朱を喰らうは 異形の竜-Ⅲ
彼らは
ススムは、王様の存在に気付いていた。
何せ全長一〇メートル、重量五〇〇〇キログラムの肉塊だ。頭を隠して殺気を隠せず。だが。
何かが居るのは分かるのに、
「わ! やっぱり
ススムの背後で無邪気な声。腕の中に居た少女は、脇を掻き分け
憧れだった対面座位だが、此れが、どうにも具合が良くない。重いし、痛いし、少なくとも二輪車の運転に相応しい姿勢では無かった。そして。
――
出勤早々、
面倒事とは推測できた。しかし、此れほどとは思わなかった。
目の当たりにしながら、なお信じ難かった光景。〈歯磨き係〉と
「ガルちゃん、どうしちゃったのかなあ」
由来は知れぬが
肩に置かれた両手から困惑が伝わる。
彼女の言うままハンドルを切り、〈境界線〉から遠ざかる。踏み固められただけの
逃走する機動車。追撃する〈三本指〉。ざわめく森から、飛び出す巨竜。
青い竜と、赤い竜。傾く夕陽を背に受けて、大決戦の幕が
◇ ◇ ◇
無論、〈三本指〉とて王者の気配に気付いていた。
其れでも矢張り、
深い草木の合間から、身体が
〈三本指〉にとって幸運だったのは、
直撃を避けた〈三本指〉の左脇、暴君竜の突進が引っ掛かる。青い鱗が弾け飛び、〈三本指〉は玩具みたいに転がされる。
そんなものが飛び込んで来て、地を這うススムは敵わない。車体を倒せばバランスを崩し、急制動で転倒を避ける。一秒後、かつての進路を〈三本指〉の身体が塗り潰す。巻き上げられた
ぞッとする間は無い。アクセルを開く。サイドミラーの中、
「ちょっと!?」
声と同時に、右肩が
「おい馬鹿、やめろ痛い危ない」
「どこいくつもりなの!?」
繊細を極めるハンドル操作が、物理的抗議に堪え兼ねてブレーキに至る。
「何処も何も、此処に居たら踏み潰されッぞ!」
そうと言う間にも〈三本指〉が立ち上がり、揺れは不協の重奏となる。
「そんなわけないでしょ!」
相変わらずの、謎の自信。
だが、そんな訳があるのだ。今の今、
「俺らが化石になっちまう」
竜が石から蘇り、人が石へと封じらる。其れを受け入れ難きがゆえに、鉄の力に縋り付く。
「ボーくんは負けないから」
暴君竜のボーくん。名付け親こそ誰とは知れぬが、どうしてセンスは嫌いで無い。
いや、そんなことより。ボーくんの勝ち負けが問題では無いのだ。
「あのなあ――」
振り返って、言を継げなくなる。
大きな二つの瞳が、大きな二つの竜を映している。小さな二つの白い手が、赤いキャリーボックスの
「ふぇ?」
困惑の声と視線を無視して、ヘルメットを被せる。小さな頭に収まりは悪い。
「……危なくなったら逃げるからな」
「うん!」
いつも通りの、元気いっぱい。此れには、どうにも敵わない。
すると。瞳の中の取っ組み合いから、白い塊が飛び出した。喰らい付かんとて振り解かれた、〈三本指〉から抜けた牙。少女の
真ん丸な目を見開いて、半眼のススムと視線を合わす。ばつが悪そうに口を尖らせ、逃げるかのように視線を外す。柔らかい頬が
呆れたようにススムは笑って、ヘルメット越しに撫でてやった。〈三本指〉の唾液が手に付いた。
◇ ◇ ◇
ぼうくん、とは人が勝手に付けた名前だ。其れでも名前は姿を表す。全長では二メートルの差しか無いが、体重にして二・五倍。小回りにこそ分があれど、引っ掛けられれば
赤い竜が吼える。並の生き物ならば逃げ出すか、或るいは動けなくなるか。だが〈三本指〉は、並の生き物では無かった。此れでも一時は王だったのだ。若い者には負けられぬ。
青い竜が吼える。酷く耳障りな和音が響く。森の鳥たちが、ざぁッと飛び立つ。
ボーくんの踏み込みに、〈三本指〉は身を低くして突っ込んだ。しかし懐に勝機は無い。組み敷かれては煎餅になる。だから〈三本指〉は右側へ――暴君竜の左側面へ抜けた。
青い背中に引っ掛かる、小さい前肢の
〈三本指〉が側面を取った。
踵を返した〈三本指〉が、下顎を落とす。総てを刈り取る、必殺の斧。暴君の脚を巨木に喩え、狙いも違わず振り下ろされる。
そして〈三本指〉は思い知るのだ。暴君の死角が、決して弱点では無いことを。硬い鱗と密な肉に、異形の牙は通らない。文字通り、何をやっても
喰らい付かれた其のままに、赤茶けた脚が大きく踏み込む。剛力で以て引き剥がされて、〈三本指〉は姿勢を崩す。赤い鱗が幾つか飛んで、手斧の刃も零れ落ちる。
〈三本指〉が、
◇ ◇ ◇
打ち伏せた〈三本指〉の頸椎に、ボーくんが牙を剥く。悪鬼の如き肉食竜も、こうとなっては為す術も無い。盛者必衰。弱肉強食。自然の理。
知らず、ススムは目を逸らす。すると、がたんとバイクが大きく揺れる。すわ何事かと踏み留まれば、
「こらああああ!」
夕陽が、白いワンピースを橙に染める。肌も
「ボーくんってばあああ!」
場違いな絶叫が、見惚れそうになるススムを引き留めた。
「だめええええ!」
少女の意思で以て、
〈歯磨き係〉は息を切らせて、其れでも、にっこり笑って見せた。
顔に貼りついた前髪を、華奢な左手が掻き分ける。対の右手は
「よしよし、いいこね」
暴君竜は、ごろごろと喉を鳴らして返事した。
◇ ◇ ◇
「……で、こりゃ一体」
二体の巨竜に囲まれて、ススムは生きた心地がしない。
「何をしてるんだ」
彼女の言うまま、キャリーボックスから彼女の牛乳缶|(のようなもの)を降ろしてやった。
缶の上部は着脱式で、ちょうど水筒の蓋のようだ。其れを外して引っ繰り返せば、小さな
盥が八分目になった辺りで排出が止まる。
「これが、わたしの
てきぱきと、まるで職人のような手捌きを止めずに少女が返す。
「まさか」
缶の側面、
「ん?」
巨大な歯ブラシを抱えて、楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
ざばざばと、毛束を液に漬ける。
「はい、ガルちゃん!
