美紀さんとスイーツ

「ちゃんすよ」

 美紀さんはたまにこの言葉を口にする。

 標準語では「ちがうんですよ」。それが関西弁の「ちゃうんですよ」になり、さらにあせった美紀さんが早口になって「ちゃんすよ」になる。

 つまり今、美紀さんはあせって何かを否定している。

「そろそろ着く頃だよね」

 「ちゃんすよ」

「美紀さんおすすめの、ケーキが美味しい店、だっけ?どこ?」

「ちゃんすよ」

「最初に言ったけど僕、この辺の土地勘ないからさ。早く案内してよ。日が暮れちゃうよ」

「ちゃんすよ……」

 僕が言葉を発する度に美紀さんの額に流れる汗の量が目に見えて増えていく。季節はまだ六月の初め。あいにくと空は曇りで湿度は少し高いが、汗ばむほど気温は高くない。

「迷ったんでしょ」

 核心を突く僕の一言。

「ちゃんすよ」

「何が違うのさ」

「いや、その、ちゃんすよ。その、私かて、前に二回くらい来ただけなんです。しかもその時は友達と一緒やったし。でも、私的にはもう道覚えたつもりで。でも、ねえ、ほら、そういうことってあるやないですか」

「うん。それを巷では「迷った」って言うんだよ」

「……ごめんなさい」

 僕は小さくため息をついた。迂闊だった。美紀さんが方向音痴。十分に予想できたことだ。なんとなれば、今までの行動やら何やらを総合すると地理に明るい方がむしろ違和感がある。二時間前の僕は何故、彼女を信じてしまったのか。彼女がすいすいと見知らぬ路地を抜けて知る人ぞ知る隠れ家的ケーキ屋さんにたどり着く姿を、本気で思い浮かべていたのか。

 先ほどから僕らの歩く道の両側の風景は、住宅、住宅、変な事務所、住宅、アパート、空き地、月極ガレージ、住宅、住宅、空き地、という順序をおおむね崩さずに展開し続けている。そこには決して彼女が二度訪れたという「ケーキ屋」も、その目印であるという「くすんだ色の金属製スフィンクス」も見えてこない。だいたい何だ「くすんだ色の金属製スフィンクス」って。

「どないしましょ」

 えらく無邪気な仕草で美紀さんが小首をかしげて言った。

 あわてて目を逸らす。どないもなりまへん。僕はここがどこかも分かりまへん。

 携帯はさっきも見たが圏外だった。地図ソフトは使えない。残された道はただ一つ。

「帰り道が分からない以上、適当に歩き回るしかないでしょ。たぶんそのうち大きい道路か、ケータイの電波が入るところに出るよ」 

「いや、それはそれとして」

 今、美紀さんが何か不可解なことを言った気がする。

「ごめん、聞き間違いかな。今、それはそれとして、って言った?」

「いやいや、聞き間違いとちゃいますよ。言いました。言いました」

「え、うん。……え?」

「せやから、とりあえず家に帰るには適当に歩き回るしかない。それはそうです。せやけど、それはそれとして、この口」

「くち?」

「そうです。この口ですよ。ケーキ食べるモードになったこの口。これをどないするかが、目下の最重要課題やないかと」

 あきれた。

 道に迷ったまま日が暮れるより、ケーキ受け入れの体勢が整った口の処理の方が美紀さんにとっては重要らしい。

「ぼっくんは、どない思います?」

 美紀さんがまた小首を傾げて聞く。

 今度はうっかり直視してしまったのであわてて目を逸らした。正直、僕は美紀さんのこの仕草が苦手だ。直視するとどうもドギマギしてしまって調子が狂うのだ。恐らく美紀さんの顔が無駄に整っているせいだろう。

 これでもし僕の本名を呼ばれていたら、下手をすれば好きになっていたかも知れない。しかし、「ぼっくん」。高校生で一人称が「僕」なのが珍しいという理由だけで美紀さんは会ってからずっと僕をこの名で呼ぶ。幸いなことに、全く思い入れのないこの名で呼ばれている限り、僕の心が美紀さんになびくことはない。

「とりあえず、それも歩きながら考えない?」

 そして、僕らはまた歩き出した。

 同じような配列パターンの住宅街をひたすら歩いていく。美紀さんはきょろきょろと何かを探している。僕はすでに件のケーキ屋にたどり着くことをあきらめているが、美紀さんはまだあきらめていないか、もしくはそれに替わる店を探しているのだろう。

