だつと奔るは 敏しき奪徒-Ⅰ
灰とも砂とも知れない塵が、昼の日差しを霞ませる。
いつも通りの、好い天気。
「有難う御座いました。また宜しく御願いします」
客は、台詞の終わりを聞かずに扉を閉めた。
取り残されたのは、一人の郵便外務員。
姓は
紺のポロシャツは左胸に、〈日本郵便〉のロゴが在る。スラックスまで同じ色だが、側章さながら淡黄の帯が。
荒れた肌も伸びた毛先も、スラックスから消えた折り目も。はたまた人の話を聞かない客も。彼は気にしていなかった。
彼が気にしているのは、受領の
慣れた手付きで、左腰に在る
思えば
職場は特に、変わった風も無かった。ただ、一昨日のことは誰にも話すなと、臭い口で強く言われたくらいだ。
昨日が日曜だったのは、幸か不幸か。どうやら丸一日寝ていたらしい。らしいと言うのは、気が付いたら今日の朝だったからだ。
遅刻寸前、転がり込んでは学業に励み、午後から職務に努めている。一般的な「模範的高校生」であり「良心的納税者」の姿だ。
いつの世も、月なる曜日は憂鬱のもの。其れでも半日が過ぎてみれば、こんなものよと諦めも付く。
どうせ物事は、成るようにしか成らないのだ。
そう思い直して機動車に戻る。赤の
跨ろうと右足を上げれば、腿に挿した拳銃と、腰に挿した携帯端末とが干渉する。携帯端末の位置を調整して、スターター・レバーを踏み込む。二度目の踏み込みで、排気量〇・〇五リットルのエンジンが始動した。
◇ ◇ ◇
びい。びい。びい。
最後の配達を終えたところで、無線の呼び出し音が鳴る。
あのオッサン、何処かで見てるんじゃないだろうな。
瞬間、上司の汚らしい顔が思い浮かんで嫌になる。
カメラは拳銃を抜いた際にしか起動しないと聞いているが、実際どうだか確かめる術は無い。
機動車を路肩に寄せて、エンジンを止める。
〈ススムくん、聞こえますか? 応答してください。――
無線の雑音越しにも分かる、澄んだ声。
「聞こえています。良好です。――
現金なもので、声の調子が明るくなる。
〈恐竜出現の通報です。位置情報、送ります。――
一拍遅れて、
通報された該当箇所を、地図上の座標に落とし込んだだけの簡単なもの。
位置情報などと言っても、
「確認しました。
直線距離で三〇〇〇メートル程度。五分も飛ばせば到着する。
〈ええ。通報者が混乱していて、他の情報は聞き出せなかったの。現場から情報が欲しいわ。――
「了解しました。現場に急行、現地から情報を送ります。――
〈
其の言葉に、右の下腕が、
深く息を吸って、大きく吐く。大丈夫、大丈夫だ。
そう言い聞かせて鍵を回し、スターター・レバーを踏み込む。
二度目の踏み込みで、エンジンは動き始めた。
◇ ◇ ◇
上潮路町は閑静な住宅街だ。とは言え、潮路地区の大部分は住宅街なのだが。
長方形と曲線が組み合わさった、歪な区画。土地の高低、幹線道路、古い地主、そう言ったものに振り回された成れの果て。此れもまた、潮路地区全体に言える特徴だ。
どろどろどろ、と坂を登って上潮路町2丁目に入る。
〈現在、上潮路町付近に於いて、恐竜の出現が確認されました。住民の皆様は、落ち着いて屋内へ避難して下さい。繰り返します。現在、上潮路町に於いて――〉
防災無線が、町内に響いている。平板に抑えているが、良く通る声質。先ほど無線で話した相手のものだ。
いつだって官僚は縄張り争いが得意だが、諦めた領域に執着しない。誰だって責任は嫌いなのだ。
斯くして恐竜の第一対応は、今や郵防公社の担当業務と成ったのだった。
右折と左折を繰り返し、61番地と交差する生活道路に入る。
