間章『天使の子』

女神は無から大地を創り、空を創り、海を創った。そして最後に天使フェリガを生み出して、この世界を去ったのだと言う。静かな世界に一人残された天使フェリガはまずに大地に息を吹きかけ、そこから色とりどりの植物が芽吹いた。次に天使フェリガの背に生えていた羽から、様々な種類の動物が生まれた。そして最後に、天使フェリガの流した血から、人間が生まれたのだ。


と、まぁ、そんな昔話がある。

それは遥か昔から世界の創造神話として語り継がれたものだ。女神教を殆どのヒトが信仰しており、神聖サフェリア皇国彼女の声を聞いた人間をトップに据える国が存在し、当たり前な話ではあるが信仰の一環として一日二回の礼拝や賛美歌が存在したりする以上、この世界で生きる上で関わらずにはいられない話である(ましてや農村では女神に豊作を祈る祭りなども存在する)。だが、あくまで昔話であるので、普通に生きていくだけならそこまで気に止めるものでもない。

そうだ。エンゲルハルトも、本来ならば宗教を生活の一部にし、生きていくはずだった。

それは、エンゲルハルトがこのルビウス帝国に生を受けなければ、の話ではあったが。

ルビウス帝国は大陸の半分を収める強大な帝国だ。その歴史は古く、人に信仰心の芽生えし頃より、と自称する神聖皇国と肩を並べる。古来より伝わる伝承には『帝国の祖先は全てを拒絶する白銀の羽と、揺らめく紅玉のような瞳を持ち、大地に降り立った』と記されていた。

全てを拒絶する白銀の羽と、揺らめく紅玉のような瞳、それ即ち天使フェリガの事であり、彼は自らより生まれ落ちた民をまとめ上げ、このルビウス帝国を建国した。初代皇帝は晩年、「自らの血を濃く受け継ぐものに自らの帝位を譲る」と言い残し、この世を去ったのだ、と伝えられていた。

つまり、ルビウス帝国は万物の祖たる天使フェリガを父に持ち、彼の血縁によってその帝位を受け継がれてきたのである。



さて、エンゲルハルトが生まれたのは一年はもう終ろうという晩だった。

輝かしく偉大な歴史を持つこの帝国に生まれた彼には、兄が二人いた。帝位継承権第一位を持つ赤い瞳の兄と、辛うじて継承権を持つ腹違いの兄だった。

赤い瞳の兄は次期皇帝としての期待を一身に背負い、神童と名高い少年だった。出来が良く、カリスマがあり、しかし驕らず、他者にも寛容な、輝かしい帝国の未来を感じさせられるような、そんな少年。

しかし元気な産声を響かせたその赤子もまた、伝承に伝わる天使フェリガを思わせる赤い瞳を持っていたことで、話はややこしい方向へと進んでいくことになる。

揺らめく紅玉の瞳の赤子は、大きくなるにつれてその才を明らかなものにしていった。生まれて七日で言葉を話し、一ヶ月で自力で立ち上がることに成功し、その一週間後には歩き、そして一歳になる頃には完全に大人達と会話ができるようになったのだという。


(流石にそれは言い過ぎだろうに)


当の本人はそう言って苦笑いをするけれど、大袈裟な話のせいで彼の世間でのイメージは第一皇子以上の完璧超人だ。おまけに彼が美しい白銀の髪をしていたものだから、巷で彼は天使の子フェリガ=ラ=ドールと噂されていた。

その容姿のせいで、周囲には良からぬことを考える輩も多く集まってきた。賢い第一皇子の代わりに幼いエンゲルハルトを次期皇帝に、と考える輩だ。彼らの言い分としては「瞳しか受け継がなかった第一皇子よりも、見目そのままに伝承に伝わる天使フェリガその物である第三皇子の方が皇帝に相応しい」とのことだった。


何が見目そのままに、なのだろうか。この時代に生きている人間で……いいや、仮に魔族を含めたとしてもだ。天使フェリガを見たことのあるものがどれだけいるだろうか。そもそもの伝承の信憑性は? エンゲルハルトが周囲を見る目は酷く冷めていた。



周囲からの畏怖の視線や悪意の目に晒され続け、半強制的に部屋に引きこもることになってしまった幼少期のエンゲルハルトの、唯一の趣味は芸術鑑賞だった。美しいものを目に映すことで、世間の醜悪さから逃避していたかった。しかし、そう上手くいかないこともある。

