天を分かつは 星屑の流

 伊香いこう 鈴音すずねは、此の場所が好きだ。

 言っても潮路郵便局しょくばは二階建てだから、屋上も大した高さは無いのだけれど。

 沈む陽が、竜の密林を燃やす時間帯ころ。世界が赤から紺へと変わる。

 ぽつぽつと、人の灯りが点き始める。朝日市あさひの発電は潤沢だ。火力、太陽光、加えて地熱。人口激減の需要低下に、地殻変動による供給増加が後押しをした。需給バランスは取れている。


 あの光には、人が居る。

 其れが確かめられるから、伊香は此の場所が好きだった。


「ふう」


 桃色のタンブラーを持ったまま、銀色の柵に身体を預ける。枯草色のブラウスとスカートが、身体の曲線に沿って張り付く。

 柵は幸い高さが無いから、彼女の胸部も座りが良い。手もとで氷が、からんと鳴いた。

 ふちが唇に押し当てられて、褐色の液が流れ込む。えぐい酸味と、下品な苦味。其の香りだけが辛うじて、コーヒーであると主張する。


不味まず


 こくりと喉が動いたあとに、ぼそりと伊香が呟いた。

 現場の味。


 屋上ここは書類上、郵防公社が資材置き場として借り上げている。だから郵政公社の職員は入ってこない。置くべき資材が今は無いから、佐藤やススムも此処は知らない。

 勤勉な彼女が見付けた、彼女だけの個人的領域プライベート・スペース。其れを、背後の扉が開いて侵す。


鈴音すずちゃん、やっぱり此処に居たんだ」


 快活とした、高いけれど嫌みの無い声。

 振り返れば、ポニーテールの小柄な後輩。チェック柄の短いスカートと、オーバーニーソックスの間が眩しい。


惹子ニャンちゃん」


 此処に来るのは彼女しか居ない。けれど来るとは思わなかった。

 つくづく猫みたいなだ。


「まだ帰ってなかったの?」


 背中を預けて伊香が訊くと、


「うん、定形外が沢山あってさ。超過勤務ちょうきんなっちゃった」


 左隣に寄って来て、惹子が応える。


「そっか。御疲れさま、ね」


「ありがとー」


 控え目な胸を逸らせるように、柵に背中を押し付ける。

 首筋から、鎖骨を通って、ボタンを外した襟の下へ。本当に此の娘は不用心で


「見えた?」


「へ?」


 図星を突かれて心臓が跳ねる。声が上擦る。


「や、え、見えてないよ」


 見ようとはしたが見えてはいない。嘘では無い。嘘では無い。


「えー。ちゃんと見てよお」


「な、ちょ、」


 大胆な物言いに、顔が赤くなるのを自覚する。紺に変わった空気の色に、隠れてくれると期待して。

 言葉を絞り出すのが精一杯。


「なに言ってるの」


「なにって。織姫と彦星、ちゃんと見付けてあげようよ」


「え、あ」


 仰け反る姿勢の其のままに、顔だけが向く。

 黒い瞳が瞬いて、まるで夜の空みたいだ。


「ん?」


「ん、ううん、なんでも無い。――あ、あれ」


「どれ?」


 誤魔化すように、天を指す。


「あれ、天の川かな」


「あ、そうかも」


 よく分かんないね、と言って、にゃははと笑う。

 星を見るには、まだまだ明るい。季節が季節で雲も出ているし、そうで無くても潮路市しおじの空は霞が掛かる。満天の星空には程遠い、薄く汚れた屑箱の夜。

 でも伊香は、そんなニャンコの笑顔が好きだった。


「年いちなんて、しんどいよねえ」


「ん……」


 伊香は、何と返せば良いか分からなかった。

 例えば自分が、ニャンコとなったら確かにつらい。でも彼女は、どう思うのだろう。


鈴音すずちゃんには毎日会えるもん」


 ね、と続けて姿勢を戻す。高い目尻が少し下がって、伊香は語尾じぶんを盗られた気分だ。

 どうしたら良いか分からなくて、視線を逃がした。手もとに口を付ける。不味い。


「其れ、アイス?」


 伊香の気持ちを知ってか知らずか、ニャンコがタンブラーを見る。


「うん。飲む?」


「飲む」


 ニャンコの右手が容器に絡む。其れが伊香の指にも少しだけ触れて、ひやりと冷たい感じがした。タンブラーこそ冷たいのだから、きっと自分の方が冷たいはずなのに。

 薄い唇が吸い付いて、細っこい喉がと動く。其れを見て、伊香も口の中のものを嚥下する。


「……まっず」


「配給品だから。ね」


 眉間に皺して苦情申告。苦笑で返す。


「美味しいの、飲みたいなあ」


 タンブラーを返しながら、ニャンコが笑う。


「え?」


 訊き返す伊香に、悪戯っぽい目を煌々きらきらさせる。


「飲ませてよ」


「……此処で?」


 上下左右、視線を泳がす。けれど。


「此処で」


 逃げ場は無かった。食肉目の、捕食者たるを思い知る。

 諦めて、再びタンブラーを口にする。其れを見て、ニャンコは満足そうに目を閉じた。

 褐色の液を口に含んで、器を置いたら鈍い音。今は伊香が器だから、飲み手の意志にて寄せられる。


「ん……」


 ゆっくり近付くタンブラーを、きゅっと細い手が迎えに上がる。両の前肢が腰に絡まる。


「!?」


 目を見開いても遅い。口の方にも御迎えが来る。

 肉のへらじ開けられて、中の汁がと溢れる。


「ん……んっ」


 苦しくて、息が漏れる。

 互いの箆が触れたかと、思ったときには吸い上げられる。


「あっ……ん……んんっ……」


 舌の蕾が、薄い唇にしごかれる。


「ん、あ、」


 決して歯は当たらない。彼女は上手だ。

 口角が白く泡立って、褐色の空に星が輝く。


「う、ん、」


 は余さず撫で回されて、とうとう漸く解放された。


「は、あ……」


 二人の間を粘液が伝う。

 天を分かつは星屑の流。其れに掛かった細い橋。


「んふふ」


 まるでだった。綺麗に綺麗に食べられて、力無く柵に引っ掛かる。


「もう……」


「御馳走さま」


 ニャンコが、ぺろ、と舌を出す。


「美味しかったよ」


 其のまま手甲てこうで口を拭うから、ますます仕草が猫みたい。


「……馬鹿」


 言いながら、今度は伊香から強く抱き締めた。

 夏の夜は短いけれど、織姫たちより時間は有る。


 するり、するりと、二人は互いを確かめ合った。


  ◇ ◇ ◇


「って言う夢を見たんだけど」


「……馬鹿」




恐竜の 歯磨き係と 配達員

  天を分かつは 星屑の流

          人人人

         <おわり>

          YYY

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