第5話 虫

 若返るのならいいが、老化するなんて聞いてない。


「これ……どうなってんだよ……。俺がなにしたってんだよお」


 手で顔のあちこちを触ってみる。シワにそって指を走らせてみる。スマホをくぱぁするようにシワをくぱぁしてみたが元に戻る気配はない。刻々と刻まれたそれは初老の男性さながらだ。

 急に怖くなってきた。

 見た目が明らかにおっさん化している以上、家族に見られたら言い訳のしようがない。

 不審者扱いされて豚箱になるのが関の山だ。

 これは何とかしねぇとなぁ……。

 自分の身体に異変が起きているにもかかわらず、俺は極めて冷静に考えていた。

 ちょっと前までエロ真っ盛りの中学生の身体をしていたのに、ものの一時間足らずで目算三〇歳は歳を重ねている。そういうことか。

 俺はどういうわけか人生を達観していた。

 精神は高校二年生なのにもかかわらず、身体の機能的には歳相応になっているらしい。

 たとえるならば、自慰行為をしてもしてもしたりなかった中学生のオナ猿が、セックスをしてもしても許される悟りを開いた父親になったようなものだ。

 要するに俺は落ち着いていた。


「戻ることを考えよう」


 言い聞かせるように独り言をつぶやいて、思案を巡らせる。

 俺はさっき、しぐれが高校生になるであろう日を想像した。

 それは俺にとっても未来の出来事であり、年数では二年後の未来であるはずだった。

 先刻、二年前の風呂を想像したときは身体がその頃のものに退化していたわけで。

 同じ条件が適用されるのなら、今回は二年後の俺、すなわち元の俺に戻るはずだった。

 しかし、今の姿は二年をはるかに超えたオヤジとなってしまった。


――なにかがおかしい。


 想像するということがポイントになっているのはわかるんだがその法則がつかめねえ。

 IQ180超えの俺の頭を持ってしてもわからないとなると人類の命題にしてもわからないんじゃないかって思えるレベル。

 想像力の――――。


「おにーちゃーん。お風呂あがったー? 勉強おしえて欲しいんだけどー」


 ふと、隣の部屋からしぐれの声が聞こえてきた。壁をドンドン叩いている。

 音に驚き、肩がぴくっと反応する。我ながら無様だ。

 うるさいやつだな。一声で沈めてやろう。

 腹に力を込めて、声帯からいつものように声を出そうとした。


「……ぉ、あっ!」


 声が、違った。

 若かりし頃の溌剌とした威勢のよいイケメンボイスは消えている。

 今の俺の声はじゃがれただみ声だった。

 返事ができない。

 やばい。ピンチだ。冷静といえどこの状況はまずい。こういうとき、アニメならどうするか。

 俺はとっさに江戸川コナンと名乗り、父親が探偵をやっている蘭の家に転がり……こまねぇよ! だけど、コナンにでてくる声変えるアレ、どっかにあったよな確か。スマホアプリの『コードレス変声機』とかいうやつ……。

 俺はとっさに机の上においてあったスマホを手に取り、例のアプリを起動した。

 そして声の周波数を若そうな男にダイヤルする。

 出すぞ。


「おめぇ今オレのことパシりに使おうとしてやがったよなぁ!? ガキの分際で調子のってんじゃねえぞこら!? 処女膜から声出ねえように穴開けてやろうかおらぁ!!」


「…………」


 自分でもわからない。なぜこんな言葉を口走ってしまったのか。

 沈黙の妖精がしばしの間室内を飛び回り、静寂が訪れる。

 窓の外からは夏の夜を満喫するセミの鳴き声だけが響く。

 隣の部屋から声が消えた。しぐれの存在感がなくなった。

 異常が起きている俺の身体のことだ……。もしかしたら手を下さずに人を殺せる能力にも目覚めているのかもしれない。ノートを使わずに殺せるのだとしたら、もはや最強の少年漫画が書けるんじゃないでしょうか?

 んなわけない。今のはさすがにまずかった。この部屋にしぐれが来たら一巻の終わりだ。

 そうです。考えているとそれは現実になる。どっかの偉い本でも言ってたよな、引き寄せの法則だっけ。

 ――きやがった。

 隣の部屋の扉を開ける音が、俺の鼓膜を振動させる。


 ところで、夏の夜は部屋の窓は開いているものだよな?

 蚊の存在なんて知るか。とにかく開いているといってくれ。

 俺の知る限りじゃ、窓開けっぱなしで虫刺されがひどいって言ってる女子が過去にいた。小学校時代の話だけどな。

 その女子が言ってた話なんだが、蚊に襲われそうになったら奴らから逃げようとするのではなく、殺そうとするでもなく、共存するのがいいのだそうだ。

 いきものは大事にしなさいとその女子は日頃から言っていた。

 そうだ、大事にしねえとな。

 しぐれ、ごめんよ。さっきはわけのわからないことを叫んでしまった。怖かったよな。すべてはおにいちゃんの責任だ。まだ高校二年だけど、この姿を見たらおまえは頭がおかしくなってしまうかもしれない。理解できないだろう。だからこうするしかねえと思うんだ――

 しぐれを大事にするために、こうするしかねえと思うんだ。

 俺は、窓際に駆け寄った。

 開け放たれた窓から外を見る。

 よくあるよなこういうシーン。特撮なんかで窓から飛び出すシーン。やるっきゃねえだろ。

 だが、ここは二階だ。下に降りる術がない。

 いや、でも行けるかもしれない。今の俺は体細胞分裂を何億回も繰り返したであろう大人の身体を持っている。高校生の身には辛いだろうが、今ならいけんじゃねえか?

 ――それに、俺には秘策がある。

 もししくったとしても、それを使えばなんとかなるはずだ。

 いこう……。

 窓に足をかけ、下を見る。そんなに高くない気がする。

 I can fly!


「行ってきま~~~~~~~~~~~~~~~~す」


 俺は夏の夜空を舞うセミに乗じて、空中へ飛び出していた。

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