筒を受け取るべく顔を上げれば、部下は
坊田局からの回答は、予想されたものだった。だが、要請して、保留された、其の事実は必要になる。
「別のルートに掛け合うさ」
そう言って、机上の端末を打鍵する。
伊香は僅かに
そうして職務に励むうち、喧騒の群れが配達へ出る。彼らの背中を見送って、伊香がモニタに視線を落とす。え、と零して画面を睨む。呼ばれた佐藤は顔を上げ、何だと返して目を合わす。
「――
機動車の、斜路を駆け上がる音がした。
◇ ◇ ◇
「分かりました。五、八、一、〇、です」
「
郵便局を守るのは、たった四桁のパスコード。作業に追われる精神が、大きな機構に綻びを産む。荷物を積み込む職員に、業者を装い訊ねれば、鬱陶しそうに教えてくれた。膨大な個人情報を取り扱うには、余りに粗末な
郵防公社の存在は、今も世論の不信が深い。郵政公社の再国営化は、厳しい視線に晒されている。いつの世も、銃と公僕は嫌われる。
巨大翼竜を逃したこと、小型翼竜を捕らえたこと、此れらを公表していないこと、など、など。白昼の高校で起きた大立ち回りだ、証言だけなら山ほどあった。だが、証拠は毛筋も残っていない。写真や映像は、
現状は、謎の少女の件も併せて、オカルトとして処理されつつある。ならば、
御客様用駐車場から、斜路を
右手に小型のカメラを構え、左手を銀のドアノブに置く。
そうして、がたんと開けて放てば、部屋の中身は空っぽだった。
「何を探してる」
低いのに、上擦るような不快な声だ。振り向くより早く、右手のカメラを打ち払われる。相棒と二人、訓練所内に投げ飛ばされて、カメラの行方は見なかった。
「ぐえ」
「報道関係者らしき三〇代の男女、不法侵入につき〈非常措置:治安維持〉を開始する」
郵防公社の「特権」たる〈非常措置〉は法規の違反を免れる。其の為に、開始と終了を記録しておく必要がある。宣言は、音声による記録行為だろう。
「ぐええ」
「離せ、と言っても離してくれないんでしょうね」
「そりゃあ、そうだ」
郵防公社の男――調べによれば佐藤と言うはずだ――が、にこりともせずに見下してくる。
御土産も無しに帰れない。相棒に軽く目配せすると、彼は目だけで頷いた。
「
彼の胸ポケットには、
「そんな被害を出していて、巨大翼竜を
「取材なら、広報室へ訊くことだな」
「市民は現場の声を求めてるんですよ」
唇の
「小型の一匹を捕獲したとの噂ですが、
彼が其処まで言ったところで、佐藤の拳が降ってきた。ぐえええ、と言う悲鳴の下に、機械の壊れる音がした。御土産は、諦めたほうが良さそうだ。
「やめて、死んじゃう」
「殺しはしないさ」
「じゃあ、警察に突き出すのかしら?」
不法侵入に異論は無いが、実際のところ「入った」だけだ。厳重注意が関の山だろう。すぐ戻り、別の尻尾を踏ん付けてやる。
「其のつもりだったが、やめた。最高の取材先を紹介してやる」
「……何よ」
「支社の情報戦略室だ。知りたがりには丁度
支社付き情報戦略室は、黒い噂の絶えない組織だ。なかでも東海支社には、若き女室長が居て、かなりの
「
落ちたカメラを拾い上げると、男は〈
鉄の扉が
◇ ◇ ◇
局を出立した機動車が、街を擦り抜け北へと向かう。
がたん、がたんと、
其れでもススムが
斯くしてススムは佐藤に呼ばれ、朝から
そしてハンドルを握っていたが、遂に耐え切れなく
「ちょっと!! どういうつもりなの!?」
空気を引き裂く剣幕に、ススムは思わず
〈歯磨き係〉の着衣は乱れ、右の肩紐が落ちている。蒼を思わせる黒髪も、顔に掛かるわ変に跳ねるわ。鞄へ投げ込んだイヤフォンが、大体こんな感じになろう。
〈
「こんなところにとじこめるなんて!!」
「はい。はい」
「どういうつもりなの!? しんじらんない!!」
「はい。すんません。はい」
「ぎゃくたいよ!?
