森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ

【前回までの粗筋】

 小山内ススムは郵便配達の非常勤職員ゆうメイト。銃を手にして、機動車バイクを駆って、今日も何とか命を繋ぐ。

 雷竜と小型翼竜を退けて、潮路郵便局には日常が戻る。〈歯磨き係〉も加わって、せわしく、貴重な日常だった。

 そんな潮路局を嗅ぎ回る人影が居て――


  ◆ ◆ ◆


 潮路郵便局は、いつものせわしい朝を迎えた。

 落ちる雷、ひらめく翼。あの騒ぎから数日になる。週が明け、梅雨の終わりに手が届く。

 各員の奮励と超過勤務ちょうきんが、局に日常を取り戻させた。

 だから、いつもの忙しい朝だった。


 郵便局、特に集配営業部はいたつは朝が勝負だ。此処でつまずけば、退勤時間に直結する。定時の退勤を目指すなら、午前半分で不足する。スタートダッシュが肝心になる。

 八時の始業で体操をして、「大区分」と呼ばれる仕分作業や、配達順に並べる「戸別組立」の作業に掛かる。其の他、諸々の行程を経て、一〇時に出発していたい。一〇〇人近くが時間に追われ、部内は喧騒に満ちている。


 郵防公社も、基本的には集配に沿って業務を行う。別組織を笠に無視すれば、無為な反発を産むからだ。そも、郵防公社の協力社員は、局の定員から召し上げている。定められてはいなくとも、心情的には当然だった。

 具体的には、ススムの配達するぶんを、伊香が準備する寸法だ。


「佐藤さん。ススムくんのぶん、出来ました」

「おう」


 まさに時刻は一〇時前。書類を見たまま佐藤が返す。

 戸別組立は、単に並べるだけではない。一通一通の宛先を、一軒一名まで精査する。確認、確認、また確認だ。手間と忍耐の作業だが、伊香の仕事は、本職たちと遜色ない。

 彼女は静かに、自席へ座る。


「〈歯磨き係〉は地下訓練場レンジか?」

「ええ、〈蝙蝠擬き〉と遊ぶとか。始業あさから、ずっと」


 地下訓練場レンジは潮路郵便局の予備室で、郵防公社が借り受けている。其れゆえ一般局員に触れにくく、遠ざけるにはあつらえ向きだ。


「そうか」

「不思議な子です、ね」


 伊香の端末は、マルチモニタを兼ねていて、訓練場レンジの様子も見えている。粗末な画質の絵の中で、荷台箱キャリーボックスが鮮やかだ。〈歯磨き係〉はとして、〈蝙蝠擬き〉とている。追い掛けっこの末に彼らは、赤い箱へと納まった。

 佐藤が返事をしないで居ると、伊香は視線と話題を変えた。 


「坊田局からの返信、有りましたか」

「返信有った」


 右手で定形の封筒を渡す。白地に赤の帯が走る、通信業務に用するものだ。

 伊香が開いた四ツ切りA4用紙は、無闇なほどに白かった。


「『われに余剰弾薬無し。調整の上、追って連絡する』……ですか」

「分かっていたことだ」


 封筒を受け取るべく顔を上げれば、部下はる瀬無い表情だった。

 坊田局からの回答は、予想されたものだった。だが、要請して、保留された、其の事実は必要になる。


「別のルートに掛け合うさ」


 そう言って、机上の端末を打鍵する。

 伊香は僅かに表情カオを崩して、自分の仕事に取り掛かる。出勤のいんを確かめて、超勤時間の算出をする。引っ切り無しに電話が鳴れば、コールセンターの真似事だ。総務や経理の仕事だが、業務協力の一環で、一部を伊香が請け負っている。

 そうして職務に励むうち、喧騒の群れが配達へ出る。彼らの背中を見送って、伊香がモニタに視線を落とす。え、と零して画面を睨む。呼ばれた佐藤は顔を上げ、何だと返して目を合わす。


「――です」


 機動車の、斜路を駆け上がる音がした。


  ◇ ◇ ◇


「分かりました。五、八、一、〇、です」

ゼロ、ね」


 郵便局を守るのは、たった四桁のパスコード。作業に追われる精神が、大きな機構に綻びを産む。荷物を積み込む職員に、業者を装い訊ねれば、鬱陶しそうに教えてくれた。膨大な個人情報を取り扱うには、余りに粗末な防犯体制セキュリティ。郵防公社が駐在しても、では変わらなかった。


