恐竜の 歯磨き係と 配達員
173
鉄に蘇せるは 暴君の竜
はっ。はっ。はっ。
切れる息が五月蠅い。床を連打する、自らの足音が聞こえないほどに。
はっ。はっ。はっ。
薄暗い廊下。薄くない酸素。全力疾走に、悪くない環境。
『施設内は静かに歩きましょう』
壁に貼られた注意書きと、一瞬で擦れ違う。其れを知覚する熱量すら惜しい。
俺を咎める者は居ない。
忙しかったのだろう。書留受領の
こんな客は全く以て気に入らないが、今や心底どうでも良い。
かつん、と冷たい音が響く。
ヒトが持ち得ぬはずの暗器。強く湾曲した鎌状の其れ。だが間違いなくヒトの姿をしていた。
かつん、と冷たい音が響く。
粟立つ皮膚を置き去りにせんと、いっそう強く両足を動かす。
乾燥した空気が鼻の奥に痛い。出口は近い。
午後三時の陽光が零れている。
転がるように――否、転がりながら悪魔の巣から脱出する。
柔らかい腐葉土、腐った肉の臭い、そんなものが俺の身体を受け止める。立ち上がろうにも身体が動かない。
酸素が足りていない。更に呼吸を荒げてみても、蒸せる空気に
咳き込んでみれば、味すら感じそうな臭気が
反射に耐え兼ねて胃の中のものを吐き出す。胃酸の一部が鼻腔に入り内壁を灼く。
味覚と嗅覚が自分の吐瀉物に支配される。知らず、鼻からは水っぽい汁が、閉まらない口からは粘度のある涎が伝う。
頭が痛い。意識も飛びそうだ。
〈――ない! おい!〉
耳元で騒ぐ中年男性の声が、酷く耳障りだ。
此のまま無視して眠ってしまえば、とても楽なのでは無いか。
〈どうした!
名前を呼ばれて僅かに覚醒する。
なるほど、転がった際に無線が繋がったらしい。
が、どうしたと言われてこうしたと答えられる余裕は無い。代わりに上半身を何とか引き起こす。
右手を気怠く動かせば、腰から伸びる
肘から先だけで手繰り寄せたのは、俺の得物。
首を巡らせば、
場違いに、無機質に、〈
息を呑む声が聞こえる。
現れたのは、ヒトの姿をしたもの。衣服は無い。全身を覆うのは茶色の鱗と、短い羽毛。
頭部は後方に肥大しており、重そうな脳を収容していると見える。
黄土色の眼球は頭部と比しても大きめで、其の中に感情の伺えない縦型瞳孔が走る。
〈
〈小山内! 発砲を許可する!〉
かちり、と安っぽい金属音がする。拳銃の
左腕を何とか動かし、
一歩、一歩、
足先には大きな鉤爪。接地せぬよう、器用に持ち上げている。
一〇〇〇グラムを超える鉄の塊は、今の俺には重過ぎた。
長く、健やかな尾だ。
まるで独立した意志を持つが如く、其れが一匹の蛇であるかのように、怪しく蠢いている。
倒れ込むように、銃を求めて伸ばした右手。其の下腕を、爬虫類の左足が踏み付ける。
鱗の感触は冷たいが、突き立てられた鉤爪は熱い。破れた皮膚から赤い汁が溢れる。
思わず呻いて身体を
脈と共に血液が押し流され、入らない力が更に抜けて行く。
「〈歯磨き係〉は何処だ……?」
目の前の爬虫類が喋った。人語、其れも日本語だ。
理解が追い付かない。動かない脳に対して、入ってくる情報が多すぎる。
口を開閉させてみても、何の言葉も出て来ない。
上下の唇は震えていて、痙攣しているのと差は無かった。
舌は虚しく泳ぐだけで、森に漂う死の臭いを舐め取るばかり。
数秒の後、俺に価値は無いと判断したのだろう。右足が動いて、俺の胸部を押さえ付ける。
肺を圧されて呼吸が出来ない。細く、小刻みに吸気を試みる。今の俺は、もう死んでいないだけの生き物だった。
酸素を失って窒息するか、其れとも鈍く光る鉤爪が臓腑を抉り出すか。
死にたくは無いが万策も尽きた。全身から力が抜ける。再び意識が遠のいて、眠りに落ちるような感覚を味わう。
そんな俺の頬を引っ叩いたのは、今度は汚い声では無かった。
地面から突き上げるような衝撃。多くの樹木が倒れる轟音。発酵した蛋白質を、融かし込んだような臭気。
即ち、得体の知れない何かへの怯え。
そして、岩が立ち上がった。