「はい。すんませ……ん?」
「ねえ!? ちゃんときいてるの!?」
「いや、まあ、聞いてはいるけど」
「へんじは
「……
「!!」
感嘆符を飛ばす勢いで、彼女自身も立ち上がる。頬の
「ちょっ!? おい!!」「へっ!?」
二人の声が重なって、少女が宙に投げ出され、二人の身体が重なった。知識が豊富な小山内ススムは、此れが騎乗位と知っている。〈歯磨き係〉が華奢だとて、腹で受ければ背が痛い。
「
一拍の後に
小さい御口を間抜けに開けて、〈歯磨き係〉は見送った。其の
「おら、降りろ」
「うん」
よっこいしょ。両手をススムの胸に付き、〈歯磨き係〉は従った。ススムも痛んだ身体を起こし、次いで
「さ、行くぞ」
「はーい」
〈歯磨き係〉が両手を上げる、
「なんか、しつれいなことかんがえてるでしょ」
「……さ、行くぞ」
「あー! ごまかしたなー!?」
「動くから掴まってろよ?」
「其れは、お前」
「ん?」
誰も、ススム
「いや。別に。何も」
「あっ、おにいさん! てれてるの!?」
「……
「へへっ、てれちゃった? ねえねえ、てれちゃったの?」
ぷくりと短い人差し指が、ススムの頬を突っついた。
「良い度胸だ、覚悟してろよ」
ギアをローへと叩き込む。開くアクセルに
少女の悲鳴が森へ吞み込まれた。
◇ ◇ ◇
事の始めは
〈
〈
今だって、逆光の色の肉食竜が、建物の陰へ消えて行く。幸い、
「御客さーん、終点ですよー」
「う、うう」
目を回している〈歯磨き係〉を
前輪の上に載せられた、黒の革製鞄を開ける。
そして、微かに覚えた違和感を、突き詰める前に声が掛かった。
「おにいさーん……」
「おう、御目覚めか」
「べっ、べつに! あんなの、どうってこと、ないんだから……」
「へいへい。降りますぜ」
「……はあい」
「よっこい、しょ」
「ちょっと!? なんだか、おもたいみたいじゃない、の、っとと」
抗議の声は上から下へ、少女が大地へ降り立った。みたいじゃねえ、とは言わないでおく。
髪と衣服を
「ここで、おにいさんとあったんだよね」
「そうだな」
同意の声が硬いのは、其のときに二度も死に掛けたからだ。
森を見回す〈歯磨き係〉は、口調と同じく穏やかな
そうあって「さて」と両手を打つさまは、
「わたしは、
「待つって、此処でか?」
「ふぇっ!? だっ、おへやは、
少女が声を裏返らせる。そうすると急に
そうじゃなくてとススムが言うも、〈歯磨き係〉は聞いちゃいない。どうせ午前はベビーシッターが御仕事ので、待つのは全く問題でない。だが、
「此処に居るのは、気が気じゃないぞ」
「じゃあ……すぐそこまで、ね?」
「ああ、其れで
ゆるゆる崩した表情は、妙に血行が良い。何か勘違いがあるようだ。
とまれ、話は着いた。エントランスへ歩いて行くと、
「ちゃんと
「はいはい。行ってらっしゃい」
ちらちら振り向く少女に対し、ひらひら右手を振って見せた。
そして、ススムは
◇ ◇ ◇
『施設内は静かに歩きましょう』
壁に貼られた注意書きと、ゆっくり擦れ違う。其れに従うのは惜しくない。
廊下は、突き当たると丁字に割れる。右は手洗いと会議室、左には事務室が在り、更に奥へと伸びている。言うまでも無く、目指すは奥だ。
歩くうち、ススムの違和感が確信に成る。〈
薄暗い廊下。薄くない酸素。
道なりに、角を右へと折れて行く。朝の
ススムの両眼は、其の眩しさに慣れてしまった。だから背後の物音も、闇の塊にしか見えなかった。
「
鼻に掛かる、
ととっ、ととっ、不規則な足音が廊下に響く。〈
「其れで
「どのみち、
ススムの無抵抗を確認したか、ジャケットの内へ得物を隠す。左腋に吊っているのだろう。
ととっ、ととっ、と近付いて来て、漸く其の表情が見える。大きくて円い眼に、小振りな鼻が幼く見える。にっと笑った唇は、ぷるんと厚くて艶っぽい。全身に纏う黒の差で、肌と口もとが鮮やかだ。
「小山内ススムだね?」
「どちらさま、ですか」
声を絞り出す。唾を呑み込む。
コートの上からでも分かる。伊香に劣らぬ豊かな胸部。腰の周りは
「ふふン、こう言う者サ」
銃の代わりに取り出したのは、職員証だ。
「郵政防衛、東海支社……?」
「戦略情報室室長、
驚くススムに満足したか、羽田は
支社は郵便局の上位組織だ。各局は、支社の指示や指導を受けて活動する。雲の上に在る本社と違い、顔の見える御偉いさんだ。
「支社の、室長が。
「情報は、自分の足で、集める主義でね」
羽田が、ぽん、と自分の
「で、ガールフレンドは?