 郵防公社の存在は、今も世論の不信が深い。郵政公社の再国営化は、厳しい視線に晒されている。いつの世も、銃と公僕は嫌われる。存在感プレゼンスを示したい郵防公社が、無用の脅威を煽っているとの言も在る。

 巨大翼竜を逃したこと、小型翼竜を捕らえたこと、此れらを公表していないこと、など、など。白昼の高校で起きた大立ち回りだ、証言だけなら山ほどあった。だが、証拠は毛筋も残っていない。写真や映像は、

 現状は、謎の少女の件も併せて、オカルトとして処理されつつある。ならば、があれば、そうはいくまい。


 御客様用駐車場から、斜路をくだれば駐輪場だ。其の最奥部でコードを入れる。扉の先には廊下があって、〈訓練場〉へとアクセス出来る。翼竜と少女は、間違い無く此処だ。

 右手に小型のカメラを構え、左手を銀のドアノブに置く。

 そうして、がたんと開けて放てば、部屋の中身は空っぽだった。荷台箱キャリーボックスと座して、大きな口を虚ろに開く。


「何を探してる」


 低いのに、上擦るような不快な声だ。振り向くより早く、右手のカメラを打ち払われる。相棒と二人、訓練所内に投げ飛ばされて、カメラの行方は見なかった。


「ぐえ」

「報道関係者らしき三〇代の男女、不法侵入につき〈非常措置:治安維持〉を開始する」


 郵防公社の「特権」たる〈非常措置〉は法規の違反を免れる。其の為に、開始と終了を記録しておく必要がある。宣言は、音声による記録行為だろう。他人事ひとごとのように思っていると、あっさり親指を結束された。


「ぐええ」

「離せ、と言っても離してくれないんでしょうね」

「そりゃあ、そうだ」


 郵防公社の男――調べによれば佐藤と言うはずだ――が、にこりともせずに見下してくる。

 御土産も無しに帰れない。相棒に軽く目配せすると、彼は目だけで頷いた。


潮路北シオキタ高校の生徒が犠牲になったようですが、如何いかが御考えですか? 郵防公社は事前に、若しくは、より迅速に対応が出来たのでは?」


 彼の胸ポケットには、録音端末ICレコーダが縫い付けてある。丁寧なのは言葉くちだけで、微塵の敬意も滲ませぬ。失言をひとツ引き出せば、暫くは其れで騒げるだろう。


「そんな被害を出していて、巨大翼竜を逃がしたのは何故ですか?」

「取材なら、広報室へ訊くことだな」

「市民は現場の声を求めてるんですよ」


 唇のを持ち上げて、しゃあしゃあと言う。自分のことながら、主語の大きな物言いが、いっそう腹立たしい。


「小型の一匹を捕獲したとの噂ですが、如何どうするおつもりなんですか? あの少女は何なんです? 若しかして〈飼育員〉の――」


 彼が其処まで言ったところで、佐藤の拳が降ってきた。ぐえええ、と言う悲鳴の下に、機械の壊れる音がした。御土産は、諦めたほうが良さそうだ。


「やめて、死んじゃう」

「殺しはしないさ」

「じゃあ、警察に突き出すのかしら?」


 不法侵入に異論は無いが、実際のところ「入った」だけだ。厳重注意が関の山だろう。すぐ戻り、別の尻尾を踏ん付けてやる。


「其のつもりだったが、やめた。最高の取材先を紹介してやる」

「……何よ」

「支社の情報戦略室だ。知りたがりには丁度い」


 支社付き情報戦略室は、黒い噂の絶えない組織だ。なかでも東海支社には、若き女室長が居て、かなりのり手と聞き及ぶ。其の実態は、尻尾どころか影すら踏めない有様だった。


色々、教えてもらえ」


 落ちたカメラを拾い上げると、男は〈訓練場レンジ〉を後にした。

 鉄の扉が五月蠅うるさく閉まり、施錠され、照明が落ちた。


  ◇ ◇ ◇


 局を出立した機動車が、街を擦り抜け北へと向かう。関所ゲート〉をくぐったら、酸素供給ターボを効かせて森へと至る。木々が織り成す隧道トンネルの、静かにうごめく根っこを踏んで、ふたツの輪っかが飛び跳ねる。

