朱を喰らうは 異形の竜-Ⅰ
アロサウルス。全長にして八メートルを超える大型肉食竜。
前傾姿勢と細身の体躯で華奢な印象すら受けるが、体重は二〇〇〇キログラムほど。間違いなくジュラ紀の生態系で頂点に在った者だ。
青銅器を思わせる、艶の無い蒼と緑。背に向かうにつれ青が濃くなる其の鱗が、西日を受けて怪しく
種小名に貼られた「
〈ススムくん! 状況を知らせて! ――
ススムのCQを拾ったのは、矢張り頼れる
声の調子こそ気色ばんでいるが、冷静さを失わないのは
「〈三本指〉と遭遇! 現在、上潮路町北〈境界線〉を突破し、2丁目住宅街方向に向け侵攻中!」
ならば彼とて、
「対応指示を願う!! ――
〈私が、先の現場に向かってるところだから〉
何たることか。佐藤は何をやっているのか。
部下に現場を任せて自分はコーヒーか煙草でも
〈其処で合流して、喰い止めましょう? ――
「了解しました! ――
そりゃあ士気も上がると言うもの。
〈……大変な日になっちゃった、ね〉
ふっと通信手では無く、
え、とススムの心臓が跳ねる。
〈あとで御褒美あげるから、しっかり還りましょう。ね。――
潮路の平和を、護るのだ。
◇ ◇ ◇
現場は騒然としていた。白の軽四輪は役場の公用車。灰色の作業着を来た男性三人は、衛生課の人間だ。二人は避難を呼び掛けており、
ごろごろごろ、とスピードを落として近付いて行く。
すると其処に、別のクルマが駆け込んで来た。軽のワンボックス。ススムの愛車と、同じ色が眩しい。タイヤを鳴らして制動し、運転席から華奢な生き物が滑り降りる。同時に
背丈は決して高くは無いが、
西の傾く陽光が、銀縁眼鏡に反射する。眼を細めているから、少しだけ眉間に皺が寄る。普段は見ない表情に、ススムは言葉を失っていた。
「ススムくん、御疲れさま」
口の中、上品な鈴の転がるような。
下がった目尻が、静かな口もとが、困ったように、優しく笑う。
「あ、っと。御疲れさまです」
清潔感の白いシャツ。枯草色のジャケットに、見えぬ使命の火を付けて。ぴちりと纏うは仕立ての良さか、豊かな胸部を揺らさない。
同じ色のスカートは、膝を隠さぬほどだから決して短い丈では無い。だが横に走る
「佐藤さんが坊田局に応援を要請してる。私たちは、到着までの時間を稼ぎましょう」
後部スライドドアを開けて、自動小銃を取り出す。全長で言うと90センチメートルほど。何処か少し古臭い印象があるのは、きっと
「まさか〈三本指〉と
右側面、グリップ上部には「ア・タ・レ・3」と慎ましやかに、けれども白字で主張している。我が国の主力自動小銃、「89式自動小銃」。
「
ハンドガードに限らず
「……来た」
小銃を見たまま、伊香が呟く。
偶然と言え、衛生課職員が居合わせた御蔭だ。殆どの住人が避難していた。
ゆえに〈三本指〉は食事が出来ない。目に付く民家を片端から破壊しては、中を漁っている。
「復興ラッシュで建った家じゃ、足止めにもならないわね」
ススムは初めて思い知った。〈三本指〉が当時最強と謳われる所以を。
奴の下顎は、避けんばかりに開くのだ。ざっと見て九〇度ほど。其の上顎を目標に向けて、まるで
あとは伊香の言う通り。頑丈な前肢も手伝って、ものの数秒で住宅は破壊される。
「ススムくん、怖い?」
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、怖いと言えば本当になる。
「安心して。今日は私が居るから」
ぱん、と細い手がススムの背を叩く。
驚いて振り向いたとき、既に伊香は運転席に
「ね?」
まるでウインクせんばかり、車窓の向こうで首を傾げる。
「……はい」
何と言えば良いか分からなかったし、きっと顔は赤らんでいる。
何と言えば良いか分からなかったから、とんだ間抜けな返事になった。
其れでも伊香は、満足げ。笑顔を作ってくれた。
「じゃあ、行こうか」
〈三本指〉が家を壊し尽くしたところで、
「〈
◇ ◇ ◇
「奴の後ろに回り込んで!」
窓を全開にして伊香が叫ぶ。時速四〇キロメートルで併走しているのに、石鹸の匂いを嗅いだ気がする。否応無しに気持ちは昂る。
〈三本指〉が、可燃廃棄物の集積場を踏み潰す。先の苦労も激闘も、俺は知らぬと言わんばかりに。
ススムは何だか、感傷的な気分になった。しかし其れは、必要の無いものだ。振り払うように速度を加える。
二台は〈三本指〉を左に擦り抜け、連なる住宅の切れ目まで走る。奴は二台を一瞥したが、其のまま食卓を漁っている。そんなことでは困るのだ。喰らい付くのは其方じゃない。
伊香が運転席から転がり出る。左膝を立て、右膝を地に着ける。柔らかそうな膝が、
左手は
ススムもエンジンは掛けたまま、すすっと伊香の脇に付く。兎にも角にも、此方に注意を向けさせねば。其の為に、今は火力を集中するべきだ。
「発砲!」
89式小銃の鋭い音が三点射を決めると、すかさずススムが合いの手を入れる。
たたたっ。がうん。たたたっ。がうん。たたたっ。
五・五六ミリ小銃弾は「人体を」「損傷させる」目的のものだし、
がうん。たたたっ。
其れでも頼るは、此れしか無いのだ。
がうん、がつん。
後退したままスライドが止まって残弾の無しを告げる。
「
撃ち尽くしたススムの声に、
「了解!」
たたたん。
伊香と小銃が短く応えたが、
綺麗な御姉さんが、声にならない声を漏らす。
あの家は避難していなかったのだ。其れに、嗚呼、何てことだ。あれは
口もとには、娘だったものが引っ掛かっている。母親の泣き声。腰から下が、力無く。母親の泣き声。造作の無しに掴まれた、だらりと下がる人形のよう。母親の泣き声。
再び身体を屈めたとき、慟哭は永遠のものになった。
「異形」の名前は形骸化した。
鋭い歯列の断頭台に、
此れをして、異形と呼ぶに、躊躇いは無し。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
―完―
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