梅の湯WAR

ほしのかな

梅の湯WAR

 男には『絶対に負けられない戦い』がある。


 それが何かと問われれば、大抵の人は恋愛や仕事だと答えるだろう。

 あるいは宗教や教育や信念だと言う人も居るかもしれない。

 まあ、確かに女は大事だ。良い女というのはその存在だけで全てを活性化させる。細胞も思考も人も、組織でさえも例外では無い。

 仕事が無ければ生活は成り立たないし、教育が無ければ就ける仕事も限られる。

 宗教と信念については──何も言うまい。この二つに限っては肯定も否定も示さない事が正解だ。

 これは、俺が長い社会人生活で学んだ事の一つだ。

 話が逸れたが、とにかく俺の言いたいことは『人生には人それぞれ多種多様なフィールドが存在する』って事だ。

 フィールドの数だけ戦いがあり、戦いの数だけ戦法がある。

 どうしても譲れない“何か”を見つけた時、男は戦士へ変わるのだ。


 近代的なビルの合間に取り残された様に佇む古い日本家屋。

 過去には同じような建物が軒を連ねて居たのだろうが、今となってはいっそ唐突ささえ感じる程に場違いだ。

 背の高い建物に挟まれたその姿は少し窮屈そうで、なんというか……そう。電車で両サイドを気の強いギャルに挟まれたハゲ親父の様な哀愁がある。

 通勤電車の中で俺はその羨ましさに──いやいや、その切なさに何度涙を飲んだことかわからない。

 脇目も振らずに時間の上を闊歩しているサラリーマンの行列を抜けると、俺は逸る気持ちを抑えてその建物の前に立った。

 時代遅れな古い建物。

 ネオンもなければ原色の看板も無い。

 流行なんて気にしたことも無いような垢抜けない建物。

 けれどもどうだろう。

 こうして近づいてよく見れば、その印象は一変する。

 しっとりと落ち着いた佇まいに、何処か懐かしい壁の匂い。目に優しい木製の掛札が、静かにその存在を主張している。

 俺は緩めていたネクタイをきゅっと締め上げると、ゆっくりと視線を上げた。

 上等な瓦屋根からすらりと伸びるコンクリートの円柱。

 梅の花の紋が描かれたそれは、赤み初めた空を背負い、俺を見下ろしている。

「今日も良い眺めじゃないか」

 ビルだらけのオフィス街にひっそり佇む銭湯梅の湯。

 そこが俺の戦場だ。


 煙突と同じ家紋の入った紅梅の暖簾をそっと押し分けると、湿気を含んだ空気が肺を満たす。

 むせ返るカビの匂いが鼻をくすぐり、反射的に俺の心臓は早鐘を打った。

 匂いと記憶は切っても切り離せないものらしい。人間の感覚の中で、嗅覚は一番深く記憶と結びつくからだ。

 すっかり忘れていた思い出も、その時と同じ匂いを嗅げば思い出すというし、異性を落とすならデートのたびに同じ香水を着けて行った方が成功率が高まるという。

 とどのつまり。

 俺の恋心はカビと密接な関係を築いてしまった訳である。

「いらっしゃい!」

 土間をコンクリで埋めただけの玄関で、ぼんやりとそんな事を考えていた俺を、張りのある瑞々しい声が呼び戻す。

「やっぱり宮川さんだ。今日も早いのね」

 女湯の方から駆け寄ってきた少女は、濡れた手をエプロンで拭いながらにこりと笑った。

 どこか抜けたような彼女の笑顔は、時代のひずみに捨ててきたビル街の時間を集めて紡いだ様なこの銭湯によく似合っている。

「やあ。茜ちゃん。まだ準備中だったかな」

 俺は更衣室を見渡す振りをしながら、ちらりと茜の顔を盗み見た。

 高い位置で一つに結わった綺麗な黒髪。くりくりと大きな瞳は仔犬の様につぶらだ。低めの鼻にぷくりと厚い唇。柔らかそうな肌は少し日に焼けている。

 何度見ても、可愛い女だと思う。

 俺の不躾な視線に気付かぬまま、茜はよいしょ、と番台に手をかけた。

 毎度毎度律儀な事だ。

 小銭を渡すだけなんだから、いちいち丁寧に番台に上がらなくても良いのに。そう思いながらも俺はその言葉をあえて言わないでいる。

 全ては踏み台が男湯側にあるのがいけないのだ。

 Tシャツとホットパンツから覗くすらりと細い手足は、健康的な色気を持って俺の視界をチラついている。

「いいえ。もう終わりましたから。直ぐにでも入れますよ」