後輪を鳴らさない程度に制動し、辺りを見回す。
「ママ、ゆうびんやさんだよ」
「あら、ほんと。御疲れさま、って言ってあげようね」
「おつかれさまー!」
後ろを通り過ぎる呑気な会話。
機動車のエンジン音は割と大きく、周囲の気配を感じられないことは多い。
振り返ってみれば、若い
「あっ、すいません。此の辺りに恐竜が現れたと通報がありまして」
言いながら気にしてみれば、防災無線の声は遠い。
スピーカの増設が必要かも知れない。覚えていたら報告しよう。
「きょうりゅう?」
娘の両手に、ぎゅっと力が入る。縫い包みが揺れる。
「えっ!? 貴方、早く駆除しなさいよ!!」
表情を一変させた母親に噛み付かれる。
引っ掛かる物言いだが、此れとて今に始まったことでも無い。
「ええ。ですから早く屋内に避難してくださいね」
そう言い棄てて、ススムは再びアクセルを開いた。
不機嫌さを隠せなかった気もするが、隠すつもりも無かったので当然だった。
◇ ◇ ◇
「ああ、なるほど」
ススムは声に出して呟いた。
道路の左右には、各
其の柵の一部が破れた、若しくは破られたようだった。〈境界線〉に設置されるものとは違う、安価な非電気柵だ。
五〇メートルほどまで近付いたところで、停車する。道の真ん中だが、エンジンを止める。さながら
機動車を降りて拳銃を抜く。カメラが起動し、無線が繋がる。
「
〈――此方、
伊香の声は、いつも
「上潮路町2丁目74番地、可燃廃棄物集積所にて恐竜を確認。――
ススムの悠長な報告に、
〈了解。数と種類を報告してくれる? ――
少しだけ緊張を解いた声が返って来る。
「〈
〈〈小鎌付き〉? ヴェロキラプトルかしら? ――
二脚で立ち上がる、ほっそりとした体格は如何にも素早そうだ。
全長の半分程度を腱のある尾が占めており、走行や格闘の際には巧みな
背中側を走る、鈍い灰色が金属を思わせる。頭頂部から尾端、前脚や大腿部に宿した羽毛は、量こそ多けれど未だ空を夢にも見ない。
身体同様に細く長い印象を受ける頭部は、大きな眼窩と鋭い牙を備えている。
長い前肢の爪も勿論だが、目を惹くのは矢張り後脚の鉤爪だ。他と画する大型、且つ強く湾曲した鎌状の爪。〈小〉型の〈鎌付き〉――〈小鎌付き〉と俗称される所以だ。
「恐らくは、そうです。――
ヴェロキラプトルなる生物は、せいぜい中型犬ほどの大きさしかない。野良犬は決して安全な存在では無いが、裏を返せば同じ程度の注意で事は足りる。
小さな身体ゆえ、〈境界線〉の電気柵の隙間から入り込むことは珍しくない。
何度も追い払ってる相手だ。大丈夫。
そう言い聞かせたススムの耳に、
〈映像を確認した。発砲を許可する――〉
緩みきった顔の輪郭と、蛙のような広い口が脳裏に浮かぶ。煙草と、珈琲と、排泄物とが混ざった口臭。無線を通して鼻腔に届いた、ような気がする。
一気にテンションが下がるのを自覚するが、耳元の声は頓着しない様子で続ける。
〈〈
「……了解。〈
我ながら無機質な声になったと思ったが、どうせあのオッサンのことだから気にするまい。
〈ほんと、くれぐれも気を付けて。ね。――
通信を取り戻した伊香が、其の終わりを告げる。
彼女の言う通り、気を付けねばならない。いつだって、油断は禁物なのだから。
かちり、と軽い金属音がして、安全装置が遠隔解除された。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
だつと
―完―
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