 がたん、がたんと、荷台箱キャリーボックス五月蠅うるさわめく。なるほど、確かに道は悪いが、だけでは無い揺れ方だった。


 小山内おさないススムは高校生だ。励むか否かはいて、平日午前は本業のはず。事実、同期の惹子ニャンコなど、昼から出勤するはずだ。

 其れでもススムが機動車バイクを駆って、森を掻き分け進んでいるのは、佐藤の下した命令ゆえだ。郵便局に限らずも、職場の書類が一枚あれば、学校の出席は公休になる。そもそも、学徒に副業しごと奨励きょうせいするのが、〈隕石衝突DR〉以後の政策だ。労働が教育に優先するのは、今や当然のことだった。

 斯くしてススムは佐藤に呼ばれ、朝から潮路郵便局しょくばへ足を運んだ。事情説明もに、持つものも持たず追い立てられた。言い訳のように持たされたのは、〈研究所センター〉宛ての郵便物だ。伊香が準備をしたぶんは、午後の仕事になるだろう。


 そしてハンドルを握っていたが、遂に耐え切れなく機動車バイクを停める。サイドスタンドに其の身を預け、車体は今なおやかましかった。

 荷台箱キャリーボックスの留め金が、ススムの右手で外される。封じ込められた圧力が、爆ぜるようにして蓋を開いた。


「ちょっと!! どういうつもりなの!?」


 空気を引き裂く剣幕に、ススムは思わずった。

〈歯磨き係〉の着衣は乱れ、右の肩紐が落ちている。蒼を思わせる黒髪も、顔に掛かるわ変に跳ねるわ。鞄へ投げ込んだイヤフォンが、大体こんな感じになろう。

蝙蝠擬きソルデス〉は、彼女の隣でくたばっている。ススムは彼女をなだめるように、両の掌を見せて揺すった。


「こんなところにとじこめるなんて!!」

「はい。はい」

「どういうつもりなの!? しんじらんない!!」

「はい。すんません。はい」

「ぎゃくたいよ!? なんだから!!」

「はい。すんませ……ん?」


 まくし立てられるに任せていたが、両の耳から入った言葉が、両の側から眉を押す。


「ねえ!? ちゃんときいてるの!?」

「いや、まあ、聞いてはいるけど」

「へんじはするの!」

「……家庭内暴力でぃーぶいの意味、知ってて言ってんのか?」

「!!」


 感嘆符を飛ばす勢いで、彼女自身も立ち上がる。頬のあかいを見るより早く、がたりと機動車バイクが姿勢を崩す。


「ちょっ!? おい!!」「へっ!?」


 二人の声が重なって、少女が宙に投げ出され、二人の身体が重なった。知識が豊富な小山内ススムは、此れが騎乗位と知っている。〈歯磨き係〉が華奢だとて、腹で受ければ背が痛い。


いってぇ……」「いったーい……」


 一拍の後に機動車バイクが倒れ、白い舗装コンクリート五月蠅うるさく叩く。〈蝙蝠擬き〉は目を覚まし、驚きのままに飛び去った。

 小さい御口を間抜けに開けて、〈歯磨き係〉は見送った。其のさまと、自分のざまが可笑しくて、ススムは何だか笑ってしまう。少女も釣られてほころぶと、笑顔をススムの身体に載せた。


「おら、降りろ」

「うん」


 よっこいしょ。両手をススムの胸に付き、〈歯磨き係〉は従った。ススムも痛んだ身体を起こし、次いで機動車バイクを引き起こす。排気量の割に車体は重い。ハンドルを掴み、腰で支えて、よっこいしょ。歪んだ左のフットレストへ、足を叩き付けて矯正をする。


「さ、行くぞ」

「はーい」


〈歯磨き係〉が両手を上げる、わきへススムの両手を入れる。ひんやりとした、薄い身体を持ち上げる。彼女も彼女で軽くはなくて、何かを楽しむ余裕は無かった。


「なんか、しつれいなことかんがえてるでしょ」

「……さ、行くぞ」

「あー! ごまかしたなー!?」

「動くから掴まってろよ?」


 機動車バイクは一旦転倒すると、エンジンの掛かりが悪くなる。三度、四度と始動桿スターターバーを踏み込んで、五度目でようやく点火した。すると、細い手が、するすると、ススムの両腋に巻き付いた。


「其れは、お前」

「ん?」


 誰も、ススム掴まれとは言っていない。顔を左へ軽く回せば、〈歯磨き係〉が覗き込む。距離は僅かに一〇センチちょい、にこにこと笑う少女の匂い。ススムは全く動揺せずに、素っ気なく言って向き直る。そう、毛筋たりとも動揺は無い。


