小話①

【ディモの話】





自分はルビウス帝国第三皇子エンゲルハルトの狗である、とディモが言ったのは、カルステンが屋敷に連れてこられたその日の晩であった。

あの後結局村人に簡単な挨拶だけ済ませたカルステンは、このエンゲルハルトの個人所有なのだという屋敷の門を、ほぼ連行のような形で潜ることになった。道中馬車内のカーテンは締め切られていた為、勿論ここまでの道はわからなかった(特段そこに問題はないが)。



屋敷に着くとエンゲルハルトはすぐに姿を消し、カルステンはディモと一緒に屋敷の中のとある一室に通された。ディモは「ここが今日からお前の家だ」と言い、この後の空いた時間に持ってきた少ない荷を解くなり何なりするように進言した。カルステンはといえば、突如与えられた大きな部屋__何を隠そうカルステンの実家より広い__に驚いていたのだが(後にこの部屋が屋敷の中ではこじんまりとした方だということを知り愕然とする事になる)、反応の鈍いカルステンを見て、ディモは片眉を上げた。


「ぼーっとするのは構わないが、一先ずお前のこれからの生活について話すぞ」

「あ、あー、ああ」


ぼやけた返事になってしまったのは申し訳ないが、お察しの通り部屋の大きさに惚けていたのは村人故と許してほしい。

ディモは一つ溜息をつくと、話を切り出した。


「お前には此処で、まずある程度の教養を身につけてもらう。護身術に関しては、まぁ特段急ぎでどうこうする程ではないが、一村人たるお前には殿下に付き従うに当たって全く知識が足りていないからだ」

「ああ、それは、そうだろうな」


何度も人生を繰り返しているとはいえ、カルステンはディモの言う通り所詮一村人に過ぎない。街に働きに出た時もあったし、薬剤師として薬草関連の知識を極めようとしたこともあったが、一般的な学というものに触れた事は未だかつてない。大陸を統べる帝国の第三皇子の狗ともなれば、それ相応の知識が必要とされるのはカルステンでもわかっていたし、それが自分に欠けていることも理解していた。


「来年の四月には、殿下と共にエルツ学園に入学してもらうことになっている。それまでに一定レベルは超えてもらうぞ」

「えっ」


しかし次に告げられた言葉を聞いて思わず短く声が漏れる。疑問符を伴った声色だった。


「なんだ、自信がないか」

「いや、自信とかではなくてだな、その……初耳なんだが」

「何がだ」

「学園やら、一緒に入学やら」


己はエンゲルハルトの召使いとなるべくここに呼ばれたはずではなかったか、と首を捻るカルステンに、ディモは薄く笑う。


「私はエンゲルハルト殿下の狗だ。そして、お前も先程殿下のお言葉を受けたその時からまたあの方の狗なのだ。私達は、かの人に付き従い、かの人の意思が尊重されるべく裏に表に動く。私達にはそれぞれ与えられた役目があり__お前の場合はそれが、これだ」


一度言葉を区切ると、ディモはカルステンの目をじっと見た。そこ仕草がどこか彼の主人エンゲルハルトのそれと似ていて、カルステンは二人の付き合いの長さを感じた。


「エルツ学園は完全に独立した組織だ。……明言こそされていないが、私はアレは最早国家のようなものではないかと思っている。あの学園には侍女や従者は出入り出来ん。このルビウス帝国の皇子であってもだ。かの人のそばにいる為には学園に入学する必要があるが、あの学園の対象年齢は十六歳から十八歳に限られている。そして、私達狗の中にお前を除いて年頃の人間はいない」


成る程な、とカルステンは頷いた。正確な年齢こそわからないが、確かにディモは学園に入学できる歳ではないだろうし、誤魔化しが効くような顔立ちでもない。

カルステンがここに来る事になったのは、偶然の出会いと、エンゲルハルトの気紛れの所為であったはずだが、どうやら多角でのメリットがある契約が成立していたらしいと気づいてカルステンは感心した。


「わかった」

「よし」


その後、ディモは内緒話をするような小さな声で、そっと付け足した。


「狗は殿下の命令には絶対服従が基本だが……学園内においてのみは、お前と殿下の関係は"学友"ということになる。これは私の勝手な願いではあるのだが、かの人は友人というものに恵まれなかった方であるから、学園内では変に距離を取らず、詰めず、普通の友人のように接して欲しいと思っている」


まぁ、お前は素でそれをやりそうなタイプではあるが。とそう締めくくったディモの、静かに伏せられた目が、生前の母のそれと重なって見えたので、カルステンはただ「なるほどなぁ」とまた一つ頷いたのだった。





***

【眼鏡の話】





「そういえば、カルステンは目が悪いのかい?」


連れてこられた屋敷の、与えられた部屋で課題をこなしていると、不意に後ろから声がして、カルステンはびくりと肩を揺らした。振り返って確認すると、やはりそこにはエンゲルハルトがいて、カルステンは溜息をつく。現役で無い今となっては、気配察知も気を張っている時にしか役に立たず、こうやって突然背後を取るエンゲルハルトに対してカルステンが驚いた回数は既に片手を超えている。


