ばつと下るは 毛深の邪悪-Ⅲ
退路は無い。
其のまま捻れば
右の肩から落ち
鉄が
身体を捻って仰向けに。銃が右手に渡るとき、酷く強引なパスカット。其れに腕ごと組んで敷かれて、反則の笛は聞こえない。
拾う間も無く、もう一体が迫る。左腕でして頭を護れば、慣性で以って背は泥に着く。四肢の
そんな願いも水に流れる。悪魔の下顎、其の切ッ先が、遂に左の頬を裂く。下から上へと紅が引き、雨に
すると、
不貞腐れるように生まれた気持ちを、大きな翼が拭い去る。
見えない力に打ち据えられて、左の個体が泥に埋まった。右手のやつも吹き飛ばされて、空へ逃れんと陸を蹴る。
させるものか。自由な右手で得物を
「だめぇっ!!」
声と身体が押し止めた。〈歯磨き係〉だ。
左大腿、しがみ付いては、がくがく揺らす。
「っ!? おい!!」
「だめなの!!」
逸した機会を悔やんだが、蛇神の来るも早かった。
ぐるりと回り、ふわりと迎う。〈蝙蝠擬き〉の下方から、掬い上げるような
「ね?」
ススムは其れに応えずに、落ちる軌跡を銃口で辿る。重力に引かれ
「「へ?」」
間抜けな声が、間抜けに重なる。〈歯磨き係〉と目が合って、再び
がこん、がこんと無遠慮な音。あれは、落失防止の基本動作だ。「
「……ね?」
「ね、じゃねえよ」
「おーい」
言って手を振る三宅の
其れに大きく手を振り返せば、足から声が這い上がる。
「おともだち?」
「え、ああ、うん。まあ、友達、だな」
同僚と呼ぶか友達か、迷った挙句に後者を選ぶ。
せめて友達ではあって欲しいと、希望の色濃い回答だった。
「ふーん……」
まるで気の無い相槌は、エンジンの音に隠れてしまう。
どろどろどろ、と
「おまたー」
高いけれど、嫌味の無い声。〈歯磨き係〉は疑問符で、左手を足の間に挟む。違う、そうじゃない。
気付いたニャンコが、にゃははと笑う。其の子が、例の。そう言う彼女の背の後ろ、泥の団子が飛び出した。
二、三、空中で身を振るい、茶色い粘性を脱ぎ捨てる。毛と毛の間に
ニャンコの
「
銃口が、ニャンコの眉間を違わず
ぎゅ、と裾が握り込まれて、腰に額が押し付けられる。そして、其れを、引き金にして。
弾倉に残る六発を、躊躇うこと無く解き放つ。鉛に籠めた獣性が、毛深の邪悪を喰い千切る。針穴を射抜く
三発目が
ニャンコは見事な前転を決め、着地姿勢が勝利に映えた。
◇ ◇ ◇
〈蝙蝠擬き〉と比べなくても、
そんなケツァルコアトルスに、「歯磨き」を終えたソルデスが
其れを見ながら〈歯磨き係〉が喧嘩を売った。
「おにいさん、ほんとにともだちなの?」
「……
ニャンコは、そう言う女子なのだ。ススムだからと、どうでは無い。筈だ。
「そんなことより、此れから
「はみがきするよ! したらみんなでかえるから!」
「歯磨き、ったってなあ」
ニャンコの機動車、
「あれ開けっと、大変だぞ」
「うぅー……」
「じゃあさ!」蛇神の
「「へ?」」
再び二人が呆気に取られる。
見下ろす、見上げる、視線が交じり「ああ、でも、そうか」と思い直した。
「でも……」
もじもじ、とする〈歯磨き係〉。
「大丈夫だいじょーぶ! 私も
ニャンコが身体を翻し、目の前に、ついと、しゃがんで見せる。「ね?」と問うては、にゃははと笑う。驚いた風の〈歯磨き係〉も、釣られて思わず破顔する。
追うて撃つのが追撃だから、ススムは好機を逃さなかった。
「歯磨きは、御仕事なんだろ?」
〈歯磨き係〉が、うううと唸る。大小翼竜、男女の人間。誰もが少女を覗き込み、発する答えを待っていた。最後にニャンコと目が合って、決めた心で顎を引く。
歩く様子は、とてとてとして、幼いと呼ぶに相応しい。ケツァルコアトルスの先っぽを、小さい手指が
「ごめん、ラーちゃん。さきかえってて?」