「いや。別に。何も」

「あっ、おにいさん! てれてるの!?」

「……五月蠅うるせえぞ」

「へへっ、てれちゃった? ねえねえ、てれちゃったの?」


 ぷくりと短い人差し指が、ススムの頬を突っついた。


「良い度胸だ、覚悟してろよ」


 ギアをローへと叩き込む。開くアクセルに酸素供給ターボが唸る。

 少女の悲鳴が森へ吞み込まれた。


  ◇ ◇ ◇


 事の始めは二〇ふたまる世紀、恐ろしの竜が蘇る。科学の勝利と声高く、人は大いに沸き立った。

放牧園ランド〉と呼ばれる計画は、小さな柵から始まった。すくすくと柵は大きくなって、人の住処をすことになる。膨大な数の正論を経て、〈放牧園ランド〉は立派に育っていった。

研究所センター〉は〈放牧園ランド〉の外郭に在る。往時は、道路と鉄路のアクセスも良く、公園に整備されて賑わっていた。現在は、木々と竜とで賑わっている。

 今だって、逆光の色の肉食竜が、建物の陰へ消えて行く。幸い、此方こちらに気付いた様子ではない。


「御客さーん、終点ですよー」

「う、うう」


 目を回している〈歯磨き係〉を一瞥いちべつすると、先に自分の仕事へ掛かる。

 前輪の上に載せられた、黒の革製鞄を開ける。定型こものが五通、定型外おおもの四通、此れが本日の配達分だ。強い郵便受箱ポストの底が、ことり、ごとりと受け止める。エントランスの自動扉は、何の反応も示さない。内部からの解錠か、職員証IDカードが必要だろう。

 恐竜人間ディノサウロイドによる襲撃以来、〈研究所センター〉の活動は停止していた。少なくとも、ススムの目には、そう見えた。だが、其れと配達には関係が無い。傍目はために見るには廃墟でも、届出の無い限り配達をする。事実、空家に届けた郵便が、回収されることは意外に多い。