「……トイレですよ」
「花を摘むとか言ってやるもんサ。
ススムの吐き出した苦しい嘘に、付き合うように羽田が笑う。
ととっ。ととっ。ススムの脇を抜け、奥へと向かう。ふわりと香る甘い匂いは、しつこくないのに脳が覚える。不規則に歩く後ろ姿が、ますます
「立ち話も何だろう、歩きながら話そうか」
「何処へ、行くんです」
「
◇ ◇ ◇
明かり取りの射程を抜けると、廊下は途端に暗くなる。
不規則な足音が、そうでないものを導いて、薄闇の奥へ吸い込まれて行く。
「佐藤からは、何処まで聞いた?」
「……」
「良い警戒心だ。アタシが喋ろう」
息苦しさは、無い。酸素の濃度は足りていて、羽田の物腰は柔らかい。
「顔の見える御偉いさん」は、現場に構わず
「〈歯磨き係〉は〈飼育員〉シリーズの生き残り。そうだね?」
そうだ。彼女は最後の
佐藤からは、そう聞かされた。
「〈
「……其れは、本当なんですか」
信じられない、信じたくない、ススム自身にも分からない。
「うン?」
「そんなことが、出来るんですか」
「絶滅動物を創り出せるンだ。
技術は、そうだ。倫理は、どうだ。
自問して、諦めとともに自答した。倫理など、とうの昔に死んでいる。四本の足が、墓標を叩く。
「〈
「あんな
確かに若干
「汚いオッサンと無垢な美少女、
「そりゃあ、後者です」
此の女史は、ススムのことをオサムと呼んだ。
「だろう?
足を止め、振り向きながらススムを見上げる。何処を
とは言え、と厚い唇が言葉を継いだ。
「アタシの見立てじゃ、〈飼育員〉は〈受け皿〉なんだけど、ねェ」
「〈受け皿〉?」
「其れを確認する為に、
「はあ」
「〈
確かに、
でもねェ。羽田は、にやりと口角を引く。
「隙は何処かに有るンだよ」
「こんなに厳重なのに、ですか」
「此の辺は、
「つまり、其の穴から潜るってことですか」
「問題は、屋外に出るってことサ」
「……なるほど」
「ああ、慌てなさんな。抜くと色々、面倒だ」
再び右手を回すのを、再び羽田に制される。其の左手に、大振りの電話機が握られている。
当然のこと、抜けば
だからアタシが抜いてあげるよ。受話器を当てて流し目で、そんなようなことを羽田が言った。唇を紅い舌が舐め、ススムの血圧が高くなる。電話が通じた。
「アタシだよ。オサムの、そう、小山内ススムの。そうだ、潮路郵便局の。ああ、
「良いからやンな。アタシの指示だ。――そう、其れで
話し相手を
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるのも、変な話サ」
ススムは銃を受け取って、何を言えば
「さ、其れじゃあ仕事をしよう」
羽田の足が踏み出した。
青くて重たい湿気を吸って、ススムは小さく咳き込んだ。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ
―完―
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