くえ、くえ、と甘えるように
〈蝙蝠擬き〉も、身体を寄せては、ぎいぎい喋る。「うん、いっしょにかえっててね」慈しむように頭を撫でて、貼り付いた泥を其の手で払う。
二体は名残を惜しんだけれど、やがて羽を広げ地面を蹴った。
いつしか雨は止んでいた。
◇ ◇ ◇
「
翼竜と入れ替わり、駆け込んで来た軽四車両。
其の運転席から降りたのは、
「
其の胸にニャンコが飛び付く。
驚いた顔を微笑に変えて、
「無事で良かった」
赤の集配車は茶色と化して、
其れも御構い無しとして、顔を
「ところで、ススムくん。其の子が」
「ええ」
ぽかんとしている当人を置き、短く、目と目で応答をする。
「
胸から顔を上げニャンコが騒ぐ。あれこれ武勇を語っているが、彼女自身も殊勲ものだった。其れは、ススムが語ってやるべきだろう。
だが今は、少女の相手が先だった。
「おともだち?」
「っつうより、上司とか、先輩とかだ」
流石に伊香を友達などと、呼べる勇気を持ってはいない。
「ふうん。じゃあ、おっきいおねえさんだ」
詰まり、ニャンコは(
大小の
蒸発するべき汗が、流れる皮脂が、雨に籠められて濃縮される。其れが水分を伝い鼻腔を
距離を取りつつ、軸をずらしつ、悪の根源に向き直る。〈歯磨き係〉は
「おう、お前ら」
佐藤
「佐藤さん、学校の方は大丈夫でしたか」
伊香は遅れて気付いたが、其れでも最初に声を掛けた。
「ああ。とっとと
「
遺体の処理や、現場の消毒は、役場が担当してくれる。引き継ぐまでが、
「役場には、先生方から話して貰う」
胸ポケットから、紙巻煙草を取り出す。咥える。
使い捨てライターの石が回って、
「
煙を一杯に吸い込む。右の二三指が煙草を挟んで、吐き出す。
「
右手が振って見せたのは、ニャンコの
言い
伊香も納得したようで、微笑のなかの、硬さが抜ける。当然のことと、ススムは思う。負傷してなお、優秀な部下で、気丈な先輩を務めているのだ。重責は、想像するだに余り有る。〈歯磨き係〉に「じゃあ帰ろっか」と掛ける声すら、少し明るい。ススムの
「どっちに乗る?」
「あれがいい!」
〈歯磨き係〉の即答に、伊香は、ふふっと笑って見せる。
「ススムくん、懐かれてるのね」
「いや、まあ、どうなんでしょう」
何か訳も無く恥ずかしくって、伊香の顔が見られなかった。
誤魔化すように少女を抱き上げ、
ススムもシートに納まったらば、ニャンコが後ろを覗き込む。
「此れから宜しくね!」
「うん!」
元気いっぱい頷くどころか、ハイタッチまでして見せた。
〈歯磨き係〉の不思議な素養か、ニャンコの明るい性格ゆえか、其れとも
さあ。帰ろう。
「
佐藤の汚い声がして、各車のエンジンが、其れに応えた。
◇ ◇ ◇
「御疲れさまでした」
助手席で、伊香が言った。傷は痛いと言うより熱い。
運転できない訳では無いが、わざわざ歯向かう理由も無い。窓からは雨上がりの風が入ってくる。生
「おう」
佐藤は短く返事して、左手ひとつでハンドルを握る。
右手はドアに肘を置き、口もとの煙草を摘まんでいる。車内に
ハンドル脇の灰皿を叩く。あれは自前のものだったはずで、此の上司、そう言うところは
「
ルームミラーを、ちらりと見遣る。
伊香もサイドミラーから、後ろの様子を伺った。
「どう動くか」
其れにニャンコも加わって、音は聞かねど騒がしそうだ。
「な」
吸殻を捨てて頬杖で、視線を戻して、そう言った。
窓からの風が煙を払い、意外と
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ばつと下るは 毛深の邪悪
―了―
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