 そして、微かに覚えた違和感を、突き詰める前に声が掛かった。


「おにいさーん……」

「おう、御目覚めか」

「べっ、べつに! あんなの、どうってこと、ないんだから……」

「へいへい。降りますぜ」

「……はあい」

「よっこい、しょ」

「ちょっと!? なんだか、おもたいみたいじゃない、の、っとと」


 抗議の声は上から下へ、少女が大地へ降り立った。みたいじゃねえ、とは言わないでおく。

 髪と衣服をはたいて直し、めいっぱい伸びて深呼吸する。あらわになったわきが眩しく、二の腕の裏も白く光った。


「ここで、おにいさんとあったんだよね」

「そうだな」


 同意の声が硬いのは、其のときに二度も死に掛けたからだ。はなを垂らして、声も出せずに、目前の少女に助けられた。遠い昔のようでいて、つい先日のことだった。

 森を見回す〈歯磨き係〉は、口調と同じく穏やかな表情カオ。ススムの視線に気付いたら、彼を見上げて、にひひと笑う。ススムも釣られて笑顔になった。

 そうあって「さて」と両手を打つさまは、惹子ニャンコの癖でも伝染しうつったか。


「わたしは、によってくるから、おにいさん、まっててくれる?」

「待つって、此処でか?」

「ふぇっ!? だっ、おへやは、だめなんだから!!」


 少女が声を裏返らせる。そうすると急にとして「ちっ、ちらかってるし……」と視線を逸らす。

 そうじゃなくてとススムが言うも、〈歯磨き係〉は聞いちゃいない。どうせ午前はベビーシッターが御仕事ので、待つのは全く問題でない。だが、


「此処に居るのは、気が気じゃないぞ」

「じゃあ……すぐそこまで、ね?」

「ああ、其れでい」


 ゆるゆる崩した表情は、妙に血行が良い。何か勘違いがあるようだ。

 とまれ、話は着いた。エントランスへ歩いて行くと、読取機カードリーダーに背と手を伸ばす。機器が音も無く点灯し、消えると同時に扉が開く。

 より〈歯磨き係〉は、ススムが気になって仕方無い。


「ちゃんとにしてるのよ?!」

「はいはい。行ってらっしゃい」


 ちらちら振り向く少女に対し、ひらひら右手を振って見せた。

 そして、ススムはでは無い。


  ◇ ◇ ◇


『施設内は静かに歩きましょう』

 壁に貼られた注意書きと、ゆっくり擦れ違う。其れに従うのは惜しくない。

 廊下は、突き当たると丁字に割れる。右は手洗いと会議室、左には事務室が在り、更に奥へと伸びている。言うまでも無く、目指すは奥だ。


 歩くうち、ススムの違和感が確信に成る。〈研究所ここ〉の郵便受箱ポスト。何故か。

 薄暗い廊下。薄くない酸素。非常灯あかりと空調が生きている。


 道なりに、角を右へと折れて行く。朝の陽光ひかりが射し込んで、宙舞う埃が金にきらめく。窓はめ殺しになっていて、中に鉄線の入ったものだ。明かり取りにしか使わないのだろう。

 ススムの両眼は、其の眩しさに慣れてしまった。だから背後の物音も、闇の塊にしか見えなかった。大腿ホルスターへと右手を伸ばし――


。アタシの方が早い」


 鼻に掛かる、まろやかな女声じょせい。次いで、突き出される回転式拳銃リボルバー。制されて、銃把を掴むも叶わない。

 ととっ、ととっ、不規則な足音が廊下に響く。〈非常措置:対恐竜等じょうきょう〉と別の感覚に、ススムは身体が動かない。


「其れでい。アタシの情報は弾丸タマより早い」


 からすにも見える塊が、白日の下に晒される。ススムより、頭一ツは低い背だ。緩く波打つ長髪に、季節外れのピーコート、ジャケットとシャツ、スラックスに至るまで、墨で塗ったような黒だった。


「どのみち、対応指揮局CPも許可なんて出せないよ」


 ススムの無抵抗を確認したか、ジャケットの内へ得物を隠す。左腋に吊っているのだろう。

 ととっ、ととっ、と近付いて来て、漸く其の表情が見える。大きくて円い眼に、小振りな鼻が幼く見える。にっと笑った唇は、ぷるんと厚くて艶っぽい。全身に纏う黒の差で、肌と口もとが鮮やかだ。


「小山内ススムだね?」

「どちらさま、ですか」


 声を絞り出す。唾を呑み込む。

 コートの上からでも分かる。伊香に劣らぬ豊かな胸部。腰の周りはとして、女性の柔らかさを表している。唾を呑み込む。


「ふふン、こう言う者サ」


 銃の代わりに取り出したのは、職員証だ。

 と認識し得たのは、良く知る様式だったから。


「郵政防衛、東海支社……?」

「戦略情報室室長、羽田はねだ十六夜いざよひとツ、御見知り置き頂こう」


 驚くススムに満足したか、羽田はと笑って見せた。

 支社は郵便局の上位組織だ。各局は、支社の指示や指導を受けて活動する。雲の上に在る本社と違い、顔の見える御偉いさんだ。


「支社の、室長が。如何どうしたんですか」

「情報は、自分の足で、集める主義でね」


 羽田が、ぽん、と自分のももを叩く。


「で、ガールフレンドは? 如何どうしたんだい?」

「……トイレですよ」

「花を摘むとか言ってやるもんサ。淑女レディが相手じゃ猶更、ね」


 ススムの吐き出した苦しい嘘に、付き合うように羽田が笑う。

 ととっ。ととっ。ススムの脇を抜け、奥へと向かう。ふわりと香る甘い匂いは、しつこくないのに脳が覚える。不規則に歩く後ろ姿が、ますますからすを思わせる。


「立ち話も何だろう、歩きながら話そうか」

「何処へ、行くんです」

出歯亀でばがめの片棒を、担いでやるのサ」


  ◇ ◇ ◇


 明かり取りの射程を抜けると、廊下は途端に暗くなる。

 不規則な足音が、そうでないものを導いて、薄闇の奥へ吸い込まれて行く。


「佐藤からは、何処まで聞いた?」

「……」

「良い警戒心だ。アタシが喋ろう」


 息苦しさは、無い。酸素の濃度は足りていて、羽田の物腰は柔らかい。

「顔の見える御偉いさん」は、現場に構わず理屈むちゃを言うのが通例だ。ゆえに彼女は例外だった。其れでもススムが言いよどむのは、信じ切ることが出来ないからだ。彼女を、では無い。