負かされたときの俯せのまま、
「もう! ちゃんと
右手で歯ブラシ、左手は腰。少女が、ふんすと怒って見せる。
ガルちゃんが爬虫類で無ければ、きっと目が泳いでいた。表情の読めないはずの、動かぬ瞳。なのに何だか、ススムは其れを読み取れた気がした。
〈歯磨き係〉が歩を寄せると、ガルちゃんは諦めたように口を開ける。
「うん、いいこ」
満足げに
「あー、もう! また
赤い
「だめなんだよ、もう」
よいしょ、と呟いて地面に捨てる。どちゃっと湿った音がする。圧倒的な鉄の臭いに、融けた蛋白質と、排泄物が混じる。赤黒い粘性の塊から、何だか知りたくもない布切れが顔を覗かせている。
込み上げる
そんなススムを後目に、〈歯磨き係〉が身を戻す。
「もう、終わったのか?」
希望を込めた質問を、
「ううん、まだ、ぜんぜん」
あっさりと否定される。
汚れに汚れた歯ブラシを、盥を満たした液に浸す。ざば、ざば、と軽く
いったんブラシをススムに預け、缶の上部の内蓋を外す。其処へ抱えた盥で以て、赤黒い液体を流し込む。
ボタンを幾つか操作して、缶が低く唸りを上げる。六〇秒ほど、そうしていたか。場違いに、ちんと鳴っては唸りが止まる。
そしてホースを盥に入れる。其処から出て来たものは、無色透明の液だった。色も匂いも、先に出したものと同様だ。
「……此れ、一体どうなってんだ」
「これは〈はみがきセット〉だから!」
両手を腰に当て、ふふんと鼻息を噴いて見せる。
何の答えになってもいないが、此れは
作業に戻る〈歯磨き係〉を見詰めつつ、ススムに
こんな不思議な機械を
何も
思考は
◇ ◇ ◇
どのくらい、そうしていたか。
今や夕陽は際で光って、彼方の森を赤く燃やす。
「はい、おしまい!」
展開したときと同じように、手際良く、がちゃがちゃと〈歯磨きセット〉を収納して行く。
当の〈歯磨き係〉は、ブラシと違って汚れたままだ。肌と言わずワンピースと言わず、赤と黒の染みが
「御疲れさん」
其れでも仕事を
「えへへ」
笑顔が、照れるように、いっそう崩れる。
右手が鼻の下を擦って、顔に汚れが移る。邪気の無い表情が、暗がりに明るい。
「じゃあ、わたしたちは
何処に帰ると言うのか。
おい待てよ、と声にしようとしたときに。
「あ! これ、かえさなきゃ」
言ったものの、顎紐の外し方が分からないらしい。
駆け寄って
何だか目を合わせられなくて視線を落とす。
「なんだか、おにいさんの
「あ……ごめんな」
細い鎖骨の更に下、白い
「汗
「ううん。そうじゃなくって――」
未だ膨らむ気の無い
「っと、外れた」
「ありがとう!」
言うと同時に、白いリボンが
其れに何だか笑ってしまう。気付いた少女も釣られて笑う。
びい。びい。びい。
「ん?」
音は手の中。ヘルメットから。
「あっ、なんか、ずっと
ススムの顔から血の気が引く。しまった。
慌てた拍子で無線を繋ぐ。しまった。
〈おい!
余韻も何も、総て台無し。口の
「あ、えーっと……はい。
そんなススムを見て、〈歯磨き係〉が
そうして、再び破顔して、
「じゃあ、またね。〈はいたつがかり〉の、おにいさん」
ススムの頬に、薄い唇を押し当てた。
目尻が切れんばかりに瞼を開く。見れば彼女は、小さく手を振った。
〈おいこら糞餓鬼、
そして耳元の声が総てを台無しにするのだ。
〈
咳払いを、
「――
ずん、ずずん、と足音が響く。今や、其れすら心地良い。
森へ消え行く、二体と
「〈三本指〉の撃退に成功、〈
いつしか昇った白銀の月は、今日も霞が掛かっている。
其れが照らし出す青い鱗は、さながら
其れに照らされた赤い鱗は、妖しく蠢く紫の
「
そう言って、ススムは一方的に通信を切った。
誰のものとも知れぬ遠吠えが、竜の森に響き渡った。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
―了―
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