 何度も曲がり角を曲がった。数百メートルは歩いた。

 全く大通りに出ない。全く電波も入らない。

 西の空はそろそろ、夕焼けで赤く染まり初めている。全く土地勘がない場所だが太陽の位置から方位だけ分かるのも皮肉なものだ。何の役にも立たないのに。

「あああああああっ!!」

 僕の少し後ろを歩いていた美紀さんが、不意に声を上げるとともに走り出した。僕を追い越したその背中は、住宅と住宅の間の空き地に吸い込まれていった。

 続いて

「よおおおおおっし!!」

という声が聞こえてきた。まるで屈強な漁師が荒れ狂う日本海で大物を一本釣りしたときの様な、やけに威勢のいい声だった。

「何?どうしたの?電波入るとこ見つけた?」

 空き地の中で立ち止まった美紀さんに僕が小走りで追いつくと、美紀さんの背中から「ふっふっふっふ……」と、不気味な笑い声が聞こえた。

「ぼっくん!もう心配いりまへん!これを見てください!ジャーーーン!」

 そう言って振り返った美紀さんの口からは紫色の花が三輪、顔を出していた。

「……は?」

「ほらほら、手ぇ出してください。手ぇ。はいドサドサドサーー。これを、ほら、こうやって、中の雄しべと雌しべ取って。はい、口にくわてください。そうそうそう。はい、吸うて!!」

 美紀さんのなすがままに紫色の花を口にくわえさせられ、僕は息を吸った。

「甘い」

「でっしゃろ?でっしゃろ?ほな、これを本日のスイーツとします!花の蜜!大自然の天然ジュース!いやー、さっきからどっかにこの咲いてる気ぃしてたんですよ。見事的中やぁ!うふふ。私のことは今日からスイーツハンター美紀て呼んでください!うふははははは!!」

 胸を張って高らかに笑う美紀さんの全身が、周囲の景色と一緒に夕日の赤に染まっていた。

 それをただ眺める僕の口の中には花の蜜の粗野な味がまだ残っている。

 あたりに響く美紀さんの声。だんだんと僕の心も軽くなっていくのが分かる。

 僕は小さく笑った。なんというか、かなわない。

 もしかして、この感覚の虜になって、僕は二ヶ月近く美紀さんの近くをウロウロしているのかもしれない。

「ほーらほらほら!ぼっくんぼっくん!よー見といてくださいね!今から四個同時吸いに挑戦しますよ!あ、そや、これ何個同時に吸うたらギネスブックに載る思います?……ああああっ!!」

 沈みかけの夕日に照らされ、さっきよりも真っ赤になってはしゃぐ美紀さんが、また不意に声を上げた。騒がしい人だ。

 美紀さんの視線は、空き地のはす向かいの、それも僕らの歩いてきた方角とは逆の方向にある一角に注がれていた。

 その土地は、真ん中より道路側の部分が全て細かい砂に覆われていた。そして真ん中より後ろに建っているのは。きれいな四角錘の建造物。まるでピラミッドだ。ピラミッド?

「あったぁぁぁぁぁ!」

 美紀さんが諸手を挙げて叫んでいる。

 よく目をこらすとピラミッドの前面に作られた入り口付近に、金属製のスフィンクスが置かれていた。が、完全にピラミッドに存在を食われてしまっている。なぜこちらを目印にしたんだ。

「さあ、さあ、ぼっくん。はよ行きましょ!遅くなりましたがついに、我々は絶品ケーキの店にたどり着いたんですよ!」

「本日のデザートは花の蜜じゃなかったの?」

「は?こんなもん、ゴミですやん」

 そう言うと美紀さんは、口にくわえていた花を「ペッ!ペッ!」と地面に吐き捨て、さらにそれを記憶から消し去ろうとでもするかのように足で踏みにじった。残酷なり。スイーツハンター。

 美紀さんが夕焼けの中、一目散にピラミッドの方へ疾走する。

 夕焼けの中。

 待てよ。

 よく考えれば、僕らはまだ、迷子のままなのだ。ピラミッドの中でケーキを食べて、店を出たら恐らく周囲は、真っ暗。視界良好な日の高いうちですら迷ったのだ。これで日が沈んだら……。

 僕は時計を確かめた。美紀さんとケーキ屋を目指してから今でだいたい二時間。帰りはいったい何時間迷うことか。

 急いで美紀さんを止めようとしたが、すでに美紀さんの姿はピラミッドの中に消えていた。

 しかたない。食後の運動だと思ってあきらめるか。

 腹をくくった僕もピラミッドに向かって歩き始める。

 ピラミッドの入り口のドアには店名のプレートが取り付けてあった。

「ファラオケーキ」

 本当に美味いのかよ、ここ。

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