真夏日の洪水

かにはら

あっという間の出来事だったのかもしれない。

密度の高い、夜の湿った空気が、通りを走る車の音をどろりと伝え合っていた。『今日から明後日にかけては真夏日・・・』最後まではっきりとは聞こえなかった。深夜のラジオが気の早い夏の訪れを告げていた。




開け放した窓から一匹の羽虫が入ってきて天井からつるした蛍光灯の明かりに吸い込まれていった。虫の行く末を少しだけ案じた。ほんの少し虫を哀れに思った。その虫に自由意志はなかった。




ベランダに置いたつっかけを履いて外に出た。草の落ち着かない匂いと湿っぽい土の匂いが僕の肺をいっぱいにした。ベランダの手すりに寄りかかって、忘れられたポケットからくしゃくしゃのタバコの箱を取り出した。やはりくしゃくしゃのタバコを一本、注意深く取り出すと火をつけた。




今年の夏はうんと暑くなってもらわなくちゃな、と僕は思った。


街灯が誰もいない道を明るく照らしている。


真夏日の昼間に、外に出た生き物がみんなフライパンの上のバターになってしまうくらいには暑くなってもらわなくちゃあな。こんな世界はどうだろうか。




『今!我々人類は歴史的な瞬間にたちあいます!あれほどあった南極大陸の氷が!たった今!私たちの眼の前で全て溶けてしまおうとしています!信じられない暖かさです!あぁ、ついに!なんてことでしょう!南極の最後の氷の結晶が溶けてしまいました!』と叫ぶのはアロハシャツを着たTVリポーターだ。額の汗を手の甲でぬぐっている。南極ロケでも衣装にアロハシャツを選ぶほどの暑さなのだ。南極グマの真っ白な美しかった毛並みが泥だらけになる様子が画面いっぱいに映し出された。




南極グマ?




南極にクマなんていない。これはプライヴェートな想像に過ぎない。


いつかその水が、家の錆びた蛇口からぽつぽつと一滴ずつ垂れるところを想像した。その雫は少し青みのかかった色をして、小ぶりなダイアモンドのように艶かしい輝きを放っている。人差し指の先端にのせて舐めると、少し鉄の味がした。






白色の煙とため息をいっぺんに吐き出した。まばたきをする間に、煙は真空のような暗闇に吸い込まれて失われてしまった。ため息の残りは肺の奥に挟まってとうとう出てこられずにいた。




ゴウゴウと大きな音を立てて長距離トラックが走り去っていった。


そのトラックと一緒にどこかへ旅をしたくなった。




ロクでもない舗装路を200kmばかり走った後、高速道路に乗って、ピンク色の橋を渡って、黄色の尖塔を見上げて、灰色のコンクリートのビルを一瞥し、紫色の公園を通り過ぎて、銀色の小学校と金色の中学校を通り過ぎたところでトラックは止まった。


紫色の公園から小学校へ行く途中で、極彩色のバッタの飛び回る背の高い草むらと、アメンボとおたまじゃくしばかりいる大きな水溜りを目にした。緑と青の渦巻きが頭を占領した。それらは混ざりあってもそれぞれの色の鮮やかさを失わなかった。どの色を注視している時でも、他のすべての色も同様に視覚に刻まれた。身体中の細胞がうごめいているのを感じた。さっきまでの心臓はさっきまでの脳で、さっきまでの胃はさっきまでの肺で。精神の蜜で満たされたこの肉体がさなぎだったことを思い出して、変身を始めようとしているのかもしれなかった。青と緑の渦巻きは、だんだんと回転のスピードを速めた。演奏隊のドラムロールのことを思い出した。その回転の放つ音は決まった間隔で鼓膜を振動させた。それは神経に段階的な興奮をもたらした。渦巻きの中心へ向かって流れに身をまかせる。台風の目からは極彩色の光が溢れている。渦巻きの中心に向かっていた。中心はすぐそこまで迫っていた。




流れの中で体をよじらせた僕の目は、渦巻きの中にいるもう一人の僕の目をまっすぐに捉えた。


君は僕だ。と渦巻きの僕が語りかけた。僕は二人いた。


あんな夢を見たから、ともう一人の僕が言った。こんな夢を見てる、と僕は言った。


夢じゃない、ともう一人の僕は言った。そこで目が覚めた。


僕はベランダの柵にもたれかかって眠ってしまっていたらしい。虫刺されのあとが少しむず痒かった。


朝もやが、山と空の境界線から浸み出した太陽の光を受けて黄金に輝いていた。




僕はポケットのタバコをとりだして、いつかのように火をつけた。



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真夏日の洪水 かにはら @kanihara_west

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