 視線の高さで揺れる尻が──もとい、掛け声と共に番台に上りきった茜が言った。

「いつも悪いね」

「とんでもないです。こちらこそいつもありがとうございます」

 茜は俺の渡した小銭を数えると、小さなプレートのついた鍵をそっと木製の番台に置いた。

「貴重品入れはしっかりロックして下さいね」

 お決まりな台詞に頷きかけて、俺の体はぴたりと止まった。

 眉根を下げて笑う彼女の瞳が、意味ありげに瞬いたからだ。

 不吉な予感が胸を過ぎる。

 俺は彼女の困ったような笑顔と、番台に置かれた古びた鍵を交互に見遣った。

 鍵についた銀のプレートは裏返り、俺の気持ちなど存ぜぬといった風に背を晒している。

「まさか……」

 俺は不安を振り切るように、引っ手繰る程の勢いで鍵を掴んだ。

 ちゃり、と小さな音を立ててて俺の手の中に納まるそれは、少しだけ冷たい。

 古い扇風機がたてる低い機械音がいやに耳につく。

 俺は喉を鳴らして唾を飲むと、握り締めていた拳をゆっくりと開いた。

 “弐”

 銀のプレートは極めて無慈悲にその事実を突きつけた。

「本当に僅差だったんですけど」

 茜の申し訳なさそうな声も、今の俺には届かない。

「くそっ!」

 蹴り捨てるように靴を脱ぐ俺の背に「ごゆっくりどうぞー」と茜の陽気な声が降り注ぐ。

 俺は転がり込むように木棚の前に駆け寄った。

 衣装籠の入った木棚は殆どが空だった。

 けれどもひとつだけ。

 右上の角の籠の中に、綺麗に畳まれた服が入っている。

 “壱”と書かれたその棚に悠々と収まるその服は、まるで俺を見下ろしているようだ。

 持ち主も今頃湯船につかりながらほくそ笑んでいるに違いない。

 そう思うと心の奥が揺れるようにふつふつと怒りが込み上げてきた。

「畜生。あいつ生意気だぞ」

 そこは俺の指定席だったのに!

 俺は怒りに任せて手早く服を脱ぐと、不本意ながら“弐”の番号が振られたそこへ放り込んだ。

 隠すものも隠さず、俺は仁王立ちで戸を開ける。

 ついつい力が入り、曇りガラスを埋め込んだ戸がぴしゃりと音を立てた。

「煩いですよ。もう少し静かにしてもらえませんか」

 湯気の立ち込めた浴室に、忌々しい声が反響する。

 声の主に視線を遣れば、浴槽のふちに肩肘をついた男の姿。

「今日も私の勝ち、ですね」

 男──水瀬健一は口の端を上げてそう言うと、すこぶる尊大な態度で微笑んだ。

 せせら笑う様なその表情も、この男がやると絵になるのだから余計に腹が立つ。

 俺は男の言葉を無視して、風呂椅子に座ると蛇口を思いっきり捻った。

 勢い良く出たお湯が、瞬く間に洗面器に溜まっていく。

 奴に一番風呂を取られ続けてもう何日経つだろう。数えるのも癪だが、軽く二ヶ月は越えている気がする。

 不毛なこの一番風呂争奪戦は一体いつまで続くのだろうか。

 やっぱり奴をここへ連れて来た事が間違いだったのだ。

 それまで、梅の湯一番風呂は──茜と一番に話をするのは、この俺だったのに。

 俺は洗面器一杯のお湯を頭からざぶんと被ると、浴槽に飛び込んだ。

 そのまま、奴から出来るだけ離れた場所に腰を下ろす。

「はぁー」

 胸まで湯に漬かれば、搾り出されるような声が漏れた。

「親父臭いですよ」

 という水瀬の言葉も軽く無視──出来るわけも無く。

「誰が親父だ。誰が。俺が親父なら、お前も道連れだろうが」

 強張った体の筋を伸ばしながら言い返す。

「肉体の年齢と精神の年齢は必ずしも一致しないものです」

 水瀬はゆったりと足を組み替えながらそう言った。

 気取った様なその一挙手一投足何もかもが気に入らない。

『水瀬さんってまるで物語から抜け出たように素敵ですよね』

 いつだったか茜が言ったその言葉。

 思い出すだけでムカつくことだが、確かに、こいつの言動にはずいぶんと芝居がかっている所がある。

 この十数年共に働いてきた俺でさえ、奴の考えていることは分からない。

 一体何が目的で、俺の一番風呂を奪うのか。

 まあ、茜の話をした途端に連れて行って欲しいと言い出した所をみると、彼女目当てには違いないのだろうが、どうにもこう……本心が見えない──いや、見せまいとする部分があるのだ。