陽の光によって輝きを変える白銀の髪に陶器のように白く滑らかな肌、色付く薔薇色の頬、血のような揺れる紅玉の瞳、それらが完璧な配置で卵型の顔に収まっていた。華奢なラインの四肢はしかしスラリと伸び、指先まで嫋やかだ。そんな一級の芸術は、いつだってエンゲルハルトが鏡を覗き込めばそこにあった。これは自己陶酔的な主観での認識ではなく、周囲から送られる甘言と周囲の人間の己との比較等を吟味した上で下された客観的な事実としての認識である。

一級品に囲まれ磨かれたエンゲルハルトの目は元々薄かった周囲の者への興味を更に薄くしていく。第一皇子派閥の過激派からの暗殺なども度々仕掛けられたりはしていたが、その頃には大方揃っていた彼の狗と、皇帝陛下より賜った領地で暮らし始めていたエンゲルハルトにとってはいなすのもそう難しくはない。しかし、未だ継承権を放棄してはいないとはいえ、一領土の領成人し次第継主である承権を失う自分に何故まだ構うのか、と彼は首をひねっていた。皇帝陛下及びかの人の血縁の間では、第一皇子が次の皇帝になることはほぼ決定事項のようなものであったのに。



その日も、エンゲルハルトは美術品を見に遠出をした帰りに、第一皇子派閥の者であろう者達に追われていた。

正直そろそろこういった追っ手にはうんざりしていた。どうにかしてほしいと第一皇子にも伝えてはいるのだが、毎回苦笑いで「善処する」と言う兄も心苦しそうで、此方としても申し訳なくなる。抑圧は反乱を招くものであるからして、故に抑えつけ過ぎるのもよくない。兄は既に十分派閥の貴族達に言い含めていて、それでも継承権第一位とはいえどまだ皇子の身である兄の意見を聞いてなお止まらない過激派が存在しているのもまた事実だった。これ以上を要求するのが多忙な兄の負担になることを理解していて、それでも文句が言える程エンゲルハルトは子供になれた試しがない。暗殺だのなんだのいっても、所詮はその多くが脅しでしかないものだと理解してしまっていて、単純にエンゲルハルトが追い払うのが面倒だというだけなのだから、最悪放っておいても問題はない。上にあげなくても、何ら、問題はないのだ。


追っ手達の雰囲気がいつもと違うと思ったのは狗の筆頭であるディモと分断された時で、その時になってようやく追っ手が神聖皇国の者だと気がついた。

(情けない話だよ、全く)

エンゲルハルトは自嘲するように低く笑った。その時に不意に、本当に急に、何か惹かれるものを感じて、エンゲルハルトは事前に決めていたディモとの落合場所を無視して馬車を走らせていた。


走らせて、走らせて、辿り着いたのは林の中だった。あまりにも焦ったものだから、馬車のタイヤが外れてしまった。おまけに馬まで逃げ出したものだから、エンゲルハルトは思わず溜息を漏らした。

(馬鹿か、僕は)

焦りは禁物だと、理解していてこの様だ。情けないにも程があるな、と思って、エンゲルハルトは取り敢えず馬車の外の気配を探った。

一先ず追っ手はまだ追いついておらず、こちらに近づく気配が一つあるだけだ。敵意も感じないし、と思って声をかけると、声変わり後の男の声が実に嫌そうなトーンで返ってきて、エンゲルハルトはバレないようにクスリと笑ったのだった。



そして、その人の目を見た時、エンゲルハルトは確かに「これを見るために生まれたのだ」と悟ったのだ。


今まで見たどの芸術作品よりも美しいグリーンの瞳を食い入るように見つめて、エンゲルハルトは口角を上げる。

(これ・・が欲しいな)

手に入れることができたら、この溜まりに溜まった鬱憤も晴れるような、清々しさに出会えるような、そんな予感がしていた。

(性格は見た感じ僕好み、言葉遣いも何処と無く文語調なのが面白いし、見た目だって悪いわけじゃない)

逸らされることのない瞳にこみ上げてきた愛おしさを覆い隠すように、意識してにこりと微笑む。


差し出した手を掴まれた時、彼の人生にもまた新しい何かが始まろうとしていた。






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天使の子エンゲルハルトは微笑んだ

__(出会__ったば__かりな__のに)__(運命__みたい__だね)______

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