「急に背後をとるな、と言っただろう」


そうカルステンが恨みがましく言うと、エンゲルハルトはにこりと口角を上げた。


「僕は、僕に命令するなと言ったはずだよ、カルステン」


相変わらずよく出来た人形のように美しい少年は、カルステンに向かって傲慢に言い放つ。まぁ、主従関係というか、雇用関係にある間柄の二人ではあるので、エンゲルハルトのその態度もそうおかしなものではなかったが。


「それで?」

「なんだ」

「質問には一度で答えてくれ、カルステン。お前は目が悪いのか、と最初に聞いたろう」


カルステンは眉をひそめた。エンゲルハルトの言葉に苛ついたからとかではなく、単純に疑問があったが故だった。


「俺は今眼鏡をかけているだろう。目が悪くなければ、かけないと思うが」


何故今更改めてそんなことを聞くのか、と言外に尋ねると、肩を竦められる。エンゲルハルトは、少々パフォーマンスが大きいタチであって、そこら辺はカルステンの性格にあまり合わないな、と出会ってからはや一週間何度も考えたことがまた頭をよぎった。


「あのね、カルステン。お前が僕に言いつけられた勉強をする時に変に眉を寄せたり、休憩の時に眉間のシワをほぐすような動作をしていなければこんなことは聞かないんだよ。

つまりさ、僕が言いたいのはね、カルステン。お前はもしかしたら両の目それぞれの視界の明瞭さが違うんじゃないかってことさ」


言い終わったエンゲルハルトは、やはり音も立てずにカルステンのいる机の方へ歩いてくる。

カルステンはといえば、(そういえばそうかもしれないな)なんて考えていた。確かに今カルステンがかけている眼鏡は、元々家にあったもので、おそらく祖父母のどちらか__カルステンの母は目は良かったので除外される__がかけていたと思われるものだった。年が十になった辺りだったと思うが、急に視界が悪くなったカルステンは、箪笥にしまい込まれていた眼鏡それを勝手に拝借したのだった。

言われてみれば、右目の視界が少し悪い……というか、右目だけやけに疲れるな、とは思っていた。


「それはわからない……が、その可能性はあるな」


チラと考えた後カルステンがそう答えると、エンゲルハルトは優しげに一つ頷いた。


「実はね、カルステン。お前がそう言うだろうと思って、屋敷に技師を呼んでいるんだよ」


だから、行っておいで。そう言ってエンゲルハルトが指さした先にはディモが待ち構えており、カルステンは溜息を吐いた。

何処まで読まれているのだろうか、この男に。


(まぁ視界が良くなるなら別にいいか)


カルステンはディモに連れられて、未だに慣れない大きな屋敷を歩きながら、もう一度溜息を吐いた。




後日完成した片眼鏡__どうやらカルステンは左目だけが視力を落としていたらしく、右目は一般平均のそれと同じだった__をかけて黙々と課題をこなすカルステンの姿を、エンゲルハルトが酷く満足そうに見守っていたとか、いなかったとか。





***

【歌の話】





る、るる、る


声変わりを終え、普段は硬質な印象を持たせる声が、何処か甘えたような、楽しげな色を含んで口ずさむ。

意外に思われるかもしれないが、カルステンは歌うことが好きだ。もっと正確に言うと、歌が上手だった母の、その優しい声に合わせて口ずさむのが好きだった。母が亡くなってしまった為、もう__少なくとも今生では__叶うことはないが。

最初の最初、一回目の人生を歩んでいたカルステンの幼い頃の夢は旅芸人だった。旅芸人になって歌を歌いながら母と二人で世界を旅するのが夢だった。あの小さな村で、カルステンを慈しみ、いなくなった__母曰く生きてはいるらしい__父をただ待つだけだった母を、あのひたすら他者に優しかった人を、もっと大きな世界に連れ出したかった。世界に二人だけでもカルステンは構わなかったけれど、母は外の世界も好きだったようだから。その為に強くなりたい、と幼いカルステンは切に思っていたのだ。

まぁ、そんな思いは母が亡くなってから全てあの男を憎む気持ちに変わっていったが。再婚相手の男がこの世で一番憎いと言っても過言ではないカルステンだが、顔さえ知らない実父の事もまた、恨んでいた。何故母のそばにいてやらなかったのか。何故一度だとて母に会いに来なかったのか。何故母の墓参りにすら来ないのか。そばにいてやれば母は幸せでいられたろうに。会いに来てさえやれば寂しさに打ちひしがれた母があの男と再婚することもなかったろうに。死後だろうが顔を見せてやれば母はそれだけで喜んだだろうに!

そこまで思って、カルステンは短く息を吐いた。もう全ては終わったことで、考えても栓のないことだった。もし何処かの人生で出会うことがあれば一発殴ってやろうとは考えていたが、現在のカルステンの目下の目標は"今生こそは二十歳の誕生日を迎えること"で、それ以上先のことは考えたこともなかった。夢、なんて持つだけ無駄だと、身にしみているから。


いつだったかの人生で、母が「カルステンの瞳はお父さんそっくりね」と微笑んだ、グリーンの目をそっと伏せ、カルステンは口を開く。ただ母を想って、母のよく歌っていた歌を口ずさんだ。



『翡翠が世界を包む


その時にはきっと


またあなたに会えるはず


きっとあなたに会えるはず


赤と青が大地を照らし


黄金が燃える頃


全てが終わってしまう前に


どうかどうか会いに来て』

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