 大体、だ。

 一体全体どうしてこいつは、剥げかけた富士山の絵を背負って、親父臭いと称する男の前で、格好をつけているのだろうか。

「お前……」

「何ですか」

「案外、間抜けだよな」

「……どういう意味です」

 怪訝そうに柳眉を寄せる水瀬を今度こそ無視して、目を瞑る。頭にタオルを乗せて肩まで浸かれば、じんと暖かな痺れが広がった。

 風呂は少し熱すぎるくらいの方が調度良い。

 俺がこの梅の湯に通うようになったのは、この容赦のないお湯の温度が気に入ったからだ。

 最近はあちらこちらにスパだのスーパー銭湯だのが乱立しているが、どこもかしこも湯が温い。変わり風呂やサウナなど設備は充実していても、肝心の湯があれでは風呂に入った気がしない。

 その点この梅の湯のお湯は最高だ。

 肌が痺れるほどの温度に、昔ながらの簡素な造り。

 このご時勢に薪炊きの銭湯を見つける事が出来たのは、本当に幸運と言っていい。

「可愛い看板娘もいる事だしなあ」

 ぽつり零した俺の呟きを、水瀬が拾った。

「宮川さんは本当に茜さんの事が好きなんですね」

「んー。まあな」

「茜さんのどこが好きなのですか」

 その問いに俺は少し驚いて、目を開く。

 こいつがこんな事を聞くなんて珍しい事もあるもんだ。

「どこって言われてもなぁ……」

 改めて言葉にするのは難しい。

 頭を捻る俺に、水瀬はどこか険しい視線を向けている。

 まあ言ってみれば恋敵な訳だし、当然か。

「そこまで敵視しなくても、今のところ分はお前にあるだろう」

 水瀬は一瞬驚いた様に眉を上げると、小さく微笑んだ。

 何だ、今の笑みは。勝利の微笑みってやつか。本当にどこまでもムカつく奴だ。

 どうせ俺は茜に『素敵』だなんて言われた事は無い。そんな言葉が似合う面じゃないってことも、ちゃんと分かってるつもりだ。……が、悲しいものは悲しい。

 俺は、茜の笑顔が好きだ。

 一日中働いてどれだけ疲れていても、あの屈託の無い微笑みを見れば、あっという間に力が湧いてくる。

 そして茜の声が好きだ。

 少し高くて甘いあの声で名前を呼ばれる度、カビの力を借りずとも俺の心は律動する。

 夢みたいな話だが、いつか結婚して一緒になって同じ家で暮らせたらいい。あいつが俺のために夕食を作って帰りを待っていてくれるのなら、どんな仕事だってぱぱぱっとこなして真っ直ぐ家路に着くだろう。

そうして休みの日には二人でテレビを見たり買い物に行ったりするのだ。

「そうだ。宮川さん今週の休み空いてます?買い物付き合って欲しいんですが」

「お前な。変なタイミングで変なこと言うなよ」

 未来予想図が書き換えられただろうが。何が悲しくて幸せな未来にお前を組みこまにゃならんのだ。

「……そんなに変なことを言ったでしょうか」

「やーいい。お前が悪いんじゃない」

 俺はため息と共に胸いっぱいに広がった夢を吐き出す。俺の未来予想図は儚い湯気となって、瞬く間に霧散していった。

「それで、どこに行くんだ」

「電気街へ」

「おお! いいな。俺も新しいノートパソコンが欲しい」

「それでしたら良い店を知っていますよ」

 嬉々としてその店の事を話す水瀬の顔は、生き生きとしている。

 こいつはこんな笑い方も出来るのか。いつもの様な含んだ笑みじゃなく、裏を感じない純粋なその笑顔は、まるで茜のそれと同じだ。

 俺の中の苛立ちはすっかり身を潜め、いつの間にか気持ちまでもさっぱりとしている。

 やはり風呂は素晴らしいものだ。


 風呂を上がり身を整えると、俺はガラス張りの保冷庫からコーヒー牛乳を取り出した。

「開けましょうか」

 見計らったように茜がピックを持ってやってくる。

 本当に気が効く子だ。

 感心して茜を見下ろしていると、水瀬が割って入るように瓶を突き出した。

「あ、水瀬さんはフルーツ牛乳派なんですね」

 茜は気分を害した風も無く、フルーツ牛乳の蓋を開けてはにかんだ様に笑った。

 何だその表情は。俺の時にはそんな顔しなかったじゃないか。

 これはもう間違いなく、決定的な敗北なんじゃないだろうか。

 思わず目頭を摘むと、茜は瞳を煌かせ少し恥じらいを含んだような声で言った。

「あの、宮川さんと水瀬さんって、その……お付き合いされているんですか」

「……は?」

 一体この子は何を言ってるんだ。

 そして、どうしてお前はそんなに満足そうなんだ、水瀬よ。

 俺の戦場には思わぬところに伏兵が潜んで居たらしい。

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梅の湯WAR ほしのかな @kanahoshino

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