ごうとなれるは 雷の竜-Ⅰ
姓は
外仕事ゆえ、肌は潤いを欠いている。短いはずの伸びてきた髪も、毛先が痛んで散らかる始末。なまじ「おさない」と姓にあるから、却って老けても見られる具合だ。加えて疲労の色が濃い。昨日の仕事は流石に応えた。
何せ、散々に叱られたのだ。
兎にも角にも、疲れに疲れた。ゆえに午前は、眠りに眠った。授業の中身は覚えていない。
◇ ◇ ◇
ひんやりとした、地下の空気のロッカー
「はふ」
着替えを済ませて階段を昇る。知らぬ
事務室の扉を
「おー、ススムちゃーん。おはー」
快活とした、高いけれど嫌味の無い声。
其れが背中に
「あっ、
振り返れば、ポニーテールの小柄な同期。内務の
髪の茶色は赤みが強くて、ぱっと明るい
「ススムちゃんさぁー、固い、固いよー」
薄水色した半袖ブラウス、
着崩した
「
シャツのボタンは二つも外して、緩くリボンが垂れている。
開いた襟から鎖骨が覗く。其の下を走る
「あ、そうだった。――ニャンコ、さん」
何だか気恥ずかしくなって、言い淀んでしまう。
覗き込んでくるが、反射的に視線を落とす。スカートの丈は短くて、黒い靴下は膝まで隠す。
「んー。まだ固いけど、」
さらりとした内股の輪郭。
だけれども、ススムには其れで充分だった。見えないものには浪漫が宿る。そりゃあ、
「まあ、良しとしようか」
にゃははと笑って、紺のエプロンを被る。
――袖口の奥、艶めく窪みと下着の留紐。ススムは決して見逃さなかった。
「ススムちゃん、見たでしょ?」
声を潜めて、悪戯っぽく、ニャンコが言う。
「え? いや?」
図星を突かれて心臓が跳ねる。声が上擦る。
「見たと言うか……見てしまったと言うか」
嘘を吐けぬがススムの
が、
「良いなあ、
彼女こそ、当局きっての恐竜
「え、あ」
己の
「……まあ、うん、」
内務作業の区分機と、
ごうんごうんと機械が唸る。
「見たと言うか……見てしまったと言うか」
「また、聞かせてね?」
まるで缶詰を見付けたような、きらりきらりとした大きな瞳。
ぶっちゃけ
「俺で良ければ、勿論」
ニャンコと話すネタになるなら、昨日の死線も無駄ではあるまい。
他人の痛みをツマミにする、其れッくらいは許されよう。どうせ
ありがと、そんじゃまたね、とニャンコは
出会いと別れ。ススムの所属は外務の担当、「集配営業部」。作業台の林を抜けて、部署の奥地へ辿り着く。
さて、出勤簿に捺印したら、間も無くススムの仕事が始まる。
◇ ◇ ◇
郵防公社は集配事務室の一角を間借りしている。休憩から戻った社員や、昼から始業の兼業人で、ざわざわ沸き立つ頃合いだ。
「あら、ススムくん」
ススムに向かって、伊香が微笑む。
其れには勿論、笑顔で返す。
「伊香さん、御疲れさまです」
だが、
「昨日は――其の、すんません、でした」
佐藤は
「もう良いの。ススムくんが無事だったから、ね」
決して、こう言って欲しかった訳では無いのだ。決して。
「……有難う御座います」
「さ。今日の仕事だけど、ね」
「はい」
伊香が話題を切り替える。此れ以上、礼も詫びも言わせない。
こう言うところが、伊香の
「先ずは佐藤さんだけど、支社から御偉いさんが来てるの。先週末の件で、ね」
大概いつも、伊香の隣でコーヒーを
業務日誌を手に取って、周知事項を確認する。
「今日の最終
「火曜日ですし、割と落ち着いてますね」
伊香が、頷いて続ける。
「でも相変わらず誤配の申告は多いから、軒下確認の徹底。其れと交通事故にも注意して、ね」
「はい」
「あとは、まあ、分かってると思うけど――」
ぱさり、と机に日誌を置く。
「恐竜にも、気を付けて、ね」
呆れたように、諦めたように、伊香が言う。
「勿論、です」
其れにススムは苦笑で返す。
「今日は〈
了解です。――と口を開いて、ススムは言葉を
異臭。悪臭。殺意が無いから、なお厄介だ。つもりは無くても、触れたものの呼吸を奪う。
「小山内か」
低い声を上擦らせるから、鼓膜が震える度に不快でしかない。
身長は低いけれど、横に広い体格の所為で小柄な印象は無い。上はススムと同様、紺のポロシャツ。下は緑と茶色が強い迷彩を
「今日は
どんな聴取をされたのか。疲れた
息を吐く度に、コーヒーと、煙草と、排泄物の混ざった
「佐藤さん、御疲れさまです」
「おう」
律儀に伊香が佐藤を労う。
佐藤
胸もとのポケットから、眼鏡を引き出しながら言う。レンズは黄色が入っていて、掛けた
「今日は〈
「はい。郵便ありますから」
〈
「〈
「〈四ツ足〉、すか」
「〈
「地震計……?」
ススムが鸚鵡返しにする。
「ああ、
「データは生物以外の可能性を立証できない。其れも、重量級の、ね」
伊香が素早く補足する。
かつてインディアンは、
ゆえに
「若し見付けたら、
ごとり、と机に鉄の塊を置いた。
「何すか、此れ」
「追跡弾だ。試製品だけどな」
ススムは手に取って眺めてみる。普段の11型けん銃の弾倉と同じに見える。
「基本的には
椅子を回して、背後にあるロッカーの錠を外す。
「生体に衝突すると、其の体液を電力として起動する。一定間隔で電波を発して、大体の場所を受信機に表示する」
がちゃがちゃと金属音を立てて、ススムの愛銃を取り出した。
そうして机の上を指差す。けん銃等授受簿だ。機動車の鍵、書留保管庫の鍵、そう言ったものと同様に授受簿に捺印して受け取るのが決まり。
しかし押す為には近付かねばならぬ。口で密かに大きく吸って、意を決したらば
「受信機、って言うのは?」
伊香が斬り込む。自分の仕事を察知したのだ。
「駐車場に届いてる。調整しろ」
「了解です」
言うが早いか席を立つ。
清潔感ある制服に、今日も胸もとが素敵に映える。
「小山内は配達な。
「了解しました」
一刻も早く離れたかったから、佐藤の物言いも気にしなかった。
荷物を積み込んで、さあ出発だ。と、なったところで戻って来た。
◇ ◇ ◇
今日も空には霞が掛かる。
此の辺りなら、
そんな不味い空気を、ススムは大いに吸い込んだ。肺の貧しさには自信がある。生きていられるなら、文句は無い。
〈境界線〉は高圧の電気柵だが、〈関所〉は二重の鉄門だ。防火扉のオバケみたいな分厚い門が、
そして二枚目の扉が開き、ススムは竜の国へと入る。
◇ ◇ ◇
〈連絡道路〉は、劣化に強いコンクリート製だ。まるで山林を切り分けたように、白い道路が北へと走る。しかし「切り分けた」のは昔の話。今は「くっ付こう」とする森を、押し留めるのが精一杯だった。
そんな苦労を知ってか知らずか、ススムは
ハンドル・アクセルの左側、方向指示器の
低酸素地域でも速度を保つシステムだが、ゆえにガソリン車は専用免許が必要だ。だから多くは電動免許を取るし、生活は其れで充分だった。ただ緊急時の燃料補給が簡便なので、官公庁ではガソリン車を採用している。
垂れ込めるような木々のトンネル、などと言えば何ともメルヘン。だが現実では、そうも行かない。陽当たりの悪さは湿度に繋がる。地面から吸って大気に撒くから、森の下層は空気が重い。
光が無ければ光合成も不可能だ。だが植物も呼吸する。だから酸素の濃度は下がる。此の森は、地上に在るのに溺れそうだ。
登り坂に掛かり、速度が落ちる。シフト・ペダルを踏み込んで
〈
此の往復で、恐竜に襲撃されたことは殆ど無い。何せ、恐竜たちは恐竜たちの生活圏が既に完成している。〈研究所〉よりも、更に「奥」。我らの知らない国がある。
其れでも彼らが「越境」して来るのは、矢張り人が纏まって住んでいるからだ。
坂道を登り切ったら木々が途切れる。ぱっと世界が明転する。
眼下に広がる、黄緑色の絨毯が眩しい。先までの道が暗かったから、余計に光が目に痛い。此の場所はススムの御気に入りだ。
なだらかに続く傾斜の草原。ぽつりぽつりと、二足の小型恐竜が草を食んでいる。群れは群れでも、居合わせただけの集団に近い。密度は低いが、数え切るのは諦めた方が良い。
識別名、〈頬有り〉。
道の近くの何頭かが、エンジン音に気付いて首を
緩く大きな左のカーブ。曲がり切ったら、逆。見渡す限りの平和な風景。
何処までも続けば良い、とススムは思った。けれど、そんなことは無いことを知っている。
其れは、まるで、いつまでも平和が続かないようなものだ。
ごろごろ、と遠くで微かに空が啼く。ふと見遣れば、西の奥の空に黒い雲。山の天気は変わり易い。こりゃあ一雨ありそうだ。
覚悟とも諦念とも付かぬ想いで、再び森に呑み込まれた。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
ごうとなれるは 雷の竜-Ⅰ
―完―
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