「〈歯磨き係〉は〈飼育員〉シリーズの生き残り。そうだね?」


 そうだ。彼女は最後のだ。

 佐藤からは、そう聞かされた。


「〈放牧園ランド〉の恐竜どもを、世話する為にのサ」

「……其れは、本当なんですか」


 信じられない、信じたくない、ススム自身にも分からない。


「うン?」

「そんなことが、出来るんですか」

「絶滅動物を創り出せるンだ。は訳無いだろう?」


 技術は、そうだ。倫理は、どうだ。

 自問して、諦めとともに自答した。倫理など、とうの昔に死んでいる。四本の足が、墓標を叩く。


「〈放牧園ランド〉と〈飼育員〉の計画は――〈歯磨き係あのこ〉は、アタシやアンタより長生きなんだ。其れなのに、あんなナリをして。創られたんじゃなきゃあ何だってのサ」

「あんなナリなのは、何でです」


 確かに若干はいるが、中身は外見相応だ。寧ろ、我々より年上ならば。何故なにゆえ、斯様な内面なのか。


「汚いオッサンと無垢な美少女、何方どっちが好きなンだ?」

「そりゃあ、後者です」


 此の女史は、ススムのことをオサムと呼んだ。ないススで「オサム」だからと、笑って言われば無理は無い。無理が無ければ道理は通り、斯くしてススムはうなずいた。


「だろう? があったのサ」


 足を止め、振り向きながらススムを見上げる。何処を如何どうして歩いて来たか、辿り着いたのは正面玄関エントランスの趣だった。強化ガラスの自動扉に、外の景色が青々とする。つまり往時の公園側だが、〈隕石衝突DR〉以後は閉ざされている。ススムは勿論、此方こちらを見るのは初めてだった。

 とは言え、と厚い唇が言葉を継いだ。


「アタシの見立てじゃ、〈飼育員〉は〈受け皿〉なんだけど、ねェ」

「〈受け皿〉?」

「其れを確認する為に、ひとツ仕事をしようじゃないか」

「はあ」

「〈歯磨き係あのこ〉は地下の〈浴室〉に向かったはずだ。けど流石にセキュリティが厳重だね。何処ぞの公社と大違いだよ」


 確かに、昇降機エレベーターや階段らしきを通り過ぎて来た。天下無敵の情報室に、抜けられないとは大したものだ。

 でもねェ。羽田は、にやりと口角を引く。


「隙は何処かに有るンだよ」

「こんなに厳重なのに、ですか」

「此の辺は、戦争中むかし、工場の疎開計画があったンだ。其処らじゅう穴ぼこだらけになってる」

「つまり、其の穴から潜るってことですか」

「問題は、屋外に出るってことサ」

「……なるほど」

「ああ、慌てなさんな。抜くと色々、面倒だ」


 再び右手を回すのを、再び羽田に制される。其の左手に、大振りの電話機が握られている。

 当然のこと、抜けば対応指揮局CPへ無線が入る。潮路局だけでは無い。〈非常措置〉の内容は、防衛業務支援系統DOSSを通じ高機能指揮局HQや支社へも報告される。ただの一人の協力社員パートタイマーが、支社の室長おえらいさんと、重要施設に入り込んでいる。そんな情報が何を招くか、面倒事には違いない。

 だからアタシが抜いてあげるよ。受話器を当てて流し目で、そんなようなことを羽田が言った。唇を紅い舌が舐め、ススムの血圧が高くなる。電話が通じた。


「アタシだよ。オサムの、そう、小山内ススムの。そうだ、潮路郵便局の。ああ、DOSSディーオスにアクセスすンだ」


 受器スピーカーから、神経質そうな女声じょせいを聞いた。内容までは聞き取れないが、不正進入アクセスへの反発だろうと想像は付く。


「良いからやンな。アタシの指示だ。――そう、其れでい」


 話し相手をじ伏せて、羽田が受話器を顔から話す。其れを懐に納めると、かちりと軽い金属音。安全装置の遠隔解除だ。

 悪戯いたずらっぽく羽田は笑い、厚着の細腕をススムへ伸ばす。を硬めるのは一瞬で、するすると腿を撫でられる。ススムは羽田に抜いて貰った。


「ありがとう、ございます」

「礼を言われるのも、変な話サ」


 ススムは銃を受け取って、何を言えばいか分からなかった。其れに羽田は苦笑で返す。


「さ、其れじゃあ仕事をしよう」


 羽田の足が踏み出した。

 青くて重たい湿気を吸って、ススムは小さく咳き込んだ。




恐竜の 歯磨き係と 配達員

  森に秘するは 歯磨き係-Ⅰ


          ―完―

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