全身を覆う鱗は爬虫類であることを、頭頂部から尾端へ掛けて生える羽毛は鳥類との類縁性を思わせる。鱗は足先の赤茶から、背中の錆色へグラデーションしている。腹は少し明るくて、背を走る羽毛と似た色をしていた。
そんなことより、問題は其の
骨だけを見て彼らを分かった気になるのは、大きな誤りだ。身体が持つ
齢千年の古木に劣らぬ後脚。体幹から真っ直ぐに降りて、大地を踏み締めている。ヒトとは違う
頭部こそ頑強さ、筋肉の塊だ。頭骨長は
前を向いた両眼は立体視の為と言うよりも、顎の筋肉が発達しすぎた結果、眼窩が前を向いてしまったものだ。
比して小さい前肢などは可愛らしく見えるが、ゆえにこそ頭部と後脚の大きさを際立たせる。
暴君は、巨体に反して俊敏だった。
俺から飛び降りた
頭を二度、三度と振り上げて嚥下を果たす。此のまま去ってくれたらな。願ってみるが、そうも上手くは行かぬもの。
俺の右腕から溢れる鉄の匂いを、空腹な王様が嗅ぎ付けぬ訳が無かった。前を向いた両眼が、俺と見詰め合う。
一歩だけ踏み込んで、口を開く。
悪臭と言うものは、極めれば目や鼻を灼くのだ。呼吸しようにも五感が拒否する。
僅かに残った力で瞼を閉じる。酸素を諦めた身体が、筋肉の収縮に任せて悶える。
回らぬ頭の片隅が、妙な納得をして見せる。逝くのに思い残しは少ない方が良い。
「こら! だめだよ!」
そう、もう俺は駄目なのだ。
肉食恐竜の糞になる運命。今まで、多くのヒトが、そうなってきた。俺だけ、そうならぬ保証など無い。
「このひとは〈はいたつがかり〉さんなんだから!」
胃の中は少女の声が聞こえるものなのか。矢張り、何事も経験してみなければ分からない。
「たべちゃだめなの!」
食べちゃ駄目と言って聞く相手では無いし、第一もう食べられたのでは無いのだろうか。
生きてきた中で最も重たい瞼を開ける。涙と刺激臭に霞む視界。濃緑に染まる世界に、奇妙な彩色。
背丈からして一〇歳ほどの少女。白いワンピースが眩しく見える。其処から伸びる華奢な四肢は、衣服同様に色素が薄い。
黒い髪が蒼すら思わせるのは、白いリボンとの対照が生み出すものか。腰の辺りに届いていて、なお毛先まで艶を保っている。
ぐるるる、と暴君竜が猫のように喉を鳴らす。
ぺちぺち、と少女が吻部を叩く。
「いいこね。べつのところで、ごはんにしましょう」
何が起こっているか分からないし、どうすることも出来ない。
眼球を動かすことと、脳に視覚情報を入れることで精一杯だった。
「あら、あなた」
少女が俺を覗き込む。
「けがしてるの?」
好奇心いっぱい、くるくるとよく動く黒い瞳。
高くは無いが、整った小鼻。薄い唇は健康的な桃色で、大きく開いて笑顔を作る。
「ちょっと、まってね」
俺に言ったのか、恐竜に言ったのかは定かで無い。さらりと彼女はリボンを解く。
拘束を失った黒髪が、ざあっと流れ落ちる。縛った跡の付かぬは若さの証拠。
リボンを手にして、俺の右腕に、しゃがみ込む。
水分を多く保つ、健康的な太ももが布切れから覗く。
「よいしょ」
腕を持ち上げる気力すら無い俺に代わって、彼女が俺の腕にリボンを通す。
ひんやりとした冷たさは、先ほど踏まれたときの其れとは雲泥の差だ。
前屈みになっているから、ふわふわとワンピースの襟首が
そんな俺を知ってか知らずか、少女が渾身の力を込めてリボンを結ぶ。子供の力とは言え傷口に響く。
「がまんがまん! すぐよくなるからね!」
せめて礼を伝えたかったが、矢張り唇が震える以上にはならなかった。
「じゃあ、またこんどね」
軽やかに立ち上がると、黒髪を翻して背中を向ける。
其の一本いっぽんが、午後の陽光を受けてしなやかに踊った。
此の記憶を最後に、俺は今度こそ意識を失った。
そして此れが、俺と〈歯磨き係〉の出逢いだった。
恐竜の 歯磨き係と 配達員
鉄に蘇せるは 暴君